第4話 君の鼓動はこの手の中に

 柳田さんとはあれっきり。

 翌日もその翌日もそのまた翌日も、僕は一人で自転車に乗る。

 幸隆は教室に居る時はいつも通りだけど、LINEも減ったし、うちに遊びに来ることも減っていった。

 僕はと言えば、家に帰れば厩舎の掃除とかクラブの手伝いをして、自分の練習をして、勉強して寝る日々。


 日本ダービーの翌週、六月初め。僕は十五歳になった。これで競馬学校騎手課程の入学資格の年齢だ。

 クラブハウスではお客さんたちの有志で誕生日パーティーが開かれた。両親からの誕生日プレゼントは、競馬用の鞭と入学願書だった。

「十五歳って言ったら元服だぞぅ、大人だぞぅ」と、酔っぱらった父さん。

「もう子供じゃないんだから、しっかりするのよ」と、母さん。

「いつの時代の話だよ……」

 まだ中学三年生のこの年で成人扱いって、昔の人はすごいな。

「こないだ女の子連れて来たそうじゃないか。馬っ気なんか出すなよぅ」

 母さん、やっぱり喋っちゃったてたし、父さんこそみんなの前で恥ずかしいこと言わないで。

「そうそう『もう髪は母さんに切ってもらいたくない』なんて言い出したのよ」

 ……あぁ、本当に黙ってて欲しい。

〝反抗期〟というわけじゃないけれど、親との距離を置きたくなるというのはこういう事の積み重ねだと思った。


 蒼月は、宮本さんのおかげで順調だった。ただ、その背に乗れるのが宮本さんと僕だけ。オーナーである渋谷さんは、あれから何度かチャレンジしたけど、やっぱり危なくてすぐに降りてしまう。馬場の外にいる時はよく懐いていて可愛がってもらえているから良いんだけど。

「颯君は蒼月に乗れて良いなぁ」

 一目惚れして引き取ったのに、乗れないのはちょっと寂しいんだとか。……確かにあんなにカッコいい馬、馬乗りならば誰だって一度は乗ってみたいだろう。

「あの、ごめんなさい……」

「いやいや、いいんだ。行き場がなかったこいつと出会って、可愛がってあげられるだけでも、私は嬉しいんだよ」

 洗い場で、蒼月に丁寧にブラシ掛けしている渋谷さんが少し寂しそうに言った。

 それでも……たてがみを一束切り取られた蒼月が懐いているのは、渋谷さんへの感謝もあるんだと思う。

 人間の判断で一度は死ぬかもしれなかったその運命を、また人間の判断でやり直しの馬生じんせいを送っている。


 期末試験が終わり、いよいよ夏休みだ。

 普通の高校と違って競馬学校騎手課程の一次試験は八月半ば。願書は受付が始まってすぐに郵送しておいたので、あとは受験票が届くのを待つだけだった。

 夏休み中はいつも通りに家の手伝いをして、宿題を消化しながら夏期講習にも。例え騎手課程に合格しても、学校の成績が落ちたら辞退させられるという両親との約束なので、卒業までは勉強も頑張らなくてはならない。

 いつもなら、幸隆が遊びに来たり、一緒に遊びに出かけてたけど、今年は彼女と出かけるんだろうか。デートってやつ、どこに行くんだろう。

 夏休みに入る直前に、柳田さんと一度だけ廊下で話をした。

「また遊びに行ってもいい?」

「うん」

「じゃあ、来週とかに行くね!」

 とっても喜んでいた。僕も大喜びだった。……でもちゃんとした約束まではしていない。いつかひょっこり遊びにくるんだろうか、それともクラブの方に電話でもかけてくるんだろうかと思っていたけれど、柳田さんは遊びに来ることはなかった。


