第44話 なかもず駅8号出入り口 -2
「仲間、とは、古賀先生ですね」
おれの問いに椋山教授が頷いたその瞬間、教授の背後から現れた二人の男が、その両脇にポジションを取る。陸奥と乙だ。
「どうも分からんね。いったい君達はどこの言葉で話しているのかね……」
陸奥が、ちら、とおれの方に一瞥だけくれると、すぐに椋山教授を振り返る。
「まず、森本さんが亡くなったという事実を、あなたが知らないはずはない。それに、あなたが今話しかけたのは森本さんではなく、蔵元知恵さんだと思うがね……」
陸奥の登場にも、焦る様子の見られない椋山教授。おれの思惑通り進むのかどうか、少し心中に不安が広がる。
姉さんを迎えに行ったあと、陸奥に連絡を取り今すぐになかもず駅に来てくれるように頼んだ。
賭けだった。もし何もなければおれの身も保障されない。しばらく警察のお世話になるかもしれなかった。しかし、今を逃せば、陸奥に事実を知ってもらう機会はもう無いかもしれない。そう思ったのだ。
「いずれにしても、ママ・キャサリン殺害を自供した人間をこのまま帰すわけにはいかないのでね」
椋山教授は呆けたような表情で、ああ、と呟いたきり、何も答えようとしない。
「ちょっと、署で事情をお聞かせ願えますかね」
おれ達3人と、陸奥と乙に挟まれる形になった教授は、それでも焦る様子はない。観念したのか、それともまだ言い逃れ出来るというのか――
と、唐突ににやりと口元だけ笑みを浮かべた教授が、
「仕方がない。それは君にあげよう」
「え?」
一瞬何のことか分からなかったけれど、その指差す先を見て、すぐに傘のことだと気付いた。
「さぁ、早く持って行きたまえ」
最前までとはうって変わって、まるで持っていってもらいたい、とでもいうような態度だ。
訝しさを感じたけれど、それでもこの傘が全ての始まりであるのならば、どうしても手に入れる必要がある。
椋山教授の様子を警戒しながらも、おれは一歩一歩、壁に立てかけてある傘へと近づいていく。
青い、どこにでもあるような折り畳み傘だ。
はるか昔に見たことがあるような気もするけれど、記憶は曖昧だった。
右手を伸ばす――と、ばたんばたん、と階段を何段か飛ばして降りていくような、音が聞こえてきた。
手はそのままに、振り返る。
誰かの悲鳴と、どけ、という男の怒号。
呼応するように、陸奥と乙が地面を蹴る。
目の前に男が迫ってくる。
おれは思わず手で体をガードする。
前からの衝撃に、体が浮かぶ。
次の瞬間には、後ろ側に叩きつけられ、視界が瞬く。
何とか体を上げると、そこには地面を這いながらも、傘に向かって手を伸ばし必死の形相を浮かべる男の姿があった。
「古賀先生!」
誰かの叫び声。
そうだ。忘れていた。
蔵元知恵は椋山教授ではなく、古賀教授から、傘を渡されたのだ。
後頭部のあたりから、じんじんと鈍痛が襲ってくる。
体はなんとか動いたけれど、まるで自分のものではないように緩慢な行動しか出来ない。
と、チカチカと瞬く視界の隅に、今日初めて必死な表情でこちらに向かってくる椋山教授の姿が入った。
姉さんと、蔵元知恵の肉体を持つ森本桃子、陸奥と乙も傘へと手を伸ばしてくる。
距離は、おれが一番近い。
手を伸ばせば届く。
頭では分かっている。
けれど、なかなか信号が末端まで届かない。
このまま、傘を取ってしまってもいいのか、という漠然とした不安が、躊躇させていたのかもしれない。
けっきょく、最初に誰が手に取ったのか、それは、わからなかった。
心地よい雰囲気の中で、おれは自分の姿を自分で見ていた。それは今の姿のようにも、十年前のようにも、そして十七年前――あの事件が起こった少年時代の姿ようにも感じられた。
姉さんが、漂っていた。
姉さんもまた、少女時代の姿をしていた。ガリガリに痩せていて、生気の無いうつろな目をした、十歳の姉さん。
「泣いているの?」
おれが訊く。
「いいえ、鳴いているのです」
姉さんが答える。
すると、姉さんは姉さんではなくなる。
姿形は変わらないのに、そこから『何か』が失われたことが、確かに感じられた。その『何か』は、するすると周囲の障害物をすり抜けながら、上へと昇っていく。上、という表現が正しいのかどうかは分からない。しかし、それ以外に言い表す言葉をおれは持っていない。
姉さんは、いなくなった。
おれは必死にその姿を追っていこうともがいたけれど、なぜだかいっこうに体が昇っていかない。それどころか、あがけばあがくほど、どんどんと体が落ちていく。急速に堕ちていく。
どのぐらい時間が経ったのか、それは分からない。ただ、目覚めると、周囲は喧騒につつまれていた。
まだ顔を伏せたままの数人に、心配そうな目を向けている人々が、こちらを向いた。
「いったい何があったのですか?」
何か答えなければ、と思ったけれど、言葉にならない。
いったい何があったのか、おれにもよく分からないのだ。
駅員の方もそれ以上追及して来る様子はない。彼自身、狼狽してしまっているようだった。よく見ると、まだ若い。二十歳過ぎぐらいに見えた。
――そういえば傘は?
