エピローグ

「それではみなさん、整理するわ」

 おれが言ったとたん、二人は吹き出してしまう。

 蔵元知恵の肉体を持つ森本桃子は、すぐに笑い止んだけれど、竹田和也の肉体を持つ蔵元知恵は、しばらく腹を抱えて転げまわっていた。

 それほどスペースに余裕の無いおれの――今は知恵の部屋だ。そのうちどこかに頭を打ちそうだ。

「何がそんなに面白いんだよ」

 初めて女性言葉で話してみただけのことだ。じっさい、今後生きていくためには、何とかしてマスターする必要がある。

「じゃあ、一昨日までのことを、一人ずつ話して」

「あ~、諦めたね」

「うるさい、和也」

「和也じゃなくて、知恵だもんね」

 べー、と大人気なく舌を出す青年に不気味なものを感じながらも、おれはそれを受け流すことにした。

「……もうどうなっても知らんからな」

「やよいさんの言うとおりよ」

 森本桃子は、おれのことを新しい名前で呼ぶ。

「永遠になるのかどうかは分からないけど、少なくとも当面は今のこの肉体にお世話になるんだから、最低限の社会的体面は保てるようにしないと」

「……はーい」

 しゅん、と小さくなる和也の肉体。

「どっちみち、わたし――社会的には蔵元知恵と、あなた――社会的には竹田和也は共同して『梅田発なかもず行き電車』の都市伝説を解き明かさないと。研究テーマだしね」

 理解したのかどうかは分からなかったけれど、知恵は大人しく首を縦にふる。

 椋山教授の目的がどこにあったのか、それはけっきょく分からなかったけれど、少なくとも『梅田発なかもず行き電車』の都市伝説にその当初から関わっていたことは間違いない。そして、あの傘に何らかの力があり、それに触れたものが次々と行方をくらませたのだろう。

「そういえば、あの傘は?」

 桃子が、言った。

 おれは首をふる。

「分からない。今もどこかにあるのか、それとも、もう無いのか」

「無い?」

「少なくとも、一昨日あの踊り場を出るときには、どこにも無かった記憶があるけど」

「うーん、じゃあ、陸奥さんが持って行ったとか……」

「そうかもしれない。……そうじゃないかもしれない。一度聞いてはみるけど、重要な参考物品だからね。ちゃんと教えてくれるとは限らないよ」

「それじゃ」と知恵が口を挟む。

「ドン・アンジェラってけっきょく何だったのかしら? ママさんがせっかく残してくれたダイイングメッセージなのに、うまく使えなかったし」

「そうでもないよ」おれは続ける。

「ママさんが残したのは、アンジェラじゃなくて、ア・ン・…ラだろ」

「だから、ドン・アンジェラのことでしょ?」

「ア・ン…ラ、あ!」

 桃子が、声を上げる。

「アンブレラ…つまり、傘」

「そう」おれは頷く。

「ちなみに、ドン、ってのは英語で教授と言う意味もあるから、つまり教授、傘、今回の事件の核心を見事についていたわけだ」

 もっとも、ドンはあとになってから気付いたことだけれど。

 おれは続けて、言った。

「森本桃子が失踪する前夜、彼女が椋山教授が手渡した折り畳み傘を持っているのを覚えていたんだろうね。そして、あの日――ママさんが自分の身の上話をした夜の帰りに、同じ傘を蔵元知恵がカバンから取り出すのを見たんだろう。そのときはおそらく何も思わなかった。ただ、蔵元知恵もその翌日に姿をくらましたと知ったときに、傘との関連に気付いたんじゃないかな。それで、殺された……今となっては推測することしか出来ないけどね」

