第三章 事件の中心で「なんで」と叫ぶ

第一話  朝帰り

 千早はふらふらと、部屋の扉に手をかける。

 周囲を確認する気力もないままに鍵を開けて中に入り、外の空気を締め出すような勢いでバタンと扉を閉じた。気力を最後に振り絞ったのだ。


「うぇ……」


 気持ち悪い、と口を押さえ、もう片方の手で世界から己を隔離するように扉の鍵をかける。

 あの酔っ払い女にも遵法精神は残っていたらしく、未成年の千早にアルコールを無理に勧めてくることはなかった。

 だが、千早はアルコールに酔ったことがなくとも人混みには酔う。今回もガールズバーでがっちり酔っていた。

 玄関先で帽子とマスクを外し、壁に寄りかかって座り込む。


「さ、最悪な、夜だった……」


 壁に手を当てながらリビングへとたどり着き、千早はカーテンから差し込む光に目を細める。


「朝、じゃん……」


 一晩中、あの酔っ払い女に連れまわされたことになる。


「しかも、結局、誰なの、あの人……」


 酔っぱらい女は自己紹介などせずに生まれた時からの幼馴染のような距離感で千早に接していた。挙句の果てに千早が名乗っていないことにすら気付いていない様子だった。

 自室という縄張りに入ったからか、千早の体調は徐々に持ち直してくる。しかし、今さらノンアルコールでやけ酒をする気力はなく、そもそも買えていない。


「お風呂に、入って、寝る」


 こんなこともあろうかと、風呂は洗ってあるのだ。ボタン一つでお湯を張れる環境に感謝しつつ、千早は部屋着に着替えようと寝室に入った。


「本当、誰だったんだろう……」


 知り合いではない。あんなに元気溌剌とした人間は千早の天敵だ。見かけたら脱兎のごとく逃げ出してきた。

 酔っぱらっていて話していることも支離滅裂だったが、長く一緒に活動してきたアクターが引退して寂しいから深酒していたらしい。そのアクターの名前も話してはいなかった。


 邪魔くさい、とばかりにブラを放り投げて肩を回す。シャツを頭からかぶれば、部屋仕様の千早の完成である。


「解放感……」


 引きこもりが何を言っているのかと突っ込まれそうな感覚を味わい、千早は着替えを洗濯籠に持って行こうとして、思い出す。

 酔っ払い女に引っ張り込まれたガールズバーを出た後、あの女は〆のラーメンなるものをご所望し、例によって千早を捕まえて繁華街から少し外れたラーメン屋に引っ張り込んだ。

 餃子だけを頼んでちまちまと食べていた千早の横で、チャーシュー麵を食べていた酔っ払い女は、いきなりスマホを取り出すと立ち上がってこう言ったのだ。


「すまん、急な用事ができた。これで払っておいて。またなー」


 財布からパッと取り出した一万円札を押し付け、酔っぱらい女は夜明け前の暗い町へと消えていった。

 食券式なので先に支払っていることなど、あの酔っぱらい女は忘れていたのだろう。

 また会うことがあったら返そうと、千早は一万円札をポケットにねじ込んで店を出たのである。

 というわけで、洗濯籠に突っ込もうとした服のポケットから一万円札を取り出した千早は、一緒に入っていた紙が床に落ちたのに気付いた。


「メモ? なに?」


 洗濯籠に服を入れて、千早は紙を拾う。

 メモ帳から乱暴に切り取ったらしい切れ端だ。裏返してみると、文字が書いてある。


「……獅蜜寧? 名前なの、かな? あと、パスワード?」


 首をかしげて、千早は横目でお風呂の沸き具合を見る。もうしばらくは時間がかかるだろう。

 面倒ごとは早めに終わらせておくに限る、と千早はメモ紙をもって地下のアクタールームに降りた。


 あの酔っ払い女はおそらくアクターだ。ならば、この名前らしきもので検索をかければ何かわかるかもしれない。

 仮に、この名前のアカウント名があったとしても、酔っ払い女とは限らないものの、手掛かりにはなるだろう。


 地下でパソコンとスマホを使って検索をかける。

 スマホではアクターズクエストでアカウント名を検索、さらに過去に発注された依頼のページで該当するアクターによる受注記録がないかも検索した。


「いない、かな?」


 受注記録に関しては過去半年分までしか遡れないため、それより前に依頼を完遂していた場合は検索にはヒットしない。

 当てが外れたと思いつつ、パソコンで貸出機の履歴を調査する。こちらもやはり存在していない。

 過去のネットニュースの記事などにも該当する名前はなかった。


「……アクターじゃない?」


 千早と同様に本名で登録していないだけかもしれない。

 あの酔っ払い女を外で探して直接手渡す方が早いだろうか。

 そう思いつつ、千早は悩んだ末にメモ紙を財布の中に忍ばせた。

 また出かけた時、それとなくあの酔っ払い女を探せばいい。あんなに元気溌剌な声だ。遠くにいても聞こえるだろう。


 自分が滅多に外出しない引きこもりであることは棚に上げる。

 千早はお風呂が沸いたと知らせる給湯器に「はーい」と返事をして、一階へと上がっていった。

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