 七月の月末の定休日。馬具の手入れを終えて二階のクラブハウスへ上がると母さんの深刻な話し声が……。

「今月も……ですか。はい……はい、わかりました。来月は必ずお支払いお願いしますね」

 電話の相手は誰だろう。

 手と顔を洗っているうちに電話が終わった。受話器を置いた音と、母さんのはぁーといういため息が聞こえた。

「何があったの?」

「ううん、何も。大丈夫よ」

 大丈夫じゃないだろ、と内心思いつつ冷蔵庫から麦茶を取り出す。冷えた麦茶を母さんに持っていくと、本当に大丈夫じゃない様子で笑う。

「お前は、試験に向けてしっかり頑張れ!」

 そう言って両肩にポンと手を置いた。


 八月の第二週、騎手課程の試験の二日前に、一体何が起きていたのか全てを知ることになった。

 その日は夏休み中の登校日で、久々に会った幸隆から聞かされたのは最悪の知らせ。


「柳田さん、東京に引っ越したらしいぞ」

 え……。体が一気にヒヤリとした。

「なんで?!」

「俺だって、さっき廊下で女子たちが話してたのが聞こえただけだからしらねーよ」

 じゃあ「遊びに行くね」って言ってたのは、嘘だったんだろうか……。いや、あんな笑顔で嘘なんて……。でも、来れなくなったなら何か連絡くらいくれても良かったのに。


 そして家に帰って着替えて厩舎に向かうと、もう一つ悪い知らせが待っていた。

「蒼月のオーナーが変わることになったよ」

 そう切り出したのは宮本さん。そしてその隣に母さんと、冷たい目をした見知らぬ男の人が立っていた。

「なんで? 渋谷さんが乗れないから? 要らなくなったってこと?」

「いや、そうじゃないんだ。ラバーとクローも手放すことになった」

 ラバーとクローも? 大事にして可愛がっていたのに、なんで。

「颯、あの、実はね……」

 母さんがそこで声を詰まらせると、男が話し始めた。

「ブルーフルムーンは種牡馬しゅぼばとして、北海道に行くことになったんです」

 なんで……。っていうか、今更種牡馬になれるわけないだろう。

「渋谷さんが、会社を立て直すためなんです。とても大事に可愛がってくれているというのに、申し訳ありません」

 見知らぬ男はたちばなと名乗り、東京から来た弁護士だという。

「ブルーフルムーン、いや今は蒼月ですね。あの子と同じ血統の種牡馬が、先日急死しまして……。それで蒼月がその後継にと言うことで、買い取られることになったんです」

「嘘だ! だって、蒼月は競走馬にすらなれなかったんだよ! 実績もないのに種牡馬になんかなれっこないじゃないか」

「……颯君、実は同じような前例もあるんだよ」

 横から宮本さんが口を挟んだ。

 どうして……どうして僕の大事なものは、みんな遠いところに行ってしまうんだ。どうして……。

「橘先生、お話は上で……」

 母さんはそう言って先にクラブハウスへ上がって行った。

「颯君、大人にも事情があるってこと、分かって欲しい」

 宮本さんはこの世の終わりみたいな顔でそんなことを言った。

 ……なんだよ大人って。

「こないだ、誕生日にもう大人だって言ったじゃないか!」

 屁理屈なのは自分でもわかっている。でも、怒りをどこに向けて良いのか分からなかった。

「渋谷さんが会社を立て直せなかったら、彼の会社の社員さんたちが仕事を失ってしまうんです。そうなる前に、今できる手立てがあるうちに、という苦渋の決断なんです。申し訳ありません」

 橘さんはそう言って僕に深く頭を下げた。ここまでされたら、さすがに大声を出すのはあまりに子供じみている。だけど何もいう事ができないまま、僕は橘さんに背を向け厩舎へ入った。

 みんな二階へと上がって行き、僕は一人で厩舎の廊下の壁にもたれ掛かかった。


 宮本さんの足音で、馬たちがブルルルと鼻を鳴らした。気が付くと夕方のご飯の時間だ。

 いつの間にか腰を下ろしていた僕のところに宮本さんがやってきて、話がまとまったようだと教えられた。

 蒼月の引き渡しの時期は明日の午後、ラバーとクローの行き先は追々決めていくそうで、それが決まるまではうちに居てくれるそうだ。

 実は渋谷さんは、馬の預託料と調教料などのお金の支払いなどを三か月も滞納していて、そのお金については……渋谷さんの会社の資金繰りとうちの経営に関わることだからと、橘さんが間に入って支払いを調整してくれるってことだった。


 一頭あたり調教料込で十五万、三頭分を三か月だから百三十五万円……。母さんが電話で話していたのはこのお金のことだったのかもしれない。

「あんまりお金の話はしたくはないけど、馬はお金がかかるスポーツだからね。蒼月を売ることによって、颯君の家も救われるってことだよ」

「……僕だけ、何にも知らなかったんだね」

「君に心配をかけたくなかったんだよ」

 宮本さんは申し訳なさそうにしつつ、僕の頭をポンポンと撫でた。

「子ども扱いしないでよ」

「あぁ、ごめんな」

 宮本さんの手を振り払って、僕は馬たちの夕飯の支度をする。

 宮本さんは水桶を洗いながら静かに言った。

「あんまり怒ると、馬たちが怯えるから、ここではほどほどにな」

「……解ってる」

 解ってるよ、そんなことくらい。……でも、僕は……怒っているんだろうか?

 心の中がぐちゃぐちゃで何も言葉が出てこなかった。

 馬たちは宮本さんの言う通り怯えていたのか、空気を読んでいたのか、いつもより静かで大人しかった。


 夜、黙って夕飯を食べ、黙って部屋に閉じこもった。

 サラブレッドは生まれた時から死ぬまで、人の管理下で過ごす。自由でいられるような放牧の時間だって、必ず人に管理されている。

 競走馬として生産されて、本当は大人しくて従順なのに、競走馬としてデビューもできずにたてがみを切り取られて手放されて、行くあてもなくて、ここでみんなに可愛がってもらえるようになったのに……。

 今度は同じ血統の馬が死んだからと急に値段がついて売られてしまう。種牡馬になってからだって、自分の意志で相手を選ぶことすらできない。

 蒼月には何も自由がなかった。


 眠れないまま真夜中になった。

 ぼくは着替えてこっそり厩舎へ向かい、最小限の照明を点けて蒼月の馬房の中で馬装した。

 厩舎を出ると蒼月に跨り、そのまま敷地を飛び出した。

『蒼月と二人で自由になるんだ』

 そう思ったのも束の間、高ぶる気持ちはアスファルトに響く蹄の音であっけなく鎮まって行った。勢いで飛び出したものの、アスファルトを長時間歩けば、足を痛めてしまうかもしれない。蒼月だって慣れない夜道で少し怯えているかもしれない。


 それでも、わがままだと解っていても僕は家に戻るのが嫌だった。

 ——このままどこへ行こう。


 辿り着いたのは、学校近くの河川敷だ。スロープで芝生の広場に降りられる。

 空には満月。ぼくは蒼月が「ブルーフルムーン」に戻ってしまうことがとても寂しかった。

 下馬すると足元にフワリとした芝生の感触。手綱を持ち替えて、僕は蒼月の首に抱き着いた。

「蒼月、お前はどうしたい?」

 僕の問いかけにたてがみをプルルっと震わせた。

 

 芝生に腰を下ろすと、蒼月は手綱の届く狭い範囲で芝生の草をブチブチと音を立てて食べ始めた。うちに来てからの数か月、いつも馬場と厩舎にしか居られないから、生の草を食べるのは久しぶりだったのかもしれない。

「僕は、蒼月をどうしたいんだろう……」


 何が悲しくて、何に怒って、何を望んでるんだろう。

 父さんも母さんも、僕の将来について真剣に聞いてくれたし応援もしてくれた。

 幸隆は、僕の悩みを聞いて道を指し示してくれた。

 柳田さんも応援してくれた。

 渋谷さんには、渋谷さん自身と社員の人生がかかっている。

 膝を抱えて何時間も考えていた。


 ブルルルと鼻を鳴らして、僕の横で前足で地面を掻く。

「ごめん、喉乾いたか?」

 僕の肩を上唇でモゾモゾとなぞる。

 馬を連れてどこかに行くなんて、無謀な話だった。馬に水を飲ませるための蛇口とバケツは、道端に用意されているはずもない。馬が生きていけるのは限られた範囲なんだと、僅かな時間で思い知った。


 浅はかな考えに蒼月を付き合わせて申し訳ない気持ちになった。

 もうすぐ夜明け。家出はここまでか……。

 再び蒼月に乗ると、蒼月の耳の間からはグラウンドが見えた。


 手綱を持ち直して少し緩めると、蒼月はグラウンドへ向けてゆっくりと歩き出した。少しぐらい、蒼月の望む進路に任せてみよう。

「……小さい競馬場みたいだ」

 でも、地面は砂も芝もない、ただの土のグラウンドで、川にかかる大きな橋の照明でかろうじて白いトラックが見える。きっと陸上部が練習に使ったばかりなんだろう。


 ゆっくり、そのまま常歩でトラックを一周してみる。パカポコとおなじみの蹄鉄の音を響かせながら。


 競走馬になれなかった蒼月と、騎手志望の僕が、真夜中に家出して競馬場ではなく小さなグラウンドにいる。……今だけは何も僕たちを縛るものはない気がした。

 もう一周、常歩でトラックを回る。そして軽速歩で何周か回る。

「蒼月、二人で気分だけでも味わってみようか」


 一旦停止して、鐙を少しだけ短くする。何故か、胸がドキドキする。

 ……駈歩発進!

 手綱を短く持ち直し、競馬の騎手のようにモンキー乗りで何周か走る。ブルル、ブルルと蒼月の鼻の音と蹄の三拍子が、誰もいないグラウンドに響いた。


 僕と蒼月、最後のトレーニング。

 僕の手の中に、蒼月の心臓があって、直接コンタクトをとっている。

 ドクン、と僕の心臓が反応する。その音で僕の心が落ち着いたような気がした。

 クールダウンに入り、またトラックを歩き出す。


「帰って水飲むか」

 首筋を愛撫して、そう声をかけた時に空を星が流れた。


 蒼月、僕は騎手になりたい。蒼月の子に乗ってダービーを獲るんだ。蒼月の願い事は何だろう。同じ夢だといいな。

 不自由の中の限られた自由で、僕なりの勝利をもぎ取ってやると誓った。


 厩舎に帰るなり、僕は両親にこっぴどく叱られた。

「十五歳だからって、馬を盗んでどうする! 洒落にならん!」

「無事だったから良かったけど、もし大ケガしてたらどうする気だったの」

 それから昼過ぎにこの事態を知った宮本さんと、蒼月の引き渡しのために再びやってきた橘さんからもお叱りを受けた。


「もう売買契約が終わってる以上、立派な窃盗だよ! ですよね橘先生……」

 宮本さんは、また、この世の終わりのような顔をしていた。

「ケガでもしていたら、颯君と蒼月の将来どころか、ご両親や他の方々の人生もダメになってしまうところでしたよ」と橘さんが怖いことを言う。

「……でも蒼月は、最後に颯君と一緒に居られて、幸せだったんじゃないでしょうか」

 クールな表情を崩して橘さんが優しい顔で笑っていた。

「ごめんなさい。……本当に浅い考えでした」

 馬と駆け落ちなんて無理でした。

 

 その日の夕方に馬運車が迎えにきて、蒼月を乗せると北海道に向けて出発した。

 馬運車と入れ替わりでやって来たのは郵便屋の赤いバイク。届いたのは柳田さんからの速達の手紙だった。

 両親が離婚してしまって、お母さんの実家に帰ることになったから、皆に詳しいことを言えなかったそうだ。


 本当は夏休みいっぱいはこちらに居る予定だったこと、お母さんの仕事が思ったより早く見つかって、慌てて引っ越すことになったこと、引越しでバタバタしていて連絡ができなかったことが書いてあった。

 封筒には、湯島天神の合格祈願のお守りが入っていた。


 夜、僕は試験会場近くの宿に向けて、父さんの運転で出発した。車には蒼月がつけていた蹄鉄を取り付けて。

「ラバーはうちのクラブの所有馬になって、クローは鈴木さんがオーナーになってくれることで話がついたぞ」

 車の中で父さんが話してくれた。それなら渋谷さんも会いたい時にいつでも会えるから本当に良かった。


 蒼月、いやブルーフルムーンは今ごろどのあたりにいるだろう。

 ……そして柳田さんも東京でどうしているだろうか。


 十月、競馬学校から合否の報せが届いた。


********


 雲一つないとびぬける青空の下、大ケヤキを過ぎて、4コーナーへ。

 最後の直線、僕が鞭を一発入れると、手綱を通して僕の鼓動が共鳴し、ソウゲツは馬群から飛び出して行く。


《日本ダービー、先頭でゴール板を駆け抜けたのは、ソウゲツだ! 日本競馬史上初、未出走種牡馬からのダービー馬の誕生です!》

 

 気づけば歯を食いしばっていて、ついでに呼吸も忘れていたようだった。深呼吸をすれば全身から汗が噴き出す。

 徐々に速度を落とし、ゴーグルを外す。無事に走り切ったことへの感謝を首筋を軽く愛撫して伝える。


「おめでとう!」

 先輩騎手から声がかかる。

「僕が……勝ったんですか?」

「そうだよ。おめでとう」

 手を伸ばしてくれたので、馬上で軽いハイタッチを交わす。

「ウイニングラン、しておいで!」

 グッと親指を立てて祝福の笑顔をくれた。

「……はい!」

 大歓声の中、実感が持てないままでいると、スタンドからソウゲツコールが響き渡る。

 あぁ……僕は、僕たちは勝ったんだ……


 このコールは、遠い北海道で暮らすブルーフルムーン、あの夜同じ鼓動を共有した蒼月にも届いているだろうか。


 そして、ずっと励ましの手紙を送り続けてくれた千春がいるスタンドに向けて手を振った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

君の鼓動はこの手の中に 明星 志 @akegatanohoshi

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