第3話 それも青春の1ページ
五月の連休を過ぎて、通学路の土手も、馬場を囲む木々もすっかり緑色になったある朝、幸隆の靴箱に封筒が入っていた。
「もしかして、ラブレターってやつ?」
表と裏をくるりと回して確認すると、どこにも文字が書いてない。
「差出人不明なんて怪しいな」
幸隆が不審物を見るような目で糊付けされてない封筒の中から一枚の紙を引っ張り出した。
「なんて書いてある?」
「放課後、あの神社に来いって」
「行くの?」
「行かねえよ。興味ないし」
「相手が可哀想じゃん。行けばいいのに」
「イタズラかもしれないし、行って笑われたら嫌だよ」
そう言って、手紙をごみ箱に捨ててしまった。
……僕の心は、なぜか半分くらいほっとして、いつもの場所に収まった。
放課後、二人で駐輪場に向かう途中、幸隆が立ち止まった。
「颯……
「……やっぱり気になるんだろ」
「気になるっていうか……ずっと待ってたら可哀想だし……」
それもそうだ。断るならちゃんと会って断ったほうが良いもんな。
「分かった。じゃあ、また明日!」
幸隆が乗っていない自転車はすごく軽くて、気持ちはなぜか重たかった。
着替えて厩舎に行くと、角馬場で宮本さんが蒼月に乗っているところだった。
カッコいい蒼月に、カッコいい宮本さんが乗る姿は、本当に絵になる。もう暴れることもなく、蒼月の調教は順調のようだった。
「颯君、ちょうどいいところに来た。そろそろ蒼月に乗ってみるかい?」
馬上から声がかかる。
「いいの?」
「いいよ。十分乗り込んでるから軽めだけど。手綱を短くして普通に乗って、まずは常歩と軽速歩を繰り返してみて」
「わかった!」
蒼月が来た日以来だから、ちょうど一か月ぶりだ。
「よし、
宮本さんが蹄跡を指さす。蹄跡とは、この場合は柵沿いの1メートル内側あたりのこと。まずは柵沿いに行進しなさいという指示だ。蒼月は大人しく指示に従って蹄跡に出た。
常歩と速歩を繰り返す。指示に大人しく従うし、初日のような乱暴なこともしない。
初日は僕もだけど、蒼月も緊張していたのだろうか……?
少しずつ、蒼月の首が下がる。
「軽速歩やめて、速歩で」
「はい」
鞍にしっかり座ったまま反動を受けると、蒼月が首を下げ、動きが重くなった。
「おぉ、いいねえ。ちゃんと
嬉しくなった。
「銜を受ける」というのは馬が乗り手とコンタクトをとること。蒼月が手綱を通して僕とコンタクトを取ろうとしてくれているんだ。
いつだったか宮本さんが「手綱を持つ手は、馬の心臓を握っていると思え」と話してくれた。心臓を握っていると思えば、力任せに引っ張ることは馬にとても負担になるという、分かりやすい例えに感動したんだ。
「よーし、良いだろう。常歩でクールダウンしてやって」
蒼月は始終ふわふわしてとても乗り心地が良かった。
「はい!」
馬のクールダウンはとにかく歩かせること。僕はそのクールダウンの間に、馬に話しかけるのが好きだ。
実際に声をかけることもあるけど、どちらかと言えば心の声で話しかけていることが多い。調教を頑張ったことを褒めたり、僕を乗せてちゃんと動いてくれたことを感謝したり、そんな気持ちを伝える時間だ。
「頑張ったね」と汗ばんだ首すじを愛撫してやると、蒼月はブルルルっと鼻を鳴らした。
「ホウ」と並んで馬の世界特有の言葉に「愛撫」というのがある。馬を褒める時に、首すじを撫でてやることを言うんだけど、初めて聞く人は苦笑を浮かべる。子供のころから慣れ親しんだ言葉に、別の意味があると知ったのは、幸隆の入れ知恵からだった。
「やっぱり、動きが柔らかいんですね、蒼月って」
洗い場で、蹄の手入れをしながら宮本さんに感想を伝えた。
「乗り心地は良い馬だよね。性格も素直でいい子だよ。ただ——」
ただ?
