第2章 グラジオラス
「次は〇〇〜。〇〇〜、お出口は左側です」
微睡みの中、心地よく響く「音」。それが車内アナウンスと気が付くのには少し時間を要した。パチッと睡眠の糸が切れた僕は、急いで駅弁のごみとパンフレットをリュックに詰め、降りる支度を済ませる。準備完了と同時に新幹線が減速し、駅に到着した。
大きく息を吸い、プラットホームに足を踏み入れる。蒸し暑い空気が僕を纏うが気にならなかった。地元とはまた違う夏の匂いをもう一度胸いっぱい吸い込み、駅を後にする。
この後は目的の町までバスを乗り継ぐ。一時間に一本発車するバスに運良く滑り込むことが出来た。車窓から見える景色は絶え間なく変化する。ビルやマンションが多く並んでいた風景も、三十分経つ頃には緑の濃い木々へと移り変わっていた。
僕は窓の外をぼーっと眺めながら、昔のことを思い出していた。本当に遠い昔のこと。まだ僕が幼稚園生だった時の話だ。僕の隣の家には同い年の女の子が住んでいた。その子はとても元気で、いつも外で遊んでは擦りむき傷を作ってきたり、素手でカブトムシを捕まえたりと、僕とは対照的な性格をしていた。
そんな僕たちが仲良くなったきっかけは一冊の本だった。僕は幼稚園でも何がしかの本を抱え、教室の隅で読みふけっているような子供だった。その日は、確か雨だった。普段外で遊ぶクラスメイトも皆しぶしぶ教室内で遊んでいた。その為いつも以上に五月蠅い教室で、僕はグリム童話の原作集を読んでいた。
今となってはオブラートにくるみにくるまれてマイルドな物語になっているグリム童話たちの原作はダークさ・灰暗さを皆抱えていて、その不思議な魅力に僕は幼いながらに包まれていた。
すっかり物語の世界に入り込んでいた時だった。
「ねえ、何の本読んでるの?」
本から目を上げるとそこには、鼻に絆創膏を貼っているお隣さんがいた。
「⋯⋯⋯⋯グリム童話」
「グリム童話!?もしかして『赤ずきん』?『ヘンゼルとグレーテル』?ええっと、それとも『白雪姫』?」
彼女は目を輝かせながらグリム童話の題名を並べる。しかし枚に暇がないと感じたのだろう。十数作挙げたところで頬を膨らませてこう言う。
「もう!こんなに言ってるのにどうして教えてくれないの?早く教えてよ!」
僕は迷っていた。純枠にグリム童話を楽しんでいる彼女に原作をお勧めするなど言語道断だと分かっていた。しかし、これだけの作品を知っている彼女だからこそ、グリム童話の「真の姿」を知ってほしいとも思った。
「これ、グリム童話はグリム童話でも、現在語り継がれているものじゃなくて原作の方なんだ。原作は君が知っている話よりももっと怖いんだよ。だから⋯⋯」
「何それ面白そう!その本今日借りてもいい?君、お隣に住んでる凛空くんだよね?」
「読むのはやめといたほうがいいよ」と告げる前に、彼女は僕の手から本を取り、ページをパラパラとめくっていた。
「君、本好きなの?」
正直、彼女がここまで童話を知っているのは意外だった。僕が尋ねると、彼女は不機嫌そうに声色を変える。
「もう!『君』じゃなくて名前で呼んでよ。私の名前は羽美。凛空くんと対照的な名前だね。あ、あと本はすっごく好きだよ!今日みたいな雨の日は、外で遊べないのは残念だけど、その代わりに雨の音を聞きながらベッドで本を読むのがすごく好きなんだ」
「そうなんだ。君⋯⋯じゃなくて羽美ちゃん。羽美ちゃんが好きな本も教えてよ。本、僕も羽美ちゃんのお勧め読んで感想書いてくる」
そう言うと、彼女は弾けんばかりの笑みを浮かべた。
「感想文書いてくれるの?じゃあ私も書いてこよっと!感想文。何だか大人っぽい凛空くんに近づけるみたいでワクワクするなぁ
「羽美ちゃんは感想文以外の方法を考えてたの?」
「うん。お互いに感想を言い合うのかなって!でも、文字にする方が形に残るし、何だか素敵だね」
友達もろくにいない僕は、感想を言い合うという案は全く思い浮かばなかった。この頃から僕は、何か読むとすぐにノートに感想文を書いていたから。今思い返すと随分稚拙な文章だけれど。
過去の記憶と僕の思考が溶け合い、集中力が途切れているのを感じて車内に目線を戻す。バスにはほとんど乗客がおらず、僕と地元の老人数人が乗っているだけだった。
終点であるバス停は酷く錆びれていた。降りてすぐ、僕は地図を取り出す。目的地はこのバス停からさらに数十分歩いたところにある。大きく息を吸い、頬を叩く。既に長旅でくたびれている体を鼓舞し、僕は地面を噛み締めるように踏みしめた。
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