弐周目参――山の主
「わたくしが
ふわりと微笑んだタキは、俺の頬に自分の頬をくっつける。
柔らかくて温かい彼女の頬はすぐに離れたかと思うと、彼女の背後から轟々と炎が渦巻きながら燃える音が響く。
「俺にそこまでに力は」
「いいえ、きっと出来ます。だってわたくしたち、番になったのですから」
ない……とは言わせてもらえず、何か確信を持っているらしいタキが前を睨み付けたまま応えた。
それから、背中に生えた大きな翼を羽ばたかせると、旋風と共に瘟鬼へ黒い炎の渦が襲いかかる。
「こちらで待っていてくださいな」
そう言ったタキは、俺を一際背の高い松の太い枝に降ろしてから、瘟鬼の方へ炎の渦を追いかけるようにして突き進んでいく。
先ほど、彼女の炎でナタを焼き尽くされた瘟鬼は、両腕で自分に向かってきたタキの両肩を掴んで体当たりを食い止める。
黒くて鋭い瘟鬼の爪がタキの肩に食い込み、着物が破けた。月明かりにてらされて、漆黒の鱗を血液が伝っているのが視認できる。しかし、タキは呻き声一つあげないまま、憤怒の表情を浮かべ、負けじと瘟鬼の肩を両手で掴み返した。
「わたくしは龍神
穏やかな口調とは裏腹に、目を見開き、怒りに満ちた瞳で瘟鬼を睨み付けているタキの細腕に力が籠もる。
元々、どこからあんな怪力が出ているのかわからなかったが、
巨大な鬼と取っ組み合いになりながら、一歩も退こうとしない。
「おおおおおおおお」
後退りをしたのは、瘟鬼だった。ばきばきと硬いものが割れる音が響き、悲鳴のような雄叫びと共に瘟鬼が膝を突く。
そのまま指を瘟鬼の身体に食い込ませたタキが黒い炎を両腕から吹きだしたのと同時に、瘟鬼は彼女の長い胴体を両手で掴んだ。
「ふふ……あはははは! どちらが先に音を上げるか根比べといきましょう」
タキの黒い鱗を瘟鬼の爪が何度も貫いているようで、地に滴るほど血液が流れ出ている。しかし、彼女は苦悶に顔を歪めること無く、高らかに笑い始めた。そして、長く引きずっていた尾を瘟鬼にからみつけながら、自分の体共々黒い炎で焼き始める。
強く殴打され、着物も破れ、皮膚は鋭い爪で引き裂かれている中で笑う彼女はまさしく災厄の女神に相応しい見目をしていた。
その様子をしばらく呆然と眺めていたが、荒れていく一方の山々と、妙な気配がして我に返る。
「……にたくない……」
雄叫びと笑い声の中で、微かに人間の声が聞こえてきた。
巻き起こる風と炎の音にかき消されているその声をしっかりと聞くために耳を澄ませる。
「死にたく、ない」
ようやく聞こえた声は、あの陰陽師のものだった。
タキは気が付いていない。瘟鬼は炎で焼かれる苦しみでもがいているからか、自らの
「仕方がねえな」
タキは、恐らく力に呑まれている状態なのだろう。
永い間、己の中で抑えていた負の感情を初めて解放して、我を忘れているようだ。
彼女の生い立ちを考えてみれば、それは当たり前のことだった。
穏やかに見える口調と、花の咲いたように愛らしい笑顔を浮かべるから忘れていたが、あいつの怒りや執着、人間への負の感情は確かに知っていたはずなのに。
「あの人間のためじゃねえ。俺の代わりに怒ってくれる大切な伴侶のためにちぃと無茶をするか」
瘟鬼が弱っているからか、身体の痛みは治まった。
身体の奥深くまで息を吸い込んで、本来の姿へ戻る。
むせかえるような血の匂いと、人の毛を燃やしたような悪臭は、蛇の姿でいるほうが強く感じられる。
折れた角が熱を持つ。目を凝らすと、山肌から細く立ち上っている金色の光がよく見える。
意識を集中して、その光に呼び掛けた。
「山の恵みよ、人々の願いよ、数多の営みを繰り返す者どもの想いよ……地は病で穢され、恨みの炎は絶えず木々を焼き、悲鳴と恨みに満ちた愛しき我が庭よ。水の恵みを与えよう。豊穣を約束しよう。千年続く営みを守ろう」
金色の光が角に集まり、熱を帯びる。
見たことも無い人里の光景や、獣たちが木々の間を駆け回る様子、鳥の番が子育てをする様や、
今はもういない、水蓮が俺にくれたもの。神として守ってきたものたちの力を、初めて借りようと思う。
「我こそは白鱗山の
名乗りを上げるのと同時に、角に集まっていた熱が尾の先まで一気に駆け抜けていく。
月色に光る水流と共に、俺はタキと瘟鬼が取っ組み合いをしている場所へ突っ込んでいく。
水流は二人の元へ俺よりも一足先に辿り着くと、二股に分かれた。
瘟鬼はそのまま山肌まで押し流され、タキはこちらへ向かってきたのでそっと胴体を絡ませて受け止める。
「あ……
目を丸くして、我に返ったらしいタキは安心したように微笑む。
俺が上半身を抱き上げると、彼女の長く伸びた蛇の下半身と背中の翼は消え、人間に近い姿になるとゆっくりと目を閉じた。
すぅすぅと眠っている時のように規則的な呼吸を繰り返す彼女をそうっと尾で持ち上げて背に乗せる。そして、内心ホッとした様子を隠しながら毅然とした態度で瘟鬼が流されていった方向へ向かった。
「ぐ……」
瘟鬼がいたはずの場所には、出会った時と同じ藍色の狩衣を身に纏ったままの男が倒れていた。
小さな呻き声を上げたそいつの右胸には、拳大の黒い固まりが乗っかっている。おそらく、こいつが瘟鬼だろう。
「……ろせ」
「さっきまで死にたくないって泣いていたやつの台詞だと思うと、格好が悪いな」
「……泣いてなんかない」
薄目を開けて「ころせ」と呟いた男へそう言い返すと、舌打ちをして顔を背けた。
どうやら元気だけはあるようだ。
蛇の姿のまま、俺は陰陽師の男に顔をグッと近付ける。
「さあて……お前をどうしてくれようか。大切な俺の番に傷を付けたヤツの名前でも聞いておこうか。命を奪うつもりはねえし、なんなら都にいる鬼をなんとか出来そうなやつを紹介してやる」
「……
男はしばらく黙っていたが、しびれを切らしたのか、こちらを向くと大きな溜め息を吐きながら名を名乗った。
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