 うなり声をあげる知恵と桃子。

 分かったような分からないような、という表情だ。それはおれも同じだ。

「じゃあ」

 と知恵がこちらに視線を向けてくる。

「やよいさんは?」

 聞かれるかもしれない、というおれの予想は的中した。

 だからといって気のきいた解答を用意しているわけではなかった。

「分からない……けど、ひょっとしたら――」

 ここから先は、言葉にならなかった。言葉にしたくなかった。


 姉さんは、あの日からずっと、いなかったのかもしれない。

 十七年前、電車に置き去りにされた姉さん。そして、なかもず駅で父に会い、裏切られ、逃げ出した姉さん。


 ――あの傘は、姉さんの傘だ。


 一昨日、なかもず駅の踊り場で傘を見たときに感じた漠然とした不安感覚は、あの頃の記憶に起因しているのだ。

 傘とポーチだけを握り締めていた姉さんは、あの日、自分を捨てたのだ。

 それ以降、おれの姉、竹田やよいは社会的には存在していたけれど、実は存在していなかったのかもしれない。


「どうかした? ひょっとしたら、何?」

 知恵と桃子が、こちらを見ている。

「ああ、ちょっと、まだ疲れが抜けなくてね……あと、やっぱり他人の体にはなかなかなじめないってことかな」

「他人って……あんたはいいわよ。憧れのお姉さんになれたんだから……その点わたしなんか、これよ、これ」

 自分を指差して大きくため息をつく知恵。

「失礼なやつだな」

 二人のやり取りを見て、桃子が笑っている。

 作り笑いだろうか、とおれは勘ぐってしまう。

 まだ意識的には生きているとはいえ、桃子の肉体は現世的な死を迎えてしまっているのだ。そのことについて触れてもいいものかどうか、まだおれには判断できない。気にしているのかどうかは不明だけれど、知恵もその話題には触れない。


「わたしの――森本桃子の死体についてだけれど、」

 と、おれの心の中を見透かしたようなタイミングで、知恵の体を持つ桃子が、切り出した。

「男装していたっていうことなのよね」

「ああ……それが?」おれが、さらりと聞き返すと、

「あの体に入っていたのが元々男の人だったという推測が出来ますね」

 おお、と手を打つおれの体を持つ知恵。

「そうかもしれない……けど――」

 と、言いかけたおれを制して「そうじゃないかもしれない」と桃子が口にする。おれが言いたかったセリフだ。いずれにしてもどちらでもいいことなのだ。


 おれは話題を変えて『梅田発なかもず行き伝説』の方へと話を持っていく。

 今後の研究の進め方について、その他、竹田和也として生きていくために必要な情報を事細かに記載したノートを手渡して一緒に確認した。

「じゃあ、また何かあったら電話して」

 おれが早々にその場を辞そうとすると、

 竹田和也の体を持つ知恵が、

「せいぜいストーカーに気をつけて」

 と冷やかすように言った。

 忘れていたけれど、そのこともある。変態男に付きまとわれると考えるとぞっとしない。おれは言い返せずに少し顔をしかめてしまう。

 と、ふふふ、と知恵の体の桃子が含み笑いをする。

 おれが目を向けて首をかしげると、

「多分……というか、もうストーカーは出没しませんから安心してください」

「どういうこと?」

「わたし――森本桃子は、兄弟に会うことを夢見ていました。そして、竹田和也には会うことが出来ました。だけど、桃子には、もう一人、姉さんがいるのです。彼女が興味を持たないはずはありません」

 物語でも語るように、人事のように、桃子は語る――もっとも、知恵の体となった彼女にとっては文字通り人事だと言えなくはないのだけれど。

「すると、桃子がストーカー?」

 おれが口を開く前に、和也の体を持つ知恵が、身を乗り出しながら問い詰めるように言った。

 さらりと受け流しながら、桃子が頷き、そして突然、笑い始めた。

 しばらくは呆気に取られていたおれと知恵も、ある瞬間を境に、笑いが止まらなくなった。なぜだろう。笑い事ではない状況のはずなのに、笑いが止まらない。でも、きっとこれでいいのだろう。理由は分からなかったけれど、おれは思った。



 姉さんが予約していたホテルの部屋に戻り、一息ついてなんとなく今後のことを考えてみる。

 正直なところ、まだ学生である知恵と桃子は肉体が違ってもなんとかごまかせるのではないか、と思っていた。問題はおれ自身だ。曲がりなりにも社会人としてやってきた姉さんの代役が、おれに務まるのかどうか。普通に考えれば無理だ。ちょっと体調不良ということでしばらく休んでしまうのがいいか、それとも一度退職して、新しい仕事を探すのがいいのか。その他の選択肢があるのか――

 この肉体になってから、その事実が重くのしかかってきていた。

「まぁいいさ。何とかなるだろう」

 言ってみると、不思議と笑いがこみ上げてきた。

 と、携帯電話の着信が入ってきた。ディスプレイには、陸奥、という名前が表示されている。おれは通話ボタンを押してから、ケータイを耳へと持っていく。


『和也君か?――あ、じゃなくてやよいさん? まぁどっちでもいいんだがね。ちょっと今大丈夫かね』

「ええ、大丈夫ですよ」

 竹田やよいの肉体に入っているのが実は和也なのだという事実を、けっきょく陸奥には言っていない。伝えても信じてもらえる可能性は限りなく低い。それに、知ってもらう意味ももう無いのだ。

