第2話

 かつてのこの孤島は、遠い大陸から犯罪者たちが送られる流刑地だった。流刑制度の廃止以降、資産家だったお嬢様の先祖が島ごと買い取り、一般居住区としての整備が進められてからも、ならず者が偶然漂着することは珍しくなかったらしい。私もその一人だった。

 奴隷として他国へ運ばれるはずが、嵐で船が転覆して荒波に呑まれた。暗い海に漂いながら、このまま死ぬのではないかとさえ漠然と予想していた。

 それでも、何の奇跡か偶然か、幼い私の身は海辺の洞窟に流れ着いていた。目覚めると残った力を振り絞り、陸地へと向かった。岩場で何度もつまずいては転がり、手足には擦り傷や切り傷が無数にできたが、痛みを気にする余裕もなかった。

 やがて開けた視界に広がったのは、白銀に包まれた夜の街並みと、民家の窓から洩れるやわらかな光。

 その光景を目にした瞬間、何故か涙があふれてきた。どれほど望んでも決して得られなかったものだったからかもしれない。安心しきったのもあるだろう。

 いくさのない国は、こんなにも静かで綺麗なのだ――と。

 一気に押し寄せた疲労で、ぐらりと身体が傾いた。咄嗟とっさに横から支えてくれた、誰かの腕の感触を僅かに感じて。

 そのまま意識を手放し、長い暗闇を辿って目覚めた時には、私は寝台ベッドに寝かされていた。

 広い天蓋てんがいをぼうっと見上げていると、すぐそばで嬉しげな声が聞こえた。

「よかった、生きてくれてたのね」

 長い銀髪の少女――お嬢様が隣に身を横たえていたことに、まず驚いて。見ず知らずの私にそんな言葉をかけてくれたことも、とにかく意外だった。生きていた、ではなく、生きてくれていた、と。

 彼女の言葉がすぐに理解できたのは、私の祖国でも使われていた公用語だからだろう。

 すぐには答えられず、瞬きを繰り返す私に、彼女は朗らかに笑いかけた。

「ゆうべはびっくりしたのよ。お父様と出かけた帰りに、あなたが道で倒れてるのを見つけて連れてきたの。お医者様に怪我の手当てもしてもらったわ」

 確かに、自分の肌の至るところに、包帯の感触があった。

「あなた、この島の人じゃないんでしょう? 目や髪の色がちがうもの。肌も黒っぽいし」

 おずおずとうなずく。

 やっぱり、と菫色の瞳が輝いた。

「わたし、島の外には一度も出たことないの。あなたが元気になったら、暮らしてた国のことも聞かせてよ。友達として、いろんな話がしたいの。周りにとしの近い子がいなくて、退屈なのよね」

 会ったばかりの私を『友』と呼んでくれた彼女の優しさに驚いたものの、つられて私も微笑んだ。

 毎日毎日、勉強や食事の合間に部屋へ戻ってきては、お嬢様は私を甲斐甲斐しく看病し続けてくれた。雑務で出入りする侍従たちよりも、頻繁に。

 順調に回復した私は、お嬢様と雑談もできるようにまでなった。

「僕は、兵士だったんだ。ほかの国との宗教戦争で、無理やり戦わされててね。心も身体も、休まる日なんて全然なかったよ」

 私が淡々と語る話に、彼女は切なげに顔を歪めはしたが、菫色の目が涙に濡れることはなかった。それどころか同情もせず、ふんわりと微笑んだのだ。

「あなたは強いのね」

「え?」

「この島に来たのも、生きたいって願ったからなんでしょう? 自分の命をあきらめなかったんだもの。えらいわ、とても」

 褒められたのだと気づいた瞬間、頬が熱くなった。照れ隠しで、さっと視線を逸らす。

 お嬢様は、くすくすと笑みをこぼした。

 確かに、船の中では諦めかけていた。奴隷として生きてもどうせ境遇は変わらないのだから、いつ死んでもかまわない、と。夢も希望も故郷にすべて捨ててきた――はずだったのだ。

 お嬢様の目が、悲しげに伏せられた。

「でもね……この島でも、人はすぐに死んでいくの」

 その言葉にどんな意味が込められているのか、すぐには察することができなかった。

 それを知るきっかけになったのが、ある日の昼下がりの出来事だ。

 石灰色の空から雪がちらつく中、館の前に馬車が止まり、豪奢に着飾った貴婦人が降りてきた。丁重に出迎えた侍従たちを鬱陶うっとうしげにあしらい、玄関へと歩いていくのが、お嬢様の部屋の窓からも見えた。