と、おれは振り返る。
そこには、おれがいた。
体を起こして呆然としているその青年は、紛れもなく竹田和也だ。
おれは?
何となく自分の足の方を見る。
見覚えのあるスカート、そしてカーディガン。
頬にかかった髪をかきあげ、おれは立ち上がった。
周囲を見回す。
椋山教授に続いて、古賀教授が立ち上がり、唇をかみ締めている。その傍らに、陸奥と乙が近寄り、ぽんと肩を叩いた。
「う……ん、あれ?」
蔵元知恵の肉体を持つ森本桃子も顔を上げて、まずは竹田和也の肉体へと視線を向け、それからおれの方へと目を向けてきた。
「森本さん?」
「はい……えっと、やよいさん?」
おれは首をふると、答えた。
「いや、竹田和也だ」
これで全員、意識を取り戻したことになる。
周囲でざわついていた人々も、一人また一人とその場を離れていく。駅を通る人でそんなに暇な人間などいないのだろう。みるみるうちに人垣が崩れていき、最後にはおれたちと若い駅員が一人残るのみになっていた。
「あとはわたしたちに任せなさい……うまくやっておくからね」
陸奥が、おれのほうに一礼すると、椋山教授、古賀教授を連れて、去っていく。その後ろから、乙が付いていく。
「あれ、やよいさん?」
竹田和也の肉体が、おれに向かって声を発する。
そして、その自分の声に戸惑いながらも周囲を見回し、そして、蔵元知恵の肉体を凝視して、そのまま言葉を失う。
――やはり。
おれは竹田和也の肉体のそばに近寄り、声をかけた。
「君は蔵元知恵……だね?」
「そうよ……あれ、あ、あ、声が……」
その女性言葉を自分の体が発していると考えるとぞっとしないけれど、もう慣れるしかない。竹田和也の肉体は、竹田和也であって、おれとは違う。おれは竹田やよいなのだ。
「知恵」
と、蔵元知恵の姿をした森本桃子が、竹田和也――蔵元知恵に声をかけた。
竹田和也の肉体を持つ蔵元知恵は、十秒ほど呼吸を整えるような仕草をしてから、立ち上がる。
「長い夢を見ていたような気がするわ。どこかに閉じ込められていたような、それでいて、今まで見たことのないほど広い世界があって、それで……」
独り言のように呟きながら、自分の手のひらや、服を確認している。
「どうでもいいけど」とおれが口を挟む。
「その言葉遣いやめてくれないか? 竹田和也がヘンタイに見えてきた」
ぷっ、と隣で 知恵の体を持つ森本桃子が吹き出す。
まだ、何が起こったのか、完全には理解し切れていない様子の竹田和也の肉体を持つ蔵元知恵は、きょときょとと目をしばたたかせている。その子犬のような雰囲気は肉体が変わっても健在のようだ。
「あれ? 3人?」
はれぼったい目を擦りながら、ロン・メイメイが階段を降りてくる。
「ああ、今終わったところだ。もう行くから上で待ってて」
「ハーイ」
間延びした返事を残して、再びロン・メイメイは去っていく。
おれは蔵元知恵の肉体を持つ森本桃子、竹田和也の肉体を持つ蔵元知恵に順番に目を向け、
「詳しい話はまたあとだ。とにかくここを出よう」
「賛成」
と応じる桃子に続いて、竹田和也の肉体を持つ知恵も小さくはーい、と呟く。
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