追想する展望台

ワタリヅキ

本編


 夕刻の森を走っていた。

 少し肌寒くなり始めた夕暮れの、人々に忘れられたような山道を一人走っていた。一定の間隔で足音を刻み、規則性を持って呼吸と足の動きを合わせる。

 坂道を登っていくと、木々が開けた場所に出て、そこには廃墟のような展望台が静かに佇んでいる。

 僕はいつもそこで小休憩してから、折り返し山を下っていくのがいつものジョギングコースだった。

 その日も展望台の下まで来て、ふと何気なく空を見上げた。すると、展望台の上に女性が一人立っていて、空を見上げている姿が見えた。

 展望台に人の姿を見たのは初めてだった。そこは決して見晴らしが良い訳はなかったし、建物自体古くて一部の壁には草や苔が覆い被さり、夢や希望はとうの昔に失われていた。

 彼女はその建物の上で姿勢良く、ただ空を見上げている。

 その姿はまるで、望遠鏡のようだと僕は思った。身動きひとつしないシンボリックなモニュメントよろしく。

 この周辺は、一応のところ観光地だった。今では観光客は減り、閉鎖する旅館が増えているが、それでも一定数の観光客が静かな自然を求めてこの地へ来る。彼女もそんな一人なのかもしれない。

 そう考え、その日の僕はいつものように折り返して山を下りジョギングを続けた。


***


 森の中を走るのは、考えたくないことを考えずに済むからだった。

 少なくとも、僕はそう考えている。誰もいない道を自分のペースで、自分の足音だけを聞きながら走っていると、余計なことを考えなくて済んだ。ただ聴こえてくる音だけ耳にしていれば良い。

 今の僕にとってそれは、つまるところ考えたくないことは、数日前から連絡の取れなくなってしまった恋人の存在だった。考えたところでどうにかなる問題ではなかったのだ。僕がどう思ったところで、彼女の電話は僕の着信を拒否している。

 次の日も、その次の日も、僕はいつものジョギングコースをひたすらに走った。

 ただ、気になったのは、次の日も、その次の日も、展望台に女性の姿があったことだ。女性はいつも同じように空を見上げていた。そしていつも一人だった。

 周辺に車は停まっておらず、彼女は何処かからおそらく歩いてここまで来ているのだろうと推測した。山道に街灯は少なく、女性一人で歩くのは危険ではないかと思った。

 それを伝えたい訳ではなかったが、その日僕は思い切って「星空が綺麗ですね」と話しかけてみた。

 彼女は「そうですね」と静かに答えた。意外だった。突然話しかけられたことに驚くことも、僕を不審そうに見ることもなかったのだ。

「そこが好きなんですか」

「ええ、本当は毎日ここに来る予定ではなかったんだけれど」

 そう言って、彼女は空から目線を下ろして初めて僕を見たのだった。女性は細身で髪が長く、ブラウンのカーディガンを羽織っていた。そうして、これは気のせいかもしれないが、瞳が星空に溶け込む程に美しく見えた。

「あなたはいつもここを走っているんですか」と彼女は訊く。

「ええ。好きなんです、森を走るのが。余計なことを考えなくて済むから」

「そう」

 彼女はそう言って再び夜空を見上げた。

「ここで空を見ていると」

 僕は頷く。

「自分も星になれるような気がするんです」


 帰り道、ふと空を見上げると、たしかにそこには美しい星空が広がっていた。

 自分も星になれるのではないか。星空を見てそう思う人がこの世界にどれほど居るのか、僕は知らなかった。少なくとも僕はそれまで空を見上げることもなければ、星になりたいと思ったこともなかった。


***


 それから、その女性の姿を見ることはなかった。

 僕は毎日ジョギングをしていたが、展望台のところに来ると、上を見上げるのが日課になっていた。

 また、その翌日から数日間は雨が降り続き、僕もそこに行くことはなくなった。雨は深く終わりのないため息のように降り続いた。曇り空を見るたび、僕は少し残念に思った。


***


 数日後、ジョギングをしていた時、ふと思いついて展望台に登ってみた。

 簡素な階段を登り頂上へ出てみると、意外にも風が吹き抜けて心地よく感じた。見下ろすと、下から見上げるよりも高さを感じた。

 女性が居たあたりのところに、白い封筒を見つけた。新しく綺麗な封筒で、捨てられているというよりは、何かしらの意図を持ってそこに置かれているといった感じだ。

 封筒を手に取り中を見てみると、手紙が入っていた。


『○月○日○時 またこの展望台に来ます。

 もしこの手紙を見ていたら来てくれませんか。あなたに見ていて欲しいんです』


 手紙にはそう記されていた。

 指定された日時は、一週間後の夜だった。僕は直感的にあの女性が書いた手紙だろうと推測した。そしておそらくこれは、『僕』に向けて書かれたものだ。

 彼女は僕に何を見て欲しいのか、なぜ手紙なのか、皆目見当がつかなかった。

 僕はその手紙をポケットにしまい、再びジョギングを続けた。つまるところ、そのことについては現時点では深く考えないようにした。

 

