第3話

 街をお嬢様と並んで歩けば、住民たちは様々な視線を注ぐ。

 お嬢様の容姿に見惚れる者、あの力を恐れて遠巻きに観察する者、敵意を隠しもせずにらみつける者。

 どう見られようと、彼女の足取りは舞踏のように軽やかで。贔屓ひいきの酒屋へ向かう間も、楽しげに笑んだ。

「やっぱり、お父様は赤ワインがいいかしら」

「ええ。あの店主殿は、年代物を多く取り揃えておられるそうですし」

「お母様は、薔薇ばらの花がお好きだったわね。花屋にも寄らなくちゃ」

 買い出しも私やほかの使用人に任せればいいのに、お嬢様は自分であらゆるものを見聞きしたがった。両親と外食をする機会も多かったようで、舌が肥えた結果、簡単な菓子を手作りする趣味まで持った。私含め、侍従たちもその味わい深さにうなったほどだ。

 島中の店という店を見て回り、気に入った商品を買いつけることに、本人はすっかりはまったようだった。

 やがて、赤ワインの瓶は私に、白い薔薇の花束はお嬢様に抱えられた。

 館へと続く坂道の途中、何者かが背後から迫ってくるのを察した。

 私は振り向きざまに、ひじを後方へ突き出す。

「ひッ」

「失礼。署長殿でしたか」

「いやはや、こちらこそ申し訳ない」

 姿勢を正して一礼すれば、中年の男も苦笑まじりに謝罪した。警察の制服の肩に付いた粉雪を払い、帽子を脱ぐ。

「声をかけるべきだとは思ったんだがね。君たちがあまりにも早足だから、追いつくのに必死で」

「ごきげんよう、署長さん。今日はどんなご用件かしら」

 愛想よく挨拶あいさつするお嬢様ではあるが、いつも通り、目だけが笑っていない。

 男の視線が、卑しい粘り気を帯びているせいだ。彼女の輪郭に絡みつくかのように。

「盗人の女の件、我々としても本当に助かったよ。是非お礼がしたくてね。明日の夜にでも」

「あら、わざわざありがとう。でもごめんなさい、明日は大切な日だから」

「そこを何とかしてもらえんかね。今回は議長や裁判長、商会長も招いてるんだ。晩餐ばんさんを楽しみながら、島の発展について意見交換を――」

「素敵なお誘いね。けれど、後日にお願いしたいわ。明日は絶対に無理なの」

 失礼、とスカートの裾を軽く持ち上げ、お嬢様は[[rb:踵>きびす]]を返した。

 同じく会釈をした私の耳には、署長の聞こえよがしの舌打ちがぶつかる。

 やはり、喉元か顔面に肘を当てるべきだった。

 花束を大事そうに抱え直し、お嬢様は嘆息する。

「相変わらずね、あの変態」

「殺しますか」

「いいえ、まだ利用価値があるもの。向こうだって、きっとそう思ってるでしょう」

 反省の意思も見せず情状酌量の余地もない犯罪者は、お嬢様の力で闇に葬られる。それが、島における暗黙の了解だった。父親の代やそれ以前からも続いていた因習ではあるが、本人は自分の代ですべて終わらせる決意を固めている。

 それは同時に、彼女が十年間抱いてきた悲願でもあった。

 それより、とお嬢様は無邪気な笑顔に戻って告げた。

「帰ったら全員分のおやつのレモンパイを作るから、また味見してね」

「はい。きっと、皆様喜ばれるでしょう。お嬢様の作られるお菓子は絶品ですから」

 帰る家があり、出迎えてくれる家族がいる。

 世間では当たり前であることがこれ以上ないほど幸せだと思えるのは、彼女とともに歩いていけるからだ。


   ◆


 お嬢様が厨房で腕を奮ってこしらえたレモンパイは見事に焼き上がり、食堂に集まった侍従たちも皆絶賛した。中には、やはりあからさまな機嫌取りの美辞麗句を並べ立てる者もいた。それでも、自分の手料理を味わってもらえること自体が嬉しいからか、お嬢様も彼らをとがめはしない。

