掌編小説・『俳句』

夢美瑠瑠

掌編小説・『俳句』


   掌編小説・『俳句』


 老私小説作家の古木寒巌(こぼく・かんがん)氏は、予想されうることだが、俳句の道にも通じていて、さる俳人から「久保田万太郎の再来」などと激賞されたこともある斯道の大家…だと言い過ぎなのでまあ「中家」くらいであろうか。自分では「俳句は素人で、全くの自己流である。吟行というものにも出席したのは二、三度きりで歳時記すらめったに開かないという不勉強である。断続的に「野趣」という俳誌に投稿したり、「独吟会」という句会に呼ばれておぼつかない素人芸を披露しているが、俳句については己の非才にほぼ絶望している…云々」と書いたことがあって、その文章の最後に添えたのも<輪廻して蕉風極意知らぬべし>という、なんだかわかりにくい句だった。

 俳句についてはしかし一応見識というか持論があって、「必ずしも季語や季重なりの有無にこだわらない」とか、「自由律は邪道」とか、「川柳は文学ではない」とか、「写生か否かも枝葉末節の問題で、叙景が枝葉末節という印象を与えるか否かが肝要」というような俳句論はことあるごとに述べてきたりした。作家だけに言語感覚については自恃の念があって、結局「みずみずしい言語感覚とイメージ」の存否が、名句か否かの分水嶺…そう考えているらしかった。“写真でいうスナップショットのように鮮烈な瞬間を切り取ることができれば、それは芸術に昇華されている”…座談会でそう語ったこともあった。


 寒巌氏は「文藝界」という純文学雑誌に「往時茫々」というコラムを連載していたが、締切日の今日になっても書くネタが思い浮かばず、ふと今日が「俳句の日」だったことに思い至って、「俳句のことを書いてやれ」と考えが進み、「名画を見て一句というのはどうだろうか」とアイデアが浮かんだ。半ば苦し紛れだったが、つねづね「一瞬の美を截り取って鮮やかに再現するのが俳句」と言っていた彼の持論からすると、美の極致であるところの名画に寄せる俳句、というのは一種の王道とも思えるのだった…

 早速、作句を始めた。

 「世界美術名鑑」という浩瀚な本を取り出して、繙いてみる。有名なのから行くか、とまずゴッホの「ひまわり」をつくづく眺めてみる。黄色いひまわりに、黄色い背景。少し折れ曲がったのや、向日性そのままに開花しているのもある。油絵の質感が重層的なひまわりの花弁のユニークな美しさによくマッチしている。いかにもゴッホらしい絵画だった。

 <蠢くと見紛うばかり畸の花弁>と、詠んだ。「黄」と、「畸」をかけたつもりである。

 「ううむ。俳句の良し悪しはわかりにくいが…企画としては面白い感じだな」そう独り言ちて、次に移った。

 フェルメールの有名な「青いターバンの少女」のページを熟視する。

 「眼がいいな。生きているみたいな…この眼の表情。物問いたげな口も可愛い。中世風の衣装とかエキゾチックでチャーミングだな」そう呟いて、想念に耽る。意識野に様々な表現が交錯する。考えた挙句、

 <蠱惑する瞳も唇(くち)も青き花>と、詠んだ。これはノヴァーリスの「青い花」にかけて、精神性や神秘性を感じる、という意味にしたつもりである。

 「ううむ…やっぱりおれは素人だからなあ。俳句ってこれでいいんだっけ?」と、頼りない本音が出る。しかし締め切りが迫っているのでどんどん行くことにした。

 <典雅なる謎の微笑は美のイコン>これは言うまでもなく「モナ・リザ」である。

 <大胆な構図に霞む大富嶽>これは北斎の「富嶽三十六景 神奈川沖浪裏」である。

 <悪夢のみ描ける奇態なる妖鬼>これはダリの「内乱の予感」。

 <静謐に水面睡るや印象美>これはモネの「睡蓮」。

 <華やかに咲くあどけなきプロフィール>これはルノワールの「はじめての観劇」。

 <摩天楼神を恐れず蜷局(とぐろ)巻く>これはブリューゲルの「バベルの塔」。

 <羞じらいは処女(おとめ)なるゆえ愛の神>これはボッティッチェリの「ビーナスの誕生」。

 <美乳すらはだけ自由の御旗持つ>これはドラクロアの「民衆を導く自由の女神」。 … …


 かなりたくさんの自分の愛好する名画を引用して、それぞれオマージュともいえる俳句を添えて、10枚ほどのエッセーはほぼ出来上がった。

 そうして、「ある写真をもとにして参加者がてんでに頭をひねって俳句を添え、それを選者が格付けして添削する、という趣旨のテレビ番組があるが、あれで言うと私のはほぼすべて「才能ナシ」の範疇に置かれるかもしれない。確かに才能もセンスもまるでないのは承知の上だが、自分では結構楽しいのである。名画という「極上の一瞬」を俳句にするというのは非常に贅沢な趣味のいい営為という気がした。あのテレビ番組でも「名画を見て一句」という企画をすれば、奇想天外、才気煥発、抱腹絶倒?な俳句がいろいろ生まれるかもしれない。是非一度試してみてほしいものだ。」と、蛇足のような結語を添えた。

 

 夕方に来訪した編集者氏に原稿を渡した後、部屋に落ち着くと、硝子戸の外に暮色がさして、蜩が啼き始めたので、彼は夕食の席に着くことにした。今日は到来物の鮎の塩焼き。ネギのヌタ。紅葉卸とからし醤油の冷奴。ナメコとオクラの味噌汁…だった。好物のエビスビールがついていた。彼が俳句をひねっているらしいというので、老妻は水芭蕉の絵柄のお鉢を使ってくれていた。至れり尽くせり…このよく気の付く妻のおかげで彼は文学的に成功できたのだ。     

 ふと気が付くと、お手拭きに何か文字が書いてある。

 <果つる迄夫唱婦随の二人旅>そう、妻らしい丸っこい字でつたない俳句が書いてあった。

 

 寒巌氏はなぜかじんとして、そっとお手拭きで涙をぬぐったのであった。


<了>     

         

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