第2話 つぐない
「オーティス、良かった! 目が覚めたのね!」
「兄さん、心配させやがって」
オーティスが目を覚ますと、エンバーとヴィクターの顔が眼前いっぱいにひろがった。一体、どうしたのかとオーティスは身体を起こそうとする。
しかしバランスがうまく取れず、身体は持ち上がらなかった。
「ダメよ。大人しくしていて。酷い事故だったのよ」
「今、医者を呼んでくるから」
ヴィクターが慌てて外に出る。オーティスは、事態が良く飲み込めない。
「エンバー? 君、生きて?」
「何を言ってるの?」
小首をかしげて、エンバーが不思議そうにオーティスを見つめる。
「いや、すまない。悪い夢を見ていたようだ。君がいなくなる夢だった」
「私は、どこにも行かないし、いなくならないわ」
「そうだな。あれは夢か。それにしても長い悪夢だった」
「それは、事故で負った怪我のせいかもしれないわね。あなた車の事故に巻き込まれて……。酷い怪我をして、ーー両脚を切断したのよ」
「え?足の感覚は感じるぞ」
「そう言うものらしいわよ。でも本当に生きていることが奇跡っていうくらい酷いものだったのだから」
エンバーは悲しげに目を伏せると、ゆっくりと毛布を外す。背中を支えて、オーティスを起き上がらせる。オーティスは恐る恐る足を見る。下履きの途中から厚みがなくなり、ペタリと生地がベッドに張り付いていた。
「本当だ。太ももの四分の一しか残っていない」
あまりのことに動揺を隠せない。あの日、愛人宅から自宅に戻る途中、どうしたのか。
「本当に酷い事故で多くの人が亡くなったのよ。追突事故があって、渋滞に巻き込まれ並んでいる車に暴走した大型トラックが更に追突してきて。トラックの積み荷が、爆発物だったこともあり、ぶつかった時以上の被害があったのよ」
エンバーは、ゆっくりと再びベッドにオーティスを横たえる。
「そうだったのか」
「ショックもあると思うけれど、生きているだけで幸せだと思わないと」
「そうだな」
そう言うとエンバーはそっとオーティスの手に元気づけるように手を重ねた。
事故による傷も塞がり、リハビリが始まった。自分の足で歩くことはできないが、車椅子で移動する練習もする。
エンバーは文句も言わずにリハビリに付き合ってくれる。そして、毎日、車椅子での移動の練習のために、ちょっとした庭の高台にあるガゼボまで、散歩に行くのが日課になった。
道すがら些細なことを話しながら歩く。坂道の途中で力尽きることが多く、エンバーに車椅子を押してもらう。坂の下にある小さな池には、睡蓮が咲いていて、上から見るととても美しかった。
あの夢ではエンバーはいなかった。そして後悔に涙を流すだけで自分は何も出来なかった。今、自分は足を失ったが、エンバーは生きている。なんという幸せなことなのだ。事故が無ければ、こんな関係になることは叶わなかっただろう。そう考えれば、足などなくても全く構わないと思った。
人生、もう一度やり直せる。
今、オーティスの人生は輝く希望に満ちていた。
◇◇◇
雨が続いたある日のことだった。ずっと屋敷の中にいるのも気が滅入るような気がして、曇ってはいたがエンバーを散歩に誘った。
じっとりとした水分を含んだ重苦しい空気の日ではあったが、外に出るとやはり開放感がある。ぬかるみのひどい場所をさけながら、二人はいつものガゼボへ向かう。
「そう言えば、来週、ヴィクターが領地へ戻るみたいよ。オーティスが大丈夫みたいだからって」
「そうか。ここ数ヶ月はいるのが当たり前だったから、何となく寂しくなるな」
「そうね。昔みたいに一緒にいられたらいいのだけれど、お仕事もあるしね」
坂道に差し掛かると、ゴロゴロと遠くで聞こえていた雷鳴が少しずつ大きくなってくる。稲光と音の感覚が短くなってくるにつれて、大粒の雨がぽつぽつと落ちてくる。
「いったん、ガゼボで雨宿りしましょう」
「そうだな。きっとこの雨を見た誰かが迎えに来てくれるだろう」
しかし長雨でぬかるんだ坂道の途中で、車椅子の車輪が泥に取られてうまく進めなくなった。坂道を押すにはエンバーの力が足りない。
一方で雨足は強くなる。前も見えない大雨の中、前に進むこともできず、後ろに戻ることもできず、立ち往生してしまう。
「エンバー、兄さん。迎えに来たよ。ひどい雨だ」
ばしゃばしゃと雨の中駆け寄ってきたのはヴィクターだった。激しく打ち付ける雨で、視界が悪く、オーティスはヴィクターの顔をよく見ることができなかったが、その声に安心した。
「ヴィクター、すまないな。車輪が泥に食い込んでしまって、うまく動かないのだ」
「僕が押そう」
ヴィクターは車椅子のグリップをエンバーから受け取る。しかし、雨で手が滑り、ブレーキから手を離してしまった。次の瞬間、車椅子は坂道を転がっていく。オーティスの身体は車椅子から落ち池の方へ転落する。
「オーティス!」
エンバーが叫ぶ。
突然のことにオーティスの思考は現状把握ができない。ゴロゴロと転がる勢いをどうにか止めようと短い両脚をばたつかせる。
ようやく転落が止まった時、オーティスは坂の下の池の中に腹まで浸かっていた。
「エンバー、ヴィクター、池だ! 池に落ちた。早く助けてくれ」
激しい雨は池の表面を強く打ち、泥が目に入りよく見えない。もがいて何かに掴まろうとするが、ふわふわと漂う睡蓮の葉や茎ばかりで頼りにならない。
もがけばもがくほど、泥の中に身体が沈み込んでいく。
「早く助けてくれ!」
強い雨音は、オーティスの声をかき消してしまう。ガゼボの方を見ると、二つの影が寄り添い、息を殺してこちらを見ているようだった。
二人からは自分の声は聞こえないのか? 姿は見えないのか?