「感覚がとても敏感で、性格は素直だけど几帳面な馬なのかもしれない。だから俺が1から乗り方を教えた颯君なら乗れるんじゃないかなって思ったんだ」
「どういうこと?」
「俺が調教したから、俺と同じような乗り方をする人じゃないと混乱したり、集中ができない馬なんじゃないかってこと」
宮本さんの話によると、あまりに几帳面すぎる故に、違う乗り方をする人に乗られると、癖が違うから混乱するということだった。
蒼月に限らず、日々たくさんのお客さんを乗せている馬たちは、次第にどれが正解か分からなくなってしまうので、正しい動きを教え続けなくてはならない。そのために乗馬クラブには調教師の存在は欠かせないんだ。
昼過ぎに、渋谷さんがやって来て乗ってみたいというので鞍を付けて乗せたら、歩き出した途端に大暴れで、あわや落馬というところだったそうだ。……でも渋谷さんは決して下手な人じゃない。
「じゃあ、僕は宮本さん直伝だから大丈夫だったってこと?」
「もしかしたらっていう、可能性の話だけどね。渋谷さんは別のインストラクターに習ったこともあるし、ラバーやクローを好きなように乗っているから我流なところもあるから」
宮本さんの乗り方に近いっていうことなのか、と思うとすごい誇らしくなった。
「颯君も素直だし、気が合うのかもよ」
そんな風に宮本さんは笑った。
蒼月を馬房に連れて行って、馬たちに夕方の飼料を配ってから家で夕飯を食べた後は勉強の時間だ。
ノートを広げた時、ふと、幸隆のことを思い出した。手紙の主って誰だったんだろうな。
「俺、付き合うことにしちゃった……」
昨日の朝はクールなことを言ってたのに、今日の幸隆はデレデレだった。
「相手は誰だったの?」
「二年の子。一目ぼれって言われた」
背も高くてイケメンの幸隆なら仕方がない。相手の子は髪が長くてとても可愛いらしい。結局、幸隆も一目ぼれだった。
「じゃあ、俺、今日から彼女と一緒に帰るから。ごめん」
「いいって。謝んなよ」
一緒に自転車に乗って帰るのはあと一年って、話していたばっかりだったのに、急に終わりを告げてしまった。来年の春まではこのままだと思っていたのにな。
……でも、僕も無事に騎手課程に合格すれば、春になればこの街を離れてしまう。友達とも離れ離れ。柳田さんはもっともっと遠い存在になってしまう。
『あっ』
前方に、友達と並んで歩いている柳田さんを見つけてしまった。友達と楽しそうに話す横顔は、本当に可愛い。
僕が気安く声をかけられる性格だったら、せっかく空いてる後ろに「乗ってかない?」なんて言えたのに。……気づかないフリで追い抜いてしまおう。
彼女の脇を通り過ぎると、後ろから声がかかった。
「あっ、川瀬君!」
その声は柳田さん……。
数秒迷ってからブレーキを握ると、予想以上に力が入ってキィーっと大きな音が鳴る。
そーっと振り返ると、柳田さんが友達を置いて駆け寄ってくる。僕は慌てて目線を外す。
「今日は天野君と一緒じゃないんだね」
「え、うん……」
顔が熱くなる。落ち着け。
「こないだは、蹄鉄どうもありがとう! 川瀬君の家って馬がいるんだよね?」
「え、あぁ。うん。いるよ馬」
とびきりのキュートな笑顔を見せた。
「いいなぁー! 私、動物大好きなの」
知ってる。あの時の自己紹介、ずっと憶えてる。
「千春、この子、誰?」
追いついた柳田さんの友達は、今のクラスで仲良くなった子だろうか。同学年の人や下級生から「この子」とか「後輩?」って言われることには、悔しいことにとても慣れている。
「二年の時、同じクラスだった川瀬君。ごめん、ちょっと用事思い出したから、先に帰って」
「あいよ。また明日ね!」
「またね!」
柳田さんが僕に何の用事だろう……?
「今度見に行ってもいいかなぁ?」
「……何を?」
「馬だよ。今話してたばかりじゃん」
ぷっ、と噴出して笑う柳田さん。
「あ、そうだった……」
「川瀬君って天然?」
そういう事は言われたことないんだけどなぁ……。
「いや、違う……と思うけど」
「じゃあ、いつなら行ってもいい?」
「い、いつでもいいけど、もうすぐ中間試験あるから、直前とかじゃなければ……」
「じゃあ今日は? 今日はダメ?」
えぇーー!?
今日、今から? これから? えーーー?!
