第10話
「エトス様は、お酒は飲まなくていいんです?」
桃色の髪を夜空に揺らして、白い学園の吹き抜けの大理石廊下を弾むような声で。踊るようにリリィ嬢は言う。楽しいのだろう。
「……僕は、未成年ですので」
それを聞いて、またクスクスと笑う。
「あら? 殿下達だって未成年ですよ?」
「殿下はー……、殿下ですから」
困った末に、理由にならない答えで応える。事実、そうなのだ。はぐらかすように問いを返す。
「リリィさんこそ、飲まなくてもよかったんですか?」
「ふふんー、わたしってば聖女なので!」
フンスと鼻息を吹き、両拳を腰に当てて慎ましやかな胸を張った。白い服がひらりと揺れて、かわいらしさをさらに演出する。
かと思えば、右手で口を隠して偽悪的な目をする。少女のそんな顔は、悪そうでもなくとてもかわいらしいだけだ。
「と言いつつ、一杯だけいただいちゃったのです」
今度はにひひと笑う。そんな顔と仕草を見て、エトスは珍しく愉快な気持ちになった。
「悪い人ですね、リリィさんは」
言ったが、少し前の姉とのやり取りを思い出す。そして愉快な気持ちになってしまったことに、自分を責めて外を見る。青い髪と瞳を、月が照らす。
聖女リリィは、一瞬それを見て切なそうな顔をする。
「……そうですよ~。わたしは悪い女なのです! そんなわたしの味方をしてくれるエトスさんも殿下も、フーゴさんもコレロさんも、イザーク師匠だって、悪い人なんです!」
エトスは、そんなわけがないと笑ってしまう。
物心ついてから少し前まで、自分がこんな風に女生との会話を楽しめるようになるとは、思ってもみなかった。
彼女の意外な動きに、意外な言葉に、戸惑い引っ張られ、結果笑ってしまう。
子どもの頃は、優秀過ぎ、正しすぎる姉に、羨望と少しの嫉妬を胸に抱きつつ陰に隠れていた。いや、今ならわかる。……彼女を憎んでいた。
姉が優秀さを失い、行動も姉らしからぬ、貴族らしからぬようになってからも、彼女を憎んでいた。どうして正しくもできないのだと。
そして、姉が正しくても間違っていても憎んでいる己が目に入り、怒りを感じた。
僕は姉に、どうあってほしいというのだ、と。
壇上で吐いた言葉は、嘘でもないが正しくもない。
「夜風が、気持ちいいですね」
確かにそうだ、としか言えない言葉に頷く。笑わせられ、心地の良い夜風に心を持っていかれる。彼女に感情を持っていかれる。
落ち込みそうになっている自分を気遣って、目を美しい月夜と夜風に向けさせてくれる。
――そうだ。惚れているのだ。
決して口に出せない思いを、歯で噛んだ。
誰が見ても、魅力的な女性だった。話していない女生徒からも思いを告げられ、遠目で憧れられる己がこんな思いを抱くとも、想像が出来なかった。
それでも、殿下が思いを寄せている女性に何を言えるだろうか。
わずかな酒精に誘われているのか、踊るように、たまに回りながら大理石を先を歩く聖女を、目で追う。
そろそろ女子寮が見えてくるだろう。
別れ難い思いが、沸々と胸に湧く。それでもやはり、言葉にも行動にも起こせるわけはない。
リリィ嬢は機嫌良さそうに、鼻歌を歌い始めた。いつしかエトスの胸中はリリィのことで満たされ、姉への昔の恨みや今の憎しみ、姉のこと自体が小さくなっていった。
ただ夜風に吹かれ、月に照らされ、目を閉じて聖女の鼻歌に耳を傾けた。
その内に、女子寮の前に着いてしまった。……別れ難ささえ忘れてしまっていた。
急襲する寂しさの中、鈴のような声が聞こえた。
「……エトス様」
目が覚めたような気さえして、振り返って己を見ているリリィ嬢に視線を返す。
エトスは己が、どんな表情をしているかわからなかった。捨てられた犬のような顔をしているかもしれない。
「…………」
何も言葉は浮かばなかった。リリィ嬢はただ微笑みを浮かべた。
「わたしを、守ってくださいね?」
背筋に電流が走った気がした。それか、と。
家も立場も忘れ、聖女の手元に跪いて右手を取った。白く小さな、かわいい手にキスをする。
「当然です」
――そうだ。きっと僕は、リリィさんを守るために生まれてきたのだ。
言って、右手を手離して立ち上がった。もう、捨てられた犬のような目にはなっていない。しっかりと、己よりはいくらも小さいリリィ嬢へ視線を返せているはずだと思った。
月が、己だけを照らしている。
そう確信して踵を返した。振り返って歩き始めたが、聖女の視線を背中に感じていた。
また思い出すのだろう。しかし今は、姉のことはもう忘れていた。
――僕は大丈夫だ。
月が己を照らしている間は。
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