第43話 なかもず駅8号出入り口 -1

 その折り畳み傘を目にした瞬間、異様な不安感に襲われたおれは、思わず手を引っ込めた。椋山教授が、そんなこちらの様子を伺っていることが分かった。

「大丈夫ですか?」

 蔵元知恵の姿をした森本桃子が、小声で聞いてくる。おそらく彼女は、あの日この傘を渡されたときに同じ違和感を覚えたのだろう。大丈夫だ、と身振りで応えると、彼女はそのまま椋山教授に向き直った。

「どうして、その傘がここにあるんですか? なぜ、先生はそれを知っているんです?」

 時間帯が良かったのか、この階段にはほとんど人の流れは無い。ときおり通る人もほぼ全員隣のエスカレーターを使っている。

「どうして、というのはこちらのセリフだよ。和也君。どちらでもいいけど、とにかくそこをどきなさい」

 椋山教授はやはりこの折り畳み傘に執着しているようだ。

 ちら、と姉さんの表情を覗き見たけれど、傘に反応している様子はない。

「この折り畳み傘、頂くわけには行きませんか? ずいぶんと古いようですけど……ちょっと彼女がこの傘を気に入ってしまってね」

 なんとかこの場で『あの言葉』を言わせなければならない。今回の事件――さらに、この『梅田発なかもず行き電車』の都市伝説を作り上げた本人であればこそ、当然知っている事実。

「椋山先生、この傘って、あの日わたしが先生に借りたものですよね。あの、親睦会の日に」

 蔵元知恵の姿をした少女が、予定していた言葉を発する。森本桃子が口にするべきセリフだ。

 対して、椋山教授は顔色一つ変えずに、言った。

「ああ、そうだ。わたしが森本さんに貸したんだったね。……それがどうかしたかね?」

 その言葉を聞いて、ちらと森本桃子を伺い、そして、姉さんに目配せをして、すぐに教授に向き直る。

 その目がどこを見ているのか、何を見ているのか、おれには分からない。じり、じり、と、こちらへと足を進めてくるその姿には戦慄を覚える。それでも、ここまできて引き下がるわけにはいかない。おれは覚悟を決めて、口を開いた。

「今の発言で分かりました。今回のこと……というよりも、全ては先生が仕組んだことだったんですね」

「全て、とは?」

 まったく表情を変えない椋山教授に、どう答えるべきかを少し迷っていると、先に蔵元知恵の体を持つ森本桃子が

「ママ・キャサリンは」という言葉で口火を切る。

「ママさんも、あなたが殺したんですか?」

 ひやり、と背中に一筋、汗が伝ったように感じた。額からも汗が吹き出してくる。

 無言でただ、椋山教授を見つめていた。

 衝撃の告発に対しても、やはり動じる気配は皆無だ。

「この傘はもともと姉さんのものだ」

 言ってから、姉さんの方に視線を向ける。姉さんは、首肯したようにも、首をかしげたようにも、どちらとも取れるような曖昧な反応をしただけだった。

「そうだ」

 と、意外にも椋山教授の方から返答が帰ってくる。

 おれが振り返ると、すっと一歩下がり息を吐き出し緊張の糸を緩めるように表情を和らげた椋山教授は、話し始める。

「十七年前のあの日、私はこの場所で竹田やよいから、『龍の涙を受け止める花弁』を貰い受けたのだ」

「龍の涙? いったい何の話ですか?」

「ああ、その傘のことだよ」

 雨を受け止める物、というところから雨を龍の涙と連想する。それを受け止めるものとして、開いたときの傘を花弁に見立てている、ということだろうか。

 それにしても、話が突然すぎる。教授の目にはいったい何が映っているのか、おれには分からなくなってくる。

「その『龍の涙を受け止める花弁』を使って、段を、濾し取るのだ。そして、いつか必ず君のところへと登りつめるのだ」

 君のところ、と指差す先には、姉さんがいた。

 その意味はおれには分からない。理解したのかどうか分からないけれど姉さんは無言でただ見つめ返すのみだ。

「具体的に何がどうなのかは分からないんですけど」

 おれが口を挟んだ。とにかく本人の口から聞けるだけ聞き出さなければならない。

「要するに、『梅田発なかもず行き』電車の都市伝説を作り上げたのは、あなたなのですね……そして、今回も、その傘を森本桃子と、蔵元知恵に手渡すことで、彼女らの――どういったらいいのか分からないけれど……」

 確かに二人は巻き込まれたけれど、森本桃子の肉体は死んだけれど、彼女本人が亡くなったわけではない。

「にわかには信じられませんけど」

と、蔵元知恵の肉体をもつ森本桃子が、一歩前に踏み出す。

「今の話によると、私は一度、その傘に閉じ込められたのですね……そして、その傘に知恵ちゃんが触ることで、私……森本桃子の魂と入れ替わり、知恵ちゃんが今まさにこの傘に取り込まれている、ということですね」

 椋山教授は胡乱な目をしながら、しばらくこちらを見まわしたあと、ゆっくりと頷いた。

「今そこに居るのは、彼女のはずだ」

「では、ママ・キャサリンは――彼女はどうなったのですか?」

「彼女は、死んだよ――私が消滅させた。傘のことに気付いたようだったのでね」

「あの椋山研と古賀研の親睦会の日に、あなたが直接森本桃子に傘を手渡した。それはおれも見ていました。でも、蔵元知恵に傘を手渡したのはあなたじゃない」

「そうだ。仲間がやったことだ」

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