ゴボゴボと泥水が口に入る。苦しい。息ができない。
深くない池であるが、両脚がないオーティスには底なし沼のように感じる。
「助け……」
がはっ
池の底の泥は、次第にオーティスを池の中へと誘う。
気管に、肺に、胃に泥水が入る。呼吸ができない。苦しい……。オーティスは、意識を失った。
そして訪れる無。
ゴボゴボゴボ…………
◇◇◇
ガゼボの天井を叩く雨の音が少しだけ弱まってきた。
ヴィクターは、緩慢な動作で携帯を手に取り、屋敷に連絡をする。
「大変だ! 兄さんが、池に落ちた。すぐに助けに来てくれ。ああ、そうだ。うん、エンバーは無事だ」
必要なことだけを焦ったように伝えると、通話を終わらせる。再び自分の膝の上に座っているエンバーに、口付ける。
「ん、だめよ、まだ。皆が来ちゃう」
「大丈夫、あと十分は誰も来ない。視界も道も悪いし」
「ヴィクター、やっとだわ。ここまで五年もかかってしまった。彼の悪運の強さってすごいんだもの」
「事故が起きた時は、神が僕達に祝福を与えてくれたと思ったが、まさか生き残るとは思わなかった」
ヴィクターが、エンバーの濡れた身体をタオルで優しく拭く。
「エンバー、君があいつに無理矢理奪われた時から、この日までその怒りと共に生きてきた」
「そうね。私も怒りだけを頼りに絶望の中、生きてきた。彼に抱かれている時は、あなたに抱かれていると思って耐えたわ」
エンバーが、ヴィクターの唇に自分の唇を重ねる。お互いの舌を絡ませ、その存在を確かめるように口内を侵す。
雨の音がだんだんと弱くなり、陽の光が雲の間から差し込む。
「彼との行為は、キス一つをとっても本当に不快だった。独りよがりな性格は、セックスにも現れるのね。彼が愛人を作った後、あなたに抱かれた時、私は初めて女としての幸福を感じたの」
「でもそれも今日で終わりだ。これからは僕たちと僕たちの子のために、生きよう。もうあいつはどこにもいないのだから」
ヴィクターは慈しむようにエンバーの腹を優しく撫でた。
「うん。愛してる、ヴィクター」
「僕もだ。愛してる」
二人はようやく掴み取った幸せに涙を流した。屋敷から使用人が来る頃には、雨上がりの黒い雲と夕空の間に、虹がかかっていた。
◇◇◇
オーティスの死体は池の中で発見された。死因は溺死だった。警察官が死体を引き上げた時、それを見たものは心臓がどきりとした。
睡蓮の花と葉が身体中に付着し、茎はオーティスの身体を拘束するかのように巻きついていた。
溺れた時に藁をも掴む気持ちで、もがいたことが原因だと理性では分かっていた。
しかし皆が「睡蓮の花を摘み取ろうとするものは魔物に水中に引きずり込まれる」と言うこの地方に伝わる古い言い伝えを一様に思い出した。
この件は、事故死ということであっさりと片付けられた。散歩に行こうと誘ったのもオーティスであったし、突然の雨も意図してできるものではなかった。
リハビリを手助けするエンバーの姿を多くのものが好ましく思っていた。また、この時エンバーは妊娠しており、夫婦仲は――色々あるものの――悪くなかったと多くの人々から証言が得られた。その結果、殺人の線はすぐに消えた。
その後、ヴィクターは、エンバーを妻とした。『エンバーが産んだ子を自分の子のように育てた。ヴィクターは素晴らしい紳士だ』と、無責任で無関係な人々は噂した。
レイス家は悲惨な事件が立て続けにあったものの、その後は静かに平穏に暮らした。
オーティスが死んだ池は、屋敷のものたちが「雨の日になると車いすの車輪の音が聞こえる」とか、「這いつくばっている男が追ってくる」と、あまりに怖がるため、池は埋め立て、ついでにガゼボは取り壊した。
今は家畜のための牧草地になっている。
そのうちここに池があったことも、突き落とされた一人の男が虚しく溺死したことも、毎日雨後の筍のように新しく起こる他の事件に紛れて人々の記憶から忘れられていくことだろう。
クズな夫と幽霊妻の四十九日 反省したダメ夫は妻とやりなおしを試みる おりのまるる @malulu_orino
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