***


 指定された日時にたどり着くように、僕はいつもの道をジョギングした。心臓は幾分か普段よりバクバクと鳴っていた。

 展望台に着くと、いつもの位置に女性が立っているのが見えた。

 彼女は僕が来たことに気付くと、まるで知人と再会したように手を振り、「手紙、見てくれたんですね」と言った。

 僕が頷くと、彼女は「嬉しいです。気付かないかと思った」と言った。

「たまたま見つけることができました」

 僕は展望台には登らなかった。お互い、しばらく何も言わず沈黙が辺りを支配していた。

「どうして、あの手紙を」と僕が訊く。

「それは、決意するためです」そう言って彼女はゆっくりと展望台の手すりに手をかけた。その仕草に、僕は彼女が自死するのではないかと勘付いた。

「もし、もしですが」僕は咄嗟に声を出した。「あなたがそこから飛び降りようと考えているのなら、思いとどまった方がいいです」

 彼女は夜空を見たまま「もし、私が今から飛び降りるとして」と言った。「あなたは、どうしてやめた方がいいと思うの?」

「わからない」僕は正直に言った。

「わからない?」

「僕には、僕以外の人生について、何もわからない。分からないことだらけです。そもそも自分の人生だってわかってない」僕は迷いながら続ける。「それでも、生きていれば、何かあるんじゃないかって思うんです」

 彼女は黙っていた。

「よかったら、話してくれませんか」

「つまらない話よ」

「そうだとしても、あなたにとってそれは重要なことでしょう」

 そう言うと、彼女は「聞いてくれますか」と小さな声で言った。もちろん僕は頷いた。


 僕らは、展望台の上の小さな椅子に並んで腰掛けた。夜空を遮るものはなく、プラネタリウムを見ているようだった。

「あなたに恋人はいますか」と彼女は言った。

 それが、僕に対しての問いかけだと気付くのに少し時間がかかった。あまりに唐突な問いだったからだ。

 僕はなんと答えるべきか迷った。いる、もとい、いましたというべきか。

 僕の様子を見て、彼女は「ごめんなさい。突然変なことを聞いて」と言って謝り、「私、好きな人がいたんです」と言った。

 そして、どこか遠くを見ているように「小さい頃からずっと一緒にいる友人で、私はその人のことが本当に好きでした」と言う。

「でもある時その恋人から、好きな人ができたって言われたんです」

「そうだったんですか」

「私はその時、何も言えませんでした」彼女の表情は俄に曇ったように見えた。「後になって、友達として応援してあげればよかった、何であの時何も言えなかったんだろうって」

「後悔したんですね」

「そうです。最終的に、自分がどうしたいのかわからなくなってしまいました。そんな時に、幼馴染の男性に、告白されたんです」

「えっ」

「彼とも小さい頃から一緒に遊んでいました。でも、彼のことは友達としては好きでしたが、恋人としては見られなかったんです」

「それはまた、すごいタイミングが重なりましたね」

「そうなんです。彼からは度々連絡がきて、付き合ってほしいと言われました。でも、私はその想いに応えられなかった。連絡があるたびに、私は彼に申し訳なくなって、いつからか自分が分からなくなってしまいました。そして、気がついたらここに……」

 僕は彼女を最初に見た日のことを思い出した。ただただ空を見つめている望遠鏡のようなその姿を。

 しばらくして彼女はおもむろに立ち上がると、振り返って「あなたと話せてよかった」と言った。

「ずっと、誰にも言えなかったんです。この話」そう言うと、彼女は思い切り息を吐き出した。まるで溜め込んでいたものを全て放出するかのようだった。「やっぱり、彼にはしっかりと断ります。正直に自分の気持ちを伝えようと思います」

「僕も、その方が良いと思います」

 実を言うと、僕は彼女の話の中に、何か引っかかるものを感じていた。彼女の言葉の使い方が気になっていたのだ。好きな人。恋人。友人。彼。なかなか話せなかった話。ただ、僕はそのことをについて何も言わないことにした。

「実は、僕も自分の気持ちに素直になれていないことがあるんです」

 僕はそう言うと、ポケットからスマホを取り出し、じっと見つめた。


***


 それから、展望台で出会った女性とは特に連絡先も交換しないで別れた。お互い、もう会うことはないと理解していた。それは前向きな別れ方と言って良かった。

 僕はしばらくジョギングをやめた。

 そして、連絡の取れなくなった恋人にメールを送った。届かないかもしれないし、読んでくれないかもしれない。それでも良かった。

 数日後、僕は再び彼女に電話を掛けた。


Fin.

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