お見合い相手は、毎朝窓から見つめていた人でした。

矢凪來果

窓から眺める恋。

「ねえ、おばあちゃんは、どうしておじいちゃんと結婚したの?」


 珠子は隣に座る孫娘、多恵からの問いに目を丸くした、

「あら、急にどうしたの?」

「今のうちに聞いておきたいなって思って。おばあちゃんもおじいちゃんもそういう話、全然しなかったから。」


 珠子も夫にも、語るのを避けたい過去がある、と言うことではない。ただ、昔の自慢ばかりする説教くさい年寄りにはなりたくなくて、なるべく控えていただけで、孫が自分達に興味を持ってくれるのは嬉しかった。ただ、よりによって馴れ初めをご所望されるとは…。

 珠子は慣れない昔話に気恥ずかしさを感じながら、どこから話そうかと、言葉を選ぶ。

「一応…、お見合いかしら。」

「そうなの?」

「でもね、実はお見合い前から知ってたのよ。」

「幼馴染とか…?」

 困惑気味の多恵に、『いいえ、』と笑って答えると、彼女は余計にわからないという表情をしていた。

「そういえば、ちょうどこんな風に桜が綺麗な季節だったわね。」

 驚く孫の隣で、珠子は思い起こすように過去の日のことを思い浮かべて語り始めた。



 *********************



 初めてあの人を見つけたのは、庭に植えられた枝垂れ桜が咲き始めていた頃だった。


 街ゆく人たちは、ふっと風が運んだ桜を見つけては思わず立ち止まり、どこから来たのだろうとあたりを見回す。そして、我が家の桜の木が庭の塀から顔を出しているのを見つけて、「ほう、立派なもんだ。」と感心したように微笑んでから再び歩み始めていた。


 当時、女学校を卒業したばかりの珠子は、家から二つほど離れた駅にある百貨店でエレベーターガールとして働いていた。そして、お勤め前に自室のある二階から見える通りの様子を見ながら身支度することがいつもの習慣になっていた。我が家の桜が道ゆく人を笑顔にしていルことが誇らしく、自分もそのようにお客様を笑顔にできるように頑張ろう…と小さく気合を入れるのが日課だった。


 ただ、そんな自慢の桜も、ある人の前では、何も意味がなかった。


「今日も桜も目に止めないで…よっぽとお急ぎなのね…」


 その人は、今日も帽子の上に桜の花びらを載せていることにも気づかないまま、当時はまだ珍しい背広姿で息を切らした様子で、パタパタと革靴で地面を蹴ってかけていった。ほとんどの人がゆったりと春の空気を味わいながら行き交う通りの中で、慌ただしいその人の様子は、よく目立っていた。


 我が家の桜も、そんな彼に見つけてもらえなくて落ち込んでいるような、今日も頑張れと手を振っているような…そんな、どちらとも見える様子でゆらゆらと揺れている姿も、珠子には少しおかしかった。


 そんな彼と桜を度々見ているうちに、窓の外の人たちを眺める日課は、いつしか彼だけの観察へと変わっていった。


 *********************



「それっておじいちゃんだよね?」

「ええそうよ。」

 孫娘の言葉に、あらよく分かったわね、という顔をすると「誰でもわかるよ!」と言葉を強めて返された。

「だっておじいちゃんが遊びに連れてってくれるときって、いつも時間ギリギリだったもん!しかも映画の時とか、足腰も弱ってるのに走り出したりするからヒヤヒヤしたのよ。」

