第3章 ハーデンベルギア

 ゆうに一時間は歩いただろうか。バス停から今まで誰ともすれ違わなかった。何度か道なき道を歩いたこともあった。三つ目の峠を越えたあたりだろうか。目の前がぱっと開け、綺麗な清流が心地よい音色を奏でていた。僕は荷物の詰まったリュックを置き、引き寄せられるかのように清流の傍へ向かう。水飛沫が少しかかるところで足を止め、腰を下ろす。

 初めてくる場所なのに、どうしてこんなにも懐かしい気持ちになるのだろう。ふわふわとした感情と川の流れの心地良さで、僕は時間の流れを忘れて景色を眺めていた。

 ただ目の前で川が流れている。 それだけのはずだった。 彼女が現れるまでは。


 川の向こう、白いワンピースにつばの大きい白いハットを纏った彼女は、夏の清涼感を体現していた。 彼女はゆっくりと川を渡る。 白くて細い足首を透明な水に浸けながら、ゆっくりと。


「ねえ。 もしかしてそこに誰かいるの?」


 川の半分程を渡ったところで、彼女は尋ねる。どこか聞き覚えのある、凛とした声だった。


「ああ。 丁度川を渡ったところにいるよ」


 僕の応えに、彼女はにこっと笑う。


「その声の感じ、声変わり途中だね。 高校生くらいかな。 怪しい人じゃないといいけど。 もう少しでそっちに着くから。きっと旅人さんでしょ?案内してあげるよ」


 何だろう、この違和感は。とっくのとうに姿は見えているはずなのに、 何故声で判断したり 「怪しい人じゃないといい」なんて言い方をしたりする?……もしかして。


「こんなことを初対面で聞くのは失礼かもしれないけれど、もしかして君、僕のこと見えてない?」


 僕の質問に、彼女は俯きながら笑う。


「鋭いね。 そうなんだ。私、目が見えないの。 ある日突然、私から光が奪われた。ここの景色は綺麗なはずなのに、私が見ているのは今ある景色じゃなくて、記憶の中の景色」


 そこで彼女は一息つく。 そして、 初めて正面顔を僕に向けて言った。


「『君』じゃなくてさ。名前で呼んでよ。折角出会ったんだからさ。私の名前は羽美。羽に美しいで羽美だよ。 私も君のこと名前で呼びたいからさ。教えてよ」


 確信に変わった。 羽美……ちゃん。 お隣さん 「だった」 彼女だ。「君」と呼ばれるのを嫌がるのは、 今でも変わらないみたいだ。


「僕の名前は凛空。 水無月凛空みなづきりくだ。 憶えてるかな。君……羽美の隣に住んでた」

「凛空くん……。凛空くんなの?憶えてるよ、勿論。本をたくさん貸し借りした……。そうか、凛空くんか。久しぶりだね。まさかこんなところでまた会えるなんて」


 彼女は帽子を脱ぎ、走ってこちらへ向かってくる。目が見えないのになんて破天荒なと肝を冷やしたが、どうやらここは彼女のテリトリーなのだろう。まるで道が見えているかのようにすいすいとやってきた。


「改めて、久しぶり。凛空くん」


 彼女は僕を真っ直ぐ見据えていた。 しかし、彼女の目にきっと今の僕の姿は映っていない。何とも言えない虚しさを押し殺し、僕は彼女に尋ねたいことをまとめようと頭を整理する。そして、僕も彼女の目をしっかり見て話し始める。


「久しぶり。色々聞きたいことはあるんだけどさ。ゆっくり聞きたいんだ。だから今日のこの後の時間、僕にくれないか?」

「何だか素敵な言い回しだね。いいよ、勿論。何から話そうか。十年ぶりだよね、きっと」



 彼女が突然引っ越したのは小学校に上がる直前だった。いつものように彼女に本を貸そうと隣へ行ったら、家はもぬけの殻だった。あの時母からは「いろいろ事情があったのよ」 とだけ言われた。どうして引っ越すことを教えてくれなかったのか。なぜ彼女が引っ越すのか。知りたいことは沢山あったけれど、母の背中からこれ以上聞いてくれるなという圧を感じ、それ以上問い詰めることも出来ず、部屋に駆け込みドアを乱暴に閉めた覚えがある。


