弐周目参――真名

 うっすらと甘い花の香りがする風が頬を撫でる。

 しっかりと繋いでいた手はいつのまにか離れていて、後ろにあったはずの逢火おうびの部屋も、もうすっかり見えなくなっていた。

 俺の周りには、ただただ星一杯の夜空が広がっている。

 咄嗟に元の姿に戻り、タキの姿を探すために周囲に目を向けると、隣に見慣れない大きな生き物が悠然と泳いでいた。

 漆黒の鱗で覆われた蛇のような身体と、人間でいう肩と腰の位置に生えている二対の白い翼は先端が明るい赤褐色に染まっている。


「……おまえは」


 左眼の上から伸びている艶のある黒角を見て、正体が思い当たり、しかし……と言いよどんでいると、そいつは赤い優しげな瞳で俺を映しながら真っ赤で大きな口を開いた。


夜刀やと様、貴方の背に乗るのも好きでしたが、こうして並んで空を飛ぶのもよいものですね」


 羽根の生えた蛇という不思議な見た目の妖怪あやかしは、聞き覚えのある声で俺の名を呼んだ。

 

「タキ……」


 俺よりも少しだけ身体は細いが、体長は同じくらいだ。頭が蛇のはずなのに、俺の頭の中にはいつも通り微笑むタキの表情が浮かぶ。

 姿は多少変わっても、魂の在り方までは変わらない、か。


「お前は、変わらないのだな」


「ふふ……おかしなことを言うのですね。さあ、早く邪魔者をどうにかして二人でゆっくりと過ごしましょう」


 タキはそういって二対の翼を大きく動かした。

 夜空に溶けてしまいそうな真っ黒い鱗が、月から注ぐ銀色の光をきらきらと反射させてきらめいている。

 羽根が鋭く風を切る音に耳を奪われていると、逢火おうびの屋敷に入る時に聞こえた地響きがもう一度響いてきた。

 腹の下に広がっている森へ目を凝らしてみると、黒いドロドロとしたものが木々を飲み込みながらどこかへ進んでいる。

 そのドロドロの行く先を目で追ってみると、俺の屋敷近くに半透明の巨人が立っていた。

 地響きは、恐らくこいつが足を踏みならした音なのだろう。

 半透明の巨人は、俺たちの屋敷を踏み潰したらしい。


「ああっ! せっかく冬の間に漬けた野菜が……それに……お魚も上手に干せたというのに」


「クックック……本当にお前は何も変わらねえんだな」


 こんな時でも、気にするのは食い物のことか俺のことで、禍々しい巨人など気にしていないらしい。

 少し距離を置いて、大きな木の陰に隠れるように進むのを止めたタキが俺の方へ頭を向けて上目遣いでこちらを見てくる。


夜刀やと様は……わたくしがもっと変わった方がお好みでしたか?」


「いいや。そのままもお前が……いや、そうじゃなくても、どんなお前も美しいと思うよ」


 どうやら巨人はまだこちらには気付いていないらしい。おそらく、アレを操っているのは赤い髪と目をした陰陽師の男だろう。

 あいつの命までは奪いたくないが、さっさと退いて貰いたいのが正直な思いだ。


逢火おうびがいっていたろう? お互いの真名を握り逢った妖怪あやかしは、本来持っている以上の力を発揮できる……と」


 タキはこちらをじぃっと見つめたまま頭を上下にゆっくりと動かした。


「何が起こるかわからねえが、試すなら今だ。俺の真名まことのなをお前に教えるよ」


 彼女の意思を確認してから、俺は人間に近い姿へ戻って地面へ降りると、タキもスッと人の姿へ戻る。

 人懐っこそうな丸みを帯びた鳶色の瞳、漆黒の長い髪……以前と違うことと言えば左のこめかみに生えている漆黒の角と艶やかな着物くらいだ。

 俺の挿しているものによく似たかんざしでまとめられた髪を解いてから、自分の簪も髪から引き抜いた。

 両手に並べて持ってみると、黒い漆塗りの簪は、水を模した円や曲線で描かれた模様が白で彫られている俺の簪に対して、タキのものは曲線で模様が描かれているが炎を模しているように見える。


「俺の真名まことのなは、夜刀守蓮華やとのかみれんげだ」


 彼女の髪を結い上げながら、真名まことのなを耳打ちする。

 くすぐったそうに身を捩る彼女の髪にそっと俺の簪を挿して、俺は自分で自分の髪をまとめあげる。


「素敵なお名前ですね」


 仕上げに彼女の簪を自分の髪に挿し終わるのを見終えてから、彼女は花の咲くような笑顔でそう言ってくれた。


「ああ、そうだな」


 黒髪を撫でてやると彼女はそのまま静かにこちらへ寄り添ってくる。

 着物越しに伝わってくる彼女の体温と共に、熱く甘い何かが身体にまとわりついてくるようだった。

 まるで肌全体に味覚があるような錯覚を覚える。

 傷を負ったことと、タキを妖怪に変えたことで霊力の大部分を失った身体に、力がみなぎってくるのを感じた。

 お互いの真名を知り合うというのは、どういうことなのか実感する。

 彼女と抱き合いながら、唇を触れあわせて一度離す。それから俺たちは見つめ合った。


ひとやたき、お前の全てを俺に委ねておくれ。これから先もずっとずっと共にいよう」


「はい。わたくしの全てを貴方様に委ねます。そして……夜刀守蓮華やとのかみれんげ様……貴方様の全てをわたくしも委ねてくださいな」


「ああ、もちろんだ」


 自然と胸の奥から湧き上がってきた言葉をお互いに口にする。

 頬を赤らめて涙ぐんでいるタキの頬をそっと手の甲で撫でてから、俺たちはもう一度口付けを交わした。


「さあ、では俺たちの屋敷へ帰るとするか」


「暴れている客人をお持てなしするとしましょう」


 しっかりとお互いに手を握り合いながら、天に手を伸ばせば月でも掴めてしまいそうなほど大きな巨人へ近付いていく。

 あいつを見かけた時は、わずかに不安だったがもう何も怖いことはない。

 水蓮を喰ってしまった時よりも、老いたタキを喰らったときよりも温かで甘く、そして沸騰するような感覚が身体を支配している。


「図体ばっかりが大きいからか、小さな者を探すのは苦手なようだなぁ」


 屋敷の門を堂々と潜り、庭を満たしている黒いドロドロに向かって手を払うと青い光が満ちてドロドロが灰のように固まってサラサラと風に飛ばされて消えた。

 ずずずと重い物を引きずるような音をさせて、巨人はこちらへ正面を向けると心の臓に位置する場所に丸く線が浮かび上がり、くり抜かれるように開いた。


「のこのこ姿を現して後悔するなよ」


 男は俺たちを巨人の中から見下ろしてそう言い捨てる。


「拐かした人間の娘を飼っているようだから穏便に済ませてやろうと思ったが、やめだ。この地を呪いでめちゃくちゃにしてあんたを調伏してやる」


 男が叫ぶように言い終えると共に、半透明の巨人が空気を震わせるような雄叫びをあげた。

 森からは獣たちが騒ぐ音すらもう聞こえない。死んではいないが、どうやら黒いドロドロに生命力を奪われて逃げる元気すらないらしい。


「わたくしは拐かされても飼われてもいません! その証拠をご覧に入れましょう!」


 男の挑発に乗せられたのか、タキは啖呵を切りながら巨人に物怖じせずに一歩前へ進み出た。

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