「あの人、本当に出かけるまでに時間がかかるのよね。」

「まったく、ねぼすけはいい加減にしてほしいね…。」

「ふふふ、本当ね。」

 高校生になる孫娘が大人びた様子で文句を言うので、珠子は彼女の成長に目を細めながら、話を続けた。



 *********************


 来る日も来る日も、その人は走っていた。


「あ、寝癖ついてる。」


「今日はご飯を食べる時間もなかったのね。」


 単に急足な日もあれば、身支度が終わっていなかったり、おにぎりを片手に走っていたり、日によって微妙に急ぎ具合が違っているのも見ていて面白かった。


 でもたまに、急いで走っているはずなのに、彼が立ち止まることもあった。


「どうしたのかしら…あ、財布を拾って差し上げたのね」


 目の前の財布を拾って、ご婦人の肩を叩くと、婦人は振り返って驚いた顔をした後、丁寧に腰を折ってお礼の言葉らしき口の動きで話していた。

 遠慮するように手を振りながら、少しはにかんだ笑顔を浮かべるその人の表情は、いつもの急いだ顔とは違って新鮮だな、と珠子は思った。

 もちろん、その後はいつも以上に急いでいたが。


 その日の仕事中は、なぜかその人の顔が頭から離れなかった。



 ***********************



「それってもう、恋する乙女じゃん…。」

「言われてみればそうかしらね。でも当時は、いつか別の知らない方とお見合いするものだとばっかり思ってたから、見てるだけで十分で、恋だなんて考えもしなかったのよ。」

「そんなものなの?」

 恋愛結婚が当たり前のこの子たちの世代にとって、お見合い結婚が当たり前だった頃の感覚は伝わりずらいのかもしれない。

「当時はお見合いが多かったし、私も恋愛よりもお仕事の方が楽しかったから、恋愛結婚にも憧れたりしてなかったしねぇ。」

「さっき聞いた時も思ってたんだけど、おばあちゃんってお仕事してたの?お母さんがおばあちゃんはお嬢様だったって言ってたけど、お嬢様でも働かないといけなかったの?」

 言葉と裏腹にキラキラした目を向けてくる孫娘は、もしかして、貧乏貴族や、継母から冷遇されたお姫様をイメージしているのだろうか。だとしたら、期待を裏切って申し訳ない、と珠子はちょっと思った。


「お嬢様ってのが大袈裟なのよ、お父様がちょっと事業をしてらしたくらいだから、華族や由緒あるお家に比べたら、そんなに厳しくはなくってね。おばあちゃんは、職業婦人に憧れていたから、口八丁でお父様に、働くお許しをいただいていたの。」

「へぇ…私だったら働かないのに…。」

「禁止されてると、やりたくなるのよ」



 ***********************



「珠子は、勤めには慣れたか。」

「ええ、職場の皆様も、お客さまも優しくして下すって、最近ではあんまりまごつくことも無くなりましたわ。」

 ある日、朝食を食べていると、父の耕史郎が珍しく仕事のことを聞いていた。

 我が家は階級意識の強い華族でもなく、家同士で取り決めていた許嫁は姉にしかおらず、跡継ぎも兄がいることもあり、末っ子の珠子は幾分か融通が効いたのか、勤めに出ることを許されていた。耕史郎にとっても、年号が変わり、国民が知らされている情報だけでも何かが激しく動く予感のする時勢に、珠子の嫁ぎ先を決めかねていたこともあり、それならば、いざと言う時のため、結婚が決まるまでの間でも働く経験をしておくのは損でないと思ったのだろう。


 珠子自身は雑誌で見かけるモダンガール、「モガ」は新しい女性という感じがして憧れていた。だから、耕史郎がお勤めの許しをくれた時は信じられないくらい嬉しくて、毎日制服に袖を通すたびに、ニコニコとしてしまう。


「そうか。」

「先日の祝日に頼まれて出た日のお手当がもう少しでいただけるの、そうすれば、お父様とお母様に何かプレゼントを贈りたいと思っているのですが、何がよろしいでしょうか?」

 通知されているお手当ての金額を思い浮かべ、珍しくニヤニヤとしてしまいそうになるのを堪えていたら、耕史郎は、珠子の質問には答えず、別のことを珠子に聞いてきた。


「お前は、職場かどこかで良い人はできたのか?」

「え、いいえ…仕事を覚えるので精一杯で、そんなこと考えてもいませんでした…。」

 一瞬、毎朝見かけるあの人の顔が思い浮かんだが、話したこともないのだからと、すぐに打ち消して、耕史郎の言葉を否定する。お勤めが楽しくて、何も考えていなかったが、社会に出たからには、父に任せきりにせずに、珠子自身でも探した方がよかったのだろうか。

「そうか…」

「探した方がよかったですか?」

 珠子は恋愛結婚に…と言うか、結婚にそこまで興味が湧いていなかったので、お見合いでもなんでもよかったが、そう聞くと、耕史郎は「いや、変な奴が寄ってきていないかと思ったが、杞憂でよかった。」とこぼした後、続けて問いかけた。


「…お前は、夫はどんな人がいいんだ。」

 そんなことを聞くなんて、今日の父は一体、どうしたんだろう。いっそ怪しく思いながらも珠子は考えた。

「ええと…、他人に優しくできる性根の方がいいです。」

「優しい?」

 ぐるぐると考えていると、また同じ人の顔が浮かんだ。毎日、窓からみて想像した人柄は、そのままいつしか珠子の憧れに変わっていた。

「自分が手一杯の時に周りに乱暴になってしまう人は、一緒にいて安らがないと思いますから、多少おっちょこちょいでも、抜けていてもいいので、うん、優しい方がいいかしら。後は、ふとした時の笑顔が可愛らしい方でしたら一緒にいて楽しいかもしれないですね。」