「どうですか? 調査は進んでいますか?」

『ああ……そのことなんだがね』

 その声色だけで、うまくいっていないことが分かる。

『まぁどうにもあの椋山教授ってのぁ、食わせもんだ』

「そうでしょうね……そんな一筋縄でいけば苦労はないんでしょうけど」

『いや、古賀教授のほうからは色々と情報を取れたんだがね……どうも椋山教授はな……』

「知らぬ存ぜぬの一点張りですか?」

『うー…ん、そういうわけではないんだが……』

 陸奥の口調にいつもの快活さがない。いったい何が言いたいのか、掴みかねていると、

『いや、すまない。君に言っても仕方がないことだったね……ただ、こんなことは初めてだったからいささか困惑しててね。どうもあの椋山教授ってのは、以前会ったときとは全く印象が違う』

「それはまぁ容疑者としてあつかわれれば誰しも平常心ではいられないでしょうね」

『それはそうなんだが……』

 珍しく歯切れが悪い陸奥に次第にじれてきて、とにかく用件を言うように促した。

 と、すまない、とひとこと謝罪の言葉を述べてから、陸奥が話し始める。

『いやなに、取り調べ中に容疑者が支離滅裂なことを言い始めるのは、私も何度も経験しているんだがね。何というか、その内容がちょっと気になってね。まぁいちいちそんなことに構っていたらこんな仕事はやってられないんだが……』

「内容? 椋山教授は何と言っているんですか?」

 自然に鼓動が早くなっているのが感じられた。予期不安というやつだろうか、となんとなく考えながら出来るだけゆっくりと呼吸を整える。

 陸奥が、話を続ける。

『往生際が悪いというか何というか……何を聞いても「自分は知恵……蔵元知恵だ」としか言わん。トチ狂ったのか何なのか……』


 一瞬にして、黒いもやが心の中を覆いつくす。

 汗が、額と背中を流れる。粘着質な、汗だ。

 

 おれの手から離れた携帯電話は、そのままベッドへと落下した。

 受話器から届いてくる陸奥の声が、耳鳴りのようにおれにまとわり付いてくる。

 


 あの少女の肉体を持つ者と、蔵元知恵の肉体を持つものが帰ったあと、竹田和也の肉体を持つ者は、家の中を物色する。

 狭い部屋だったけれど、何がどこにあるのかは一応把握しておく必要がある。


『仲間』――古賀教授が遅れてやってきたときには、どうなることかと泡を食った。ただあの瞬間、誰よりも早く傘――『龍の涙を受け止める花弁』を奪い取り開いて発動することが出来たことは僥倖だった。

 傘に入っていた蔵元知恵と、椋山教授に入っていた彼がまず入れ替わってしまったけれど、椋山教授の肉体には元々それほど未練があるわけではなかった。ただ、物理的空間での活動がしやすいように今まで積み上げてきたものが無くなってしまうのは惜しい気もする。ただ、背に腹はかえられない、とすぐに思い直した。

 そのあとのことははっきりとは分からないけれど、今彼が竹田和也の肉体に入っていることから考えると、椋山教授のあと竹田和也が傘を奪い取ったのだろうと推測できる。そして、忌まわしきあの少女の抜け殻――竹田やよいが触れ、その中に竹田和也が入ったのだ。その時点で、『龍の涙を受け止める花弁』はもぬけの空の状態のはずだ。

 竹田和也の体に入った彼はとっさの思いつきで蔵元知恵のフリをすることにした。一応は成功したといえるだろう。

 しかし『龍の涙を受け止める花弁』だけは、いついかなる時も手放すわけにはいかない。次はもっと慎重にことをすすめなければ。

 彼は立ち上がり、部屋を出る。目的地はもちろん、なかもず駅の8番出入口の階段の踊り場だ。そこに『龍の涙を受け止める花弁』が、戻ってきているはずだ。

 

 彼は数オクターブ上へと上昇した。

 

 どの肉体に入っているかなど、彼にとっては些細な問題だった。ただ、もっと上へ。『声』の元へ――

 そのことだけが、全てだった。

 

 彼の意識は、眼前にそびえ立つささくれた塔と、自らが組み上げつつある『光の階段』だけに注がれている。

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梅田発なかもず行き 高丘真介 @s_takaoka

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