 自分と私の分は夕食後の楽しみに取っておこうと本人が言ったから、互いに湯浴みを済ませたあと、お嬢様の部屋で小皿に切り分けて食べた。

 レモンの酸味とパイ生地のさくさくとした歯応えが、舌の上で踊る。

 ベッドに座って満面の笑みになる彼女の唇の端に、パイのかけらが付いていて。それを指で掬って舐め取れば、不満げな視線が返ってきた。

「付いてたなら教えてよ」

「ご自分で召し上がりたかったのですか」

「そうよ。あと、二人きりのときは敬語は――」

「わかってる」

 さらりと答えて微笑めば、仕方ないわねと言いたげに彼女も眉を下げた。

 空になった皿にフォークを置いたその手が、きゅっと握りしめられる。

「お父様とお母様にも、食べて欲しかったわ。昔はまだ、ひとりで料理ができなかったから」

「明日、薔薇やワインと一緒に持っていけばいい。お二人もきっと喜ばれる」

「……そうよね」

 ご馳走様、と私も棚に皿を置くと、お嬢様は上目遣いで物欲しげに見つめてくる。甘えたいという合図だ。

 その愛らしさに、私も寝間着姿の彼女に腕を回し、細い腰と背中を支えるようにして抱き寄せた。

 ランタンの灯りに照らされた銀髪が、撫でる手の内側で穏やかにきらめく。

 私の執事服の肩に顔をうずめ、彼女は淋しげに呟いた。

「あなたはいつ、わたしを抱いてくれるのかしら」

「君が大人になったら」

「いつもそればかりじゃないの。あと三日すればわたしの誕生日だし、やっと成人式にも出席できるのよ」

「僕も毎度我慢してるんだけどな、一応」

 家族になろうと過去の私は望み、彼女も応えてくれた。時間を共有するうちに彼女が願った私の立場は、父でも兄でも弟でもなく、新たな家庭を築く伴侶だった。年を経るごとに愛情は深まり、時には喧嘩もしたものの、互いに別の道を歩む未来の想像もできなくなっていて。

 抱かない代わりに触ってよ、とお嬢様はいつもキスをねだる。

 レモンの甘酸っぱさが残る唇に、自分のそれをそっと押しつけた。

 やわらかな弾力のそこは、僅かに湿っていて。ん、とパイよりも甘い声を発した彼女の腕が、背にすがりついてくる。

 朗らかに笑む頬にも、私の声を受け入れる耳朶じだにも、髪の隙間からのぞく首筋にも、私に触れる指にも、唇を降らせたくなる。

 けれど、これ以上はまだだめだ。

 何度も角度を変えて続けたくちづけは、やがて名残惜しくも離れて。

 最後に、お嬢様はまた馴染みの一言で締め括る。

「じゃあ、おやすみのキス。もう少し起きてるつもりだけれど」

 はにかみながら毛布の下に潜った彼女の額に、私は唇で触れた。愛しいぬくもりを感じながら、ささやく。

「おやすみなさいませ、お嬢様」

「……ん」

 起床はきっと、私よりお嬢様のほうが早いだろう。そう予想しながら暖炉の火を消し、音を立てずに扉を閉めた。

 まっすぐに生きる彼女が、今夜も幸せな夢を視られるよう祈りながら。


   ◆


 翌朝も雪がちらついてはいたものの、珍しくわずかに晴れ間も見えた。

 館から程近い墓地で、お嬢様は私の前を進んでいた。昨日買った花束を、大事に抱えて。

 不揃いに並んだ二つの墓石まで歩み寄り、彼女はそれを供えた。その横に私がワインの瓶を置くと、ほっと息をつく。

「お父様、お母様。わたし、もうすぐ十八歳になるのよ。あれから十年も経ってしまったのね。ほら、彼もこんなに大きくなって」

 私を見上げる彼女の眼差しは、誇らしげだ。

 私も感謝の意を込め、墓石に頭を下げた。

「わたしね、夢ができたの。この島で暮らす人がいなくなったら、彼といろんな国を旅しようって。彼と一緒に、どんな場所でも生きていきたいの」

 素敵でしょう、と胸を張る彼女には、けれど母親への複雑な感情だけがくすぶり続けている。

「……お母様。やっぱり、あなたのことは今でも大嫌いよ。力のことは、どれだけ憎んでもかまわない。それでもね、お父様とわたしを愛してくれてたことまで、否定しないで欲しかったの」