 珠子が言葉を切ると、耕史郎は少し渋い顔をしていた。

「お前の理想だと、なんだか、損な役回りばかりで、出世しなさそうな奴だな。」

 そういうものなのか…確かに道でのあの人は出征街道まっしぐら…と言う感じではなかったかもしれないが、世の中は随分と世知辛いものなのだなぁ。と珠子は思った。


 お勤めを許してくれた父を不安にさせるような相手は避けて置いた方がいいのかもしれない。少し残念だけど。

「そうなんですね。私はお勤めに出ていると言っても世間知らずですから、お父様の良いと思う方が良いです。」

 そういうと、耕史郎は少し目を丸くした後、朝食に再び手をつけ始めた。

「そうか。」

「できれば、なるべく遅く見つけてくださると嬉しいわ。」

「それは、約束できん…」

「そうですよね。」


 耕史郎は真剣に婿探しを進めるつもりだろうなと感じたが、珠子は少しでもこのお勤めと、あの部屋での朝の日課が続けば良いと思った。



 *********************



「お父様はそれから半年くらいした頃に、候補の人を探してくださったのよ」

「その人がおじいちゃん?」

 多恵が問いかけると、珠子は笑い混じりで答えた。

「そうなんだけどね。」

「なんでおばあちゃん笑ってるの?」

「いやだって…」



 *********************



「数ヶ月前からうちを担当をしてくれている鈴木博也君だ。鈴木君、これがうちの次女の珠子だ。」


 そう言って紹介されたのは、毎朝窓から見かけていたその人だった。

 鈴木さんというのか…そんなふうに珠子が思っていると、耕史郎は説明を続けた、

「鈴木君は若いがしっかりしていてな、約束の15分前には会社の近くに来ているようなやつで、仕事もいつもうちのためになる提案だが、どれもしっかり自分の成績に良いものを優先的に持ってくる戦略的なところもあってだな…人脈も広くてたくさんの…」

 そこまで話した耕史郎は言葉を止めて首を傾げた。

「珠子どうした?」

「い、いいえ…」

 危ない、吹き出しそうなのを我慢していたら訝しまれてしまった。


 その後も耕史郎の話す『鈴木さん』のエピソードは珠子が毎日外から見ていた本人像とはほとんど真逆だった。


「後は若いもの同士で」

 と言われてから、両親と仲人の方が出て行くまで、俯いて笑いを堪えていた珠子はすっかり顔が真っ赤になってしまっていた。

「ふう…」

「緊張されましたか?」

「ええ」

 吹き出さないように別の意味で気が張っていた…とは本人を目の前にして、絶対に言えない…。

 とは言え、今度は男の人と二人きりなこの状況に本当に緊張してきてしまっていた。


「いい眺めですね…」とお茶を啜る博也にも「ええ…」とおざなりな返事しか出来ず、どう会話を広げればいい?何を話そう?と思い巡らせて、咄嗟に出てきた話題は、随分後ろ向きなものだった。

「鈴…博也さんは、将来有望なお方だと先ほど伺いましたが、私の家だとあまり出世の後ろ盾になるとは思えないのですが…父に無理を言われましたか。」


 自分の家は、彼の働く銀行の顧客ではあるが、超大口顧客ということでもないし、出世の後ろだてとなるようなツテがあるということもおそらく無い。窓から見ていた彼の人柄を考慮すると、もしかすると彼を気に入った父が見合いをしないと取引先を変える!とでも言ったのだろうか。

「いえ、僕がお願いをしたんです。」

「はい?」

 思いの外しっかりとした声で返された言葉に珠子は耳を疑った。

「珠子さんは百貨店でお勤めをされていらっしゃるんですよね。」

「はい…」

「お取引先の中にも、職業婦人の方をお見かけしておりまして…」

 はにかんだ笑みを浮かべながら話出した彼は、いつかの財布を拾ってお礼を言われていた姿と重なって、素敵だな…と珠子は思った。


「二つ隣の駅にある百貨店も担当しているのですが、特にそこのエレベーターガールのお嬢さんが、とても生き生きと接客されているところを見て、僕も毎日頑張ろうと思っていたんです。」

「あの駅の百貨店って…」

「だから、そう言った生き生きと働かれる、活力のある女性だったら…いや、正直、あなたのお父上から、娘さんが百貨店でエレベーターガールのお仕事をされてると聞いて、あなただったらいいなって思って紹介をお願いしたんです。こんな幸運を呼び寄せるなんて自分でもびっくりです。」


 そんなことってあるのかしら!珠子は今度こそ、本当に真っ赤になって俯いてしまった。


 そのまま、ぽそぽそと、二階の窓からお見かけしていたこと、その笑顔のいくらかは博也によるものだったことを言うと、今度は博也も「見られてたなんて!」と真っ赤になって黙ってしまった。