 私の隣でその光景を目にした彼女の顔が、ぱっと輝いた。夜の星より何倍も明るく。

「お母様!」

 ぱたぱたと嬉しげに駆けていく後ろ姿に、私も和まされた。

 彼女の家族は、この館には父親しかいなかったようだったから、母親は旅行にでも出かけていたのかもしれない。

 けれど、真相は全く違っていた。

 寝間着姿のまま部屋を出た私の耳に、一階から言い争う声が飛び込んできた。思わず階段の踊り場で座り込み、壁に隠れてじっと様子を窺う。

「お母様、出ていくってどういうことッ?」

「そのままの意味よ。もうこんな気味の悪い家はうんざり。素敵な殿方と知り合えたから、彼のお世話になるわ」

「どうしてよ、せっかく帰ってきてくれたと思ったのに!」

「あぁ、いやだ。いい暮らしができるからって、安易に結婚を決めた昔の自分を殴りたい気分だわ」

「おい、やめないか、子どもの前で」

 主人も慌てて夫人をたしなめるが、彼女は夫をきつくにらむ。

「あなたや娘にこんな呪われた力があるなんて本土の方々に知れたら、私まで白い目で見られるでしょう。下手をすれば利用されて殺されるわ」

「今までも、そうならないようにしてきただろう。噂を聞きつけた他国の軍人も、一族ごと囲い込もうとする政治家も、全員土の下で眠ってもらった」

「そうね。けれど、私たちを狙う人間は頻繁にやってくる。その忌まわしい力がある限りはね。私はの人間なのよ。一生危険に怯え続けろと言うの?」

 普通という単語を、夫人は強調した。

 この一家には、重大な秘密があるらしい。

 当時の私には事情もわからなかったが、それだけは感じ取った。

「お母様、だいじょうぶよ。悪いやつが来ても、お父様とわたしが――」

「守るって? 笑わせないでちょうだい」

 夫人の冷笑で、お嬢様の身体は凍てついたかのように動かなくなってしまった。

 陰から見ている私まで、呼吸が止まりかけた。

「その化け物みたいな力自体が大嫌いなのよ。本当にそんなものが正しいと、正義だと思えるの? それすら理解できない馬鹿な子に育てたおぼえはないのだけれど」

「いい加減にしないか!」

 主人の怒声に、お嬢様の肩がびくんと跳ねた。

「俺を責めるのはいい。だが、この子は力の使い方も未熟な子どもなんだぞ」

 うつむいた彼女の顔にどんな感情が浮かんでいるのか、私の位置からではうかがいようがなかった。

 侍従たちも、対応に困っているようだった。

 無益なののしり合いの最中、お嬢様は再び口を開いた。

「……なんて」

「え?」

 両親は一旦言葉を止め、間に立つ娘に振り向いた。

 お嬢様の横顔を見た私も、目をみはった。

 頬は涙でぐしゃぐしゃに濡れ、愛らしい瞳は憎悪の色に染まりきってしまっていたのだ。


「お母様なんて大っきらい! わたしたちといっしょに生きたくないなら、ここで死んでしまってよ!」


 次の瞬間、天井にしっかりと吊るされていたはずのシャンデリアの鎖が切れて。

 その音が、お嬢様の悲痛な叫びに重なった。

 主人が咄嗟に娘を抱きしめ、床に転がった。

 愕然と頭上を見た夫人は、大きな金属の下敷きになってしまった。

 周りの者たちも次々に悲鳴を上げ、ひしゃげた身体から流れ出る夫人の血が、紅く濃く床を汚していった。

 けれど、騒然とする状況下で、泣き喚くお嬢様の声だけが、私の心を激しく揺さぶった。

 そして、ようやく理解した。

 彼女と――おそらくは父親の発する言葉には、人の生死を左右する力が秘められていたのだと。

 この地が『墓の島』と呼ばれるのも、一族に代々受け継がれてきたその力を行使してのことだったのだと、一年ほどあとに書庫の古文書を読んで知ったのだった。

 事件を機に、侍従たちの大半がお嬢様の力を恐れ、館を去った。いや、きっと元から畏怖されてはいたのだろう。自分に矛先が向かないよう、主人やお嬢様の顔色を窺いながら働いていたのかもしれない。

 夫人の死から数日後、思い詰めた主人も墓地で自害した。遺産相続の詳細、力や家庭についての謝罪を綴った遺書を、たった一人の愛娘まなむすめに託して。首を切って動かなくなった彼の手には、短剣が握られていたそうだ。

 健康になった私とは逆に、お嬢様は伏せきりになってしまった。

 館に残った一部の使用人たちに頼み込み、私は執事としての教養を少しずつ学びながら、お嬢様の看病を続けた。

 ベッドに寝たままの彼女の口許に、さじでスープを差し出した時のことだ。

 虚ろに私を見つめ、お嬢様は問いかけた。綺麗な両目の菫色は、すっかり澱んでしまっていた。

「あなたは、わたしのことがこわくないの? きらいにならないの?」

「はい」

「どうして? わたしだって、いっそ死んだほうが――」

「お嬢様のお命を、あきらめたくないからです」

 彼女の目が、限界まで見開かれた。

 私は、痩せてしまったお嬢様の頬をそっと撫でた。

 ――だいじょうぶだ。彼女はまだ、あたたかい。

「僕は、国のために死ぬのが当然だと教え込まれた人間です。自分がどう生きたいかなんて、この島に来るまで――お嬢様に会うまでは、考えたこともありませんでした。でも今は、あなたのために生きたいと思えるんです」

「……わたしが、いつかあなたのこともきらいになって、ころしてしまうかもしれないのに?」

「かまいません。あなたのおそばで生きて、喜びも苦しみも分かち合えるなら、僕にはそれが一番の幸せですから」

 ぽろり、と。お嬢様のまなじりから、雨粒にも似た透明な雫がこぼれ落ちた。

 次々にあふれてくるそれらを指で拭い、私は語りかけ続けた。彼女の心の奥深くにまで、想いが届くように。

「ご家族とお幸せに生きることが、あなたの夢だったんでしょう? なら、僕が新しい家族になってはいけませんか」

「あなたが……?」

「僕には、自分の家族のことも、もう全く思い出せません。ですが、あなたがお望みなら、何にでもなりましょう。父でも、兄でも、弟でも」

「それじゃ、ただのごっこ遊びじゃないの」

 そこでやっと、彼女は笑顔を取り戻してくれた。ぎこちない泣き笑いだったが、私も嬉しさでもらい泣きしそうになるほどで。

 頬に添えた私の手に自分のそれをゆったりと重ね、お嬢様は凛と宣言した。


「今日から、わたしたちは家族よ。周りからどんなひどいことを言われようと、わたしがあなたを守るから、あなたもわたしを守って。いっしょに、生きていきましょう」


 はい、と震えそうになる声で返事をして、小さなてのひらを私は両手で強く握りしめたのだった。

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