第三話 講演会
何度かの深呼吸の後、千早はアパートの部屋のドアを開けた。
目を突き刺す日差しによろめき、千早はすぐに太陽に背を向ける。
日陰者には辛い日差しだったが、チケットを注文した講演は今日である。日差しに負けて部屋に逃げ帰るわけにはいかない。
「ふぅ、はぁ……」
ドアに手を押し付けて、千早は覚悟を決めて――日陰を歩きだした。
日陰を出ると、ふらふらと次の日陰を目指していく。
これから、講演という人が集まる場所へ向かうという意識が千早の足を鈍らせている。
ふらふらふらりとたどり着いた新界第七区の講演会場は需要に合わせて小さな建物だった。
収容人数五十人前後。会場というよりも小さなビルの一室だ。
甘城農業開発総合グループが主催するこの講演は小さいながらも農林水産省が絡んでいるグループの主催だけあって分かりやすい説明のできる教授を招聘してのモノだった。
講演会場の端に座り、隣の席にさりげなく鞄を置いて誰も近付かないようにある種の結界を張っておく。
席の七割が埋まったらどかそうと思っていた鞄をどかす必要もない空席具合。
それでも登壇した教授の話は本当に分かりやすかった。
講演内容は「新界における地球原産農産物の栽培実験ならびに市場流通への取り組み」というもの。
地球原産であっても、新界で栽培した農産物にはどんな健康への影響があるか分からないため、現在のところは地球への輸出は行われていない。このため、農産物での資金獲得が難しく、研究の妨げになっている。
千早は自分の依頼掲示板と照らし合わせてなるほどと頷く。
地球への輸出ができないのは大きな障害だ。農地を作っても、農産物を消費する人間がいないのでは経済活動に繋がらない。
アクタノイドの電力確保を目指してバイオマス発電も研究されているが、利用できる作物は限定的だ。医療作物などはバイオ発電からも弾かれて、利用されにくい。
国が研究費用に援助してくれないとの愚痴を挟んだ後、仮に新界から地球へ輸入した場合の弊害について説明してくれる。
どうやら、新界から地球へモノを持ち込むことによる弊害の事例として、いくつかの細菌被害や新界産の植物による特定外来生物による被害、新界植物とのかけ合わせによる遺伝子組み換え植物が実験場から持ち出されたことによる遺伝子汚染など、洋の東西を問わず問題が発生している。
新界と一括りにしてはいるが、各国に異世界を割り当てている都合上、問題が発生すればその国が独自に対応しなくてはならない。
基礎研究がおろそかな状態で問題が発生すれば、対応も後手後手に回って隣国にまで影響が及ぶ。その賠償金は非常に大きく、国家間戦争に発展するケースもあり得る。
幸い、日本国内ではこういった事例が起きていないものの、海外の被害状況がなおさら、日本国内における新界産物品の持ち込みを忌避する世論を作り出している。
道理で、栽培実験などの報酬が渋られるわけだと千早は頷く。利益が出るか分からないのに賠償金を背負う可能性がついて回るのだから、協力者への報酬も少なくなる。
研究費用が湯水のように湧くのであれば、こんな悩みも消えるのだろう。
これらの世論を回避している事例として、教授が甘城農業開発総合グループの取り組みを上げた。
新界原産の植物を地球にて無菌室での生育などを行い、加工したうえで新界開発区内で流通させ、健康被害が出ないことを実証しているという。
千早は以前に食べた、クレップハーブを使ったケーキを思い出す。
あれが実証実験の一種なのだろう。一応、動物実験で健康被害が出ないことを確かめているとは思うが。
教授は講演を締めくくる。
『国内世論での忌避感情が薄い、地球原産農産物の新界での栽培は食料自給率を向上させる大きな一手になります。ぜひ、栽培実験にご協力ください』
大根、キャベツ、玉ねぎなどの国内消費量が多い農産物であれば、新界での栽培でも消費者に忌避感が生まれにくいらしい。
もちろん、農林水産省の監査を受け、認可される必要があるとのことだが、アクタノイドを使って半自動化した農業を営んでその利益を得られるのはアクターにとってもプラスになる。
それが翻って国内の農業でアクタノイド需要を喚起し、農業従事者の熱中症予防などになると語るが、千早にはどうでもいいことだ。
空調が利いた部屋に引きこもる千早に熱中症はもはや遠い世界の話である。「地球温暖化、ふーん」という感覚だ。
千早にとって重要なのは、配られた資料だ。
実験の手順や注意すべき点、レポートの書き方などがまとめられたその資料こそ、千早が欲しかったものである。
講演を聞き終えて、千早は誰よりも早く会場を出て早足で会場を遠ざかる。
久しぶりに外に出たのだ。
どうせなら、講演で触れられていた、甘城農業開発総合グループが開発して試験的に販売している新界原産の植物を使った飲食物とやらを買ってみようと思ったのだ。
講演で配られた資料を見て、甘城農業開発総合グループの直営店に誰よりも早く向かう。
来た道を振り返れば、千早と同じ考えらしいアクターが歩いてくるのが見えた。
店内で同じ講演を聞いた仲だからと話し掛けられるのは面倒だ。
千早は素知らぬ顔で直営店の外にある自販機に向かう。
初めて見る植物のフレーバーの炭酸飲料が最上段に並んでいる。お値段も強気だ。一般的な自販機に並ぶ炭酸飲料の三割増しである。
自販機に放り込むには少し躊躇する金額を入れて、千早は新界植物『バブルフラング』と書かれた炭酸飲料を購入する。
「……うえっ」
人目もはばからずにえずくほどに不味かった。
青臭さが鼻ではなく胃を制圧する。罰ゲームに飲ませるのには躊躇するが、大嫌いな不倶戴天の敵に飲ませるためならば買ってもいい。そんな不味さだった。
なるほど、まるで研究が進んでいないのだと納得してしまう。
千早は一口だけ飲んだその缶の処理に困りつつ、直営店をそっと離れた。
公園にでも行けば、中身を水で薄めつつ流せる場所もあるだろう。見つからなければ缶を両手で掲げたまま帰るだけだ。
そう思って歩いていた千早は、路地から走ってきた女性にぶつかられて缶の中身をぶちまけた。
環境保護が云々と言い出す間もないまま、ぶつかってきた女性がわずかに悩んだ後に千早の手首を掴んで走り出す。
「――こっちです!」
どっち、と疑問を挟みかけたが、女性が出てきた路地からカメラを持ったガラの悪い男たちが走ってくるのが見えて、千早は「ひゅっ」と口から呼気を漏らす。
女性に抵抗すれば、あの人相の悪い男たちに囲まれるのだろう。
流された方がマシだと思えるほど、カメラを持った男たちの人相が悪かった。
「走って!」
女性に命令されて、千早は心構えを逃げの体勢に切り替えて――女性を追い抜いた。
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