 静かな空間にししおどしの音はよく響いていた。


 *********************


「その後ね、様子を見にきたお父様たちは、あたしたちが黙りこくって座ってるもんだから、『ああ、ダメだったか…』と思ったみたいだけど、家に帰った二人が思いの外前向きなもんで、不思議がってらしたわ」

 クスクス笑う祖母に、多恵は頭を抱えながら「私もこんな出会いが欲しい…タイムスリップしたい…」と頓珍漢なことを言い出していた。

「現代の方が出会いは多いに決まってるんだから、頑張りなさい。笑顔で人に親切に生きていれば、きっと良い人が想ってくれるわよ。」

「そうかなぁ…」


 そんな話をしていると、ガラっと扉を開ける音がした。音の方を見ると、娘の恵子が扉から顔を覗かせていた。

「お母さん、あら、多恵もここにいたのね。御住職さんが来たから打ち合わせをしてきますね。」

「じゃあわたしも伺わなくちゃね」

 珠子が腰を浮かそうとすると恵子が制した。

「ううん、お母さんに聞かないといけないことがあったら声かけるから、私がやっておくわ。お母さんは…はい、お父さんのそばにいたいのは分かるけど、ちゃんとご飯も食べてね。」

 恵子が渡したのは、近くのコンビニで買ってきてくれたのか、軽食のおにぎりだった。


 恵子について行って多恵も出て行った後の、式場はがらんとしていて、ペリペリと袋を開ける音はよく響いた。

 いつもよりゆっくりとした動作で口に頬張ると、何もいらないかと思っていたが、梅の塩味がちょうどよく、ああ自分はお腹が空いていたんだ。と気づいた。


 多恵のおかげで少し笑って、恵子に渡されたおにぎりでお腹を満たされると、ふわふわと危なっかしく漂っていた負の気持ちが落ち着いた気がしていた。

 そして改めて、冷たくなった夫の顔を覗き込んだ。

 あの時真っ赤になっていた顔が今や血の気のない顔になってしまっているが、それでも耳の上にちょこんと跳ねた寝癖があるものだから、寝ているだけでふと起きてこないだろうかと思ってしまう。


「この寝癖は看護師さんも葬儀屋さんも直せなかったって言ってたわよ…直し方聞いておけばよかったわ。」

 仕事ではきっちり時間前に着く博也が、出勤だけはいつもギリギリだったのは、この寝癖が本当にしつこくて治すのに時間がかかっていたからだというのは結婚してから知った。


 おしゃれが好きだった博也は、孫と出かける時も、珠子と出かける時も、いまだにこの寝癖にこだわっていたものだから、家を出るのはいつもギリギリになっていた。

 寝癖を治そうともしなかったのは、戦時中と戦後しばらくするまでと、そして冷たくなってしまった今くらいじゃないだろうか。

「あの時は、戦争でなんもかんも失ってしまって、闇市にあらゆるものを売ってやっと生活をしていたけれど、あなたの寝癖と子供たちを見ていたら、不思議と笑えたのよね。」


 どん底の時ですら笑わせてくれた癖毛を見ると、まだまだ、涙が頬を伝ってしまうが、今出し切ってしまえば、そのうち思い出したら笑えるようになるのだろう。

「恵子がなるべく時間を作ってくれてるんだから、しっかり見送らないとね。」

 珠子は癖毛をつまみながら、博也に語りかけた。


「足腰はもう弱いから走っては行けないけれど、そんなに遅くはかからないと思いますから、私がそっちに行くまで寝癖でも直してゆっくり待っててくださいね。」


 きっと空耳だと思うが、「待ってるよ」という声が聞こえた気がした。



 fin,

 *********************



 お嬢様だったひいおばあちゃん。


 小さい頃にちぎり絵を教えてくれたひぃおばあちゃんの馴れ初めを聞いたのは、亡くなられてから、孫である母がふとした時に思い出したように教えてくれたものでした。


 ちぎり絵を教えてもらっていた頃に戻れたら、自分の耳でも聞いてみたかったと今でも思います。


 随分脚色もしていますが、ひいおじいさんが毎朝走っている様子を窓から見ていたら、その人がお見合い相手なのは本当で、

 緊張して俯いていたので、声をかけられてようやく顔を上げたら、その人で大変びっくりしたそうです。


 ひいおじいさんは、戦争中に亡くなったそうですが、元お嬢様のひいおばあちゃんが女手一つでおじいちゃんを頑張って育ててくれたおかげで今の私があると思うと、改めてリスペクトと平和への想いが募ります。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

お見合い相手は、毎朝窓から見つめていた人でした。 矢凪來果 @kikka8791

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