弐周目参――獄(ひとや)

「わたくしの願い……夜刀やと様と一緒にずっとずうっといること……人間のままではきっと……叶えられないから」


 熱に浮かされたような声色でタキが呟く。肩に顔を埋め、身体を密着させると彼女の身体の熱さと先ほど切り落とした角の冷たさをしっかりと感じられた。

 本来ならば、彼女をそれなりに育て、教養や礼儀を教えた後にきちんと道理をわからせて人里へ返してやるべきだとわかっている。

 誰からも優しくされなかった子供を拐かして番にするなど人間も神も行う当たり前の行為だ。だが……それでも……それでも俺は、彼女を自分側に引き込むことは、タキの弱みにつけ込むようで嫌だった。

 それも結局このような形で押し切られてしまったわけだが。


「貴方様みたいに美しい姿だったらいいのでしょうけれど……わたくしはどのような妖怪あやかしになれるのでしょうね」


 いつのまにか目から溢れていた雫を、タキが人差し指で拭っていた。微笑んでいるタキの笑顔は優しげで、頬も唇も桜色に染まっていて白い肌に良く映えている。


「お前は今のままでも美しいよ」


「ふふ……ありがとうございます。ですが、わたくしは」


 そこまで言って、タキは苦悶の表情を浮かべ、胸元に抱えている角を強く握りしめた。

 角の断面から吹き出すように這い出てきた黒い靄のような細い蛇たちが、ゆっくりとタキの身体を締め付けて行く。

 俺は、彼女の背中へ回していた手を解いて、小さく苦悶の声を漏らすタキの顎をそっと持ち上げた。

 汗ばんでいる彼女の肌は、部屋に飾られている魂達の光に照らされてほんのりと輝いていて、思わず生唾を飲み込んでしまいながら覚悟を決める。

 彼女の口腔から霊力を注ぎ込めば、後戻りは出来なくなる。


夜刀やと様、ね、お願いですから。貴方様と添い遂げられるわたくしでありたいのです」


 眉尻を下げて、笑う彼女は苦しみを抑えながらも気丈に振る舞っているのがわかる。


「タキ」


 息を深く吸い込む。彼女の浅い息遣いと早くなった鼓動をしっかりと感じながら、俺は覚悟を決めた。


「お前の願いを、叶えるよ」


 タキが両腕で抱えるようにして持っている角を撫でながら、もう片方の手で彼女の華奢な顎に指先を添えて持ち上げる。

 己の舌を噛んでしまわないように、俺の舌を彼女の口内へゆっくりと侵入させながら、唇と唇を触れさせた。

 丹田臍の下から込み上げてくる熱いものは、胸をせりあがり、口を通じてタキの中へ注ぎ込まれていく。

 痛みを伴うのか、それとも熱を伴うのか、彼女はくぐもった声を漏らして、片腕を角から離し、俺の背中を掻きむしる。

 左手で触れている角が見る見る小さくなっていき、黒い蛇たちは彼女の身体のほとんどを覆ってしまっている。

 苦しみを耐えるように、力を込められた指先が俺の背中を何度か往復していたが、霊力を注ぎ終わると一気に脱力し、腕がダラリと落ちた。


 人間を妖怪あやかしに変えるなんて、他者からの話として耳に入ってくることはあったが、実際に目の当たりにするのは初めてだ。

 タキの手足をも飲み込んだ蛇たちは、まるで繭のように見えた。

 これで成功なのか気が気では無い。静観していた逢火おうびを振り向いて見ると、腕組みをしながらにたりと妖しげに微笑んでいる。

 こいつがこういう表情を浮かべているときは、きっと大丈夫なのだなと生まれて初めて逢火おうびに感謝の念を胸に抱きながら、俺は大きな黒い繭から両手を離した。


「ひっひっひ……おぬしのそんな表情が見られるとはのう。タキに感