 お母様は、ずっと優しかったから。

 呟くその声がかすかに震え、私はその肩を支えた。

 菫色の瞳が、切なげに墓を見つめる。一度の深呼吸のあと、そこには毅然とした光が戻っていた。

「昨日、初めてレモンパイを作ったのよ。彼にも味見してもらってね――」

 日々の出来事を報告するお嬢様を和やかに見守る中、不意に殺気を感じた。

 門の近くで、見慣れた凶器が口を開けている。鉛弾を撃ち出すために。


「お嬢様ッ!」


 後ろから抱きしめて庇った私の背に、それは正確に命中した。

 鈍器で何かを殴るような音が、朝靄あさもやを打ち破って。

 お嬢様の両目が、驚愕に見開かれる。

 くずおれていく私の身体を、彼女は屈んで支え、敵を鋭く見据える。

「はは、はははははッ! おまえらが悪いんだ、いつまでも私を拒むから! 誰のおかげでここでのうのうと暮らせてると思ってる!」

 姿を確かめずとも、狂える声の正体はわかりきっていた。

 お嬢様は、怒りに叫んだ。十年前のあの日と同様に。


ゆるさない、あなたも絶対に赦さない! 今すぐ死んでよ!」


 ドンッ。


 私を撃ったのとは別の音が、また冷気を重く叩いて。絶命した署長が倒れ伏す音も聞こえた。

 私の身体も重心を見失い、お嬢様の腕から離れて横たわる。傷口から滲み出していくものが外套がいとうの布地を染め抜き、石や地面も濡らしていく。

 お嬢様の大切な家族の墓なのに、私がそれをけがしてしまうなんて。

 座り込んで私の顔をのぞく彼女の姿が、霞んで見えた。あたたかなてのひらが、頬に添えられる。

「待ってて、お医者様を呼んでくるから――」

 駆け出そうとするその手を、私は握って引き止めた。声を紡ごうとしても、ヒュウ、と呼気が頼りなく漏れて掠れてしまう。

「間に合わないさ」

「そんなことないわ!」

「わかるんだ……肺に近い場所を、撃たれた」

 口の端から血があふれ出る。

 彼女の顔が、絶望に歪んでいく。

「馬鹿なこと言わないで。一緒に旅するんでしょうッ?」

「すまない……置いていきたくは、ないんだけど」

 頬に触れたままの手を取り、くちづける。寒さとは別の原因でも冷えてしまっただろう、指先とてのひらに。

「やめてよ、そんなことしないで」

「兵士はね、戦場で仲間に看取みとられて死ぬことなんて、ほぼないんだ。だから……君のそばで逝けることが、嬉しい。君に触れたままで、生を終えられることも、幸せなんだ」

 途切れ途切れに伝えれば、とうとうお嬢様は泣いてしまったようで。雪や雨とも違う優しい雫が、頬にぽたりと落ちてきた。

「笑ってくれとは言わない。抱きしめてくれとも望まない。ただ……君の可愛い声を、もう一度だけ聴かせて欲しい」

 すべてを悟ってか、彼女は悔しげにしゃくり上げた。

 涙声で、彼女は吐き出す。呪いの言葉を。


「あなたなんて嫌い、死んでしまってよ……!」


 ――あぁ、優しい嘘だ。君が僕についた、最初で最後の。

 まぶたを閉じれば、意識も底知れない闇に手招きされてゆっくりと沈んでいく。

 不安も恐怖もない。自分もあの墓石の下で眠り、彼女の育ったこの地で終わりを迎えられると、わかっているから。

「――」

 最期に贈った一言が、生きた音になって届きますように。

 そして、彼女の記憶の中でずっと息づきますように。



 明日なきむくろの恋人よ。

 どうか、あなたの魂が白き大地の下で輝かんことを。

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私の魂に永遠を刻む人 蒼樹里緒 @aokirio

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