「どうして......」


 喉がひりつく。十年間、気になり続けて、聞けなかった疑問。聞いてしまっていいのか、知らないことが正解なのか、僕にはわからなかった。しかしここで再会したのもきっと何かの縁だと自分に言い聞かせ、言葉を紡ぎ出す。


「どうして十年前、 引っ越したの?」


 彼女は僕の隣に腰を下ろし、川の流れに目をやる。


「両親が離婚したんだ。お父さんの仕事が忙しくてさ。お母さんとお父さん、毎日喧嘩ばっかりで。それで、私はお母さんについていくことになった。ここはお母さんの実家なんだ。だからお母さんもおばあちゃんもいる。最初は『こんな田舎嫌だな』って思ってたんだけどさ。住んでみたらすごくいいところだよ。空気は美味しいし、おばあちゃんが畑で作る野菜は美味しいし、それに」


 そこでおもむろに言葉を区切る。そして僕の方に顔を向け、向日葵のような笑顔を咲かせる。


「ここだと色んな想像が出来るんだ。もし私がゲームの主人公になったら。もし私が女優さんになったら。……もし私の視力が、もう一度戻ったら、って。

 目が見えなくなったのは、引っ越してきてから数か月後。お母さんは離婚の裁判とお仕事で大忙しだったし、私は小学校の雰囲気に上手くなじめなかった。ある時、私はいつもと同じように目を開いたの。でも何かが違う。普通なら天井が見えるはずなのに、いくら瞬きしても、目をかっぴらいても広がるのは暗闇だけ。私、怖くなって泣き出しちゃったんだ。そうしたら、それを聞きつけたおばあちゃんが私の部屋に来てくれて。


『目が見えない。おばあちゃんも見えない! 何にも見えないよ!』


 って泣きじゃくりながら訴えたの。見えてはいなかったけど、おばあちゃんも相当焦って、すぐに119に連絡してた。その後、来た救急車に乗って大きな病院に行って、言われた病名は『ストレス盲目症』。お医者さんに、名前は聞いたことがあるが罹患例のない病気だって言われて。正直絶望したんだ。ほら、私本読むの好きだからさ。それがどうしても苦しくて。毎日目薬をさすことも、点字を覚えることも私には小さなことで。……それは強がりか。勿論それも辛かったけれど、やっぱり活字に触れられないのが一番辛かった。いくら点字で本を読むことが出来ても、『ここにはどういう漢字が使われているんだろう』とか、『ここはもしかして造語なのかな』とか、実際に文字を見ないと分からない部分が気になって。点字という方法で本を読めているだけでもありがたいって思わないといけないのは分かってるんだけど、人間どうしても欲が出ちゃってさ。暫くはすごく落ち込んでた」


 いつの間にか彼女は足を川面に浸していた。そして、勢いよく僕の方に足を振りかざす。水飛沫が僕の顔にかかる。思わず笑うと、彼女もいたずらっ子のような笑みを浮かべて足をバタバタさせる。

 少し水遊びを楽しんだ後、 僕はおもむろに口を開く。


「僕もさ。文字が書けなくなったんだ。これまであらゆることを書いて残していた僕にとって、 羽美と同じようにこれは絶望的だった」

「私達、二人で一つみたいだね」

「どういうこと?」

「私は目が見えない。でも練習したから文字は書ける。凛空くんは目が見えるけど文字が書けない。私達、一人だと作品が作れな いけれど、二人なら一つの作品を作り上げることが出来る。何だか、運命みたいだね」


 そう言って、彼女は上目遣いで僕を見つめる。ふわりと夏の風が吹いて、彼女の髪をなびかせる。


「さて。大体お互いの近況も分かったことだし、私の家においでよ。おばあちゃん、民宿やってるんだ。凛空くんが来てくれたらきっと喜ぶと思うんだ」


 ぱっと立ち上がり、こちらを振り返る。 そして一、二、三、一、二、三とワルツのリズムで彼女の民宿の方へと案内される。僕は慌ててリュックを背負い、彼女の背中を追いかける。


 旅は不思議な方向へ舵を切っている。しかしそれも旅の醍醐味だと、僕は「それっぽく」思ってみた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

文字を失った僕、光を失った君 花宮零 @hanamiyarei

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