悩むというか困るというか、でも断る理由もないし、むしろ今なら自然に言えるんじゃないかな。
「い、いいいいいよ。う、後ろ乗って」
自然に言えるはずもなかった。
「やったー!!!」
不自然な僕の言葉は、幸いにも彼女の動物好きフィルターに吸い込まれてしまったようで、可愛らしくピョンと跳ねながら万歳をする。
「えっと……し、しっかり掴まってね」
後輪に体重がかかる。
当たり前だけど、幸隆より沈まない。横座りだからバランスもいつもと違う。
柳田さんの腕が僕の腰に回る。ヤバイ、耳まで熱いから誰にも顔も姿も見られたくない。でも危険運転にならないように気をつけなきゃ。
心臓の音も激しいから柳田さんに聞こえてしまわないか心配になった。
「蹄鉄って安全運転のお守りなんだってね。こないだの蹄鉄ね、お父さんの車につけてあげたの」
こんなことなら、この自転車にも蹄鉄つけとけばよかった……。柳田さんが話しかけてくるたびにフラついてしまう。
「なんで、始業式の日に蹄鉄なんて持ってたの?」
あっ、今それを聞かないでください。……後で聞かれても困るけど。
「ちょっと、が、が願掛けにって……」
「わかった、天野君と同じクラスになれますようにってお願いだね」
柳田さんのほうが僕なんかよりずっと天然だ。
「あ、そ、そう。そういうこと」
それから、お互いの今のクラスの話をしながら、家まで到着。わずかだったけど、夢のような時間だった。話している間に緊張も収まって門をくぐる。
いつもなら真っ先に着替えに行くけど、さすがに初めて来た場所に一人でほったらかしにはできない。
「颯、おかえり」
いつもはクラブハウスにいるはずの母さんが、厩舎の奥からひょっこりでてきた。……タイミング悪い。
「た、ただいま」
「こんにちは、お邪魔します」
「あら、こちらのお嬢さんは?」
「学校の友達で、柳田さん。二年の時同じクラスだったんだ」
「そう、ゆっくりしていってね」
「おかまいなくです」
クラブハウスに向かう母さんは、すれ違いざまに不敵な笑みを浮かべた。これは後でつっこまれる。今つっこまないだけありがたいけど。
「えーと、あっちに馬がいるから」
そうだ今日は定休日か……。お客さんも宮本さんも今日はお休みだ。
「わぁ……」
厩舎に入ると、見慣れない女の子に馬たちが一斉に顔を出した。
「わぁ、みんな可愛いねぇ。ホウ、ホウ」
「柳田さん、よく知ってるね、ホウホウって」
「あのね、小さい頃に牧場に行った時に、教えてもらったの」
本当に動物が好きなんだね。
「あ……ゆ、指とか制服とか、噛まれないように気を付けてね」
「うん」
動物が好き、というより馬が好きなんだろうか? 入会希望で見学に来る人なんかより、厩舎のマナーを分かっているみたい。
「触ってもいいよ」
「いいの?」
「うん。こっちきて」
こんな時こそ、うちで一番大人しい淑女のユキコだ。
「ユキコっていうんだ。大人しいけど、万が一があるといけないから気を付けてね」
「うん」
見本に、鼻づらや頬を撫でて見せると、柳田さんも「可愛い~」と言いながら鼻づらを撫でている。
色々なお客さんが馬を触って喜ぶ姿を見てきたけど、まさか柳田さんの喜ぶ姿が見れるなんて。
一頭一頭、厩舎の前で立ち止まって挨拶をして、最後に一番奥の蒼月の前。
「わぁ、この馬カッコいいね!」
「やっぱりそう思うよね! 幸隆も同じこと言ってた。本当にカッコいいんだよ」
蒼月は大人しく柳田さんに撫でられている。
蒼月が始業式の日に来た事、競走馬になれずに乗馬になったことや、他の馬たちの話なんかもした。
それから……僕が競馬の騎手を目指していることも。
「川瀬君、すごいね。もう将来のこと考えてるんだ」
「えっ、別にすごくなんか……。去年の秋までは、馬術部のある高校行きたいな、くらいにしか考えてなかったし」
「私は何にも考えてないよ。もうすぐ受験なのに」
幸隆も同じこと言っていたな。でも、別に僕がすごいわけじゃなくて、他に選択肢がないという感じなのかもしれない。
でも、もしも僕も途中で背が伸びたら、僕はどうなるんだろう。競馬学校に入学しても、途中で体が大きくなって諦める人もいるって言うし……。
「あっ、そろそろ塾の時間だ。私帰るね」
「じゃあ、自転車で送っていくよ」
「ううん、大丈夫」
今度は自然に言えたのに……。
「今日はありがとう。川瀬君のこと、応援するからね!」
そう言って僕の手を握ってくれた。今日一番嬉しい出来事だ。
「じゃあまた学校でね」
また学校で、と言われても、もう別々のクラスだから中々話す機会もない。夢のような時間はあっという間に終わってしまった。
夜、幸隆からLINEが来た。
『手を繋いで帰った!』
……羨まし……と思ったけど、こっちは柳田さんと二人乗りで帰ったんだった。
「あれから、偶然、柳田さんが話しかけてきて、うちに馬を見に来ることになったんだ」
『やったじゃん、どうだった?』
「自転車二人乗りした」
『マジか!』
「うん。柳田さんが腰に手を回してくれた」
『妄想か?』
「妄想じゃないよ。本当だよ」
『腰にって、なんで急にそんなエッチな感じになってんの』
「自転車の後ろに乗せたんだぞ。つかまらないと危ないだろバーカ」
『紛らわしいこというなよ』
「紛らわしいってなんだよ」
『柳田さんと〇〇〇したのかと思っただけw』
その日は……色んなことで後悔と自己嫌悪に陥りながら眠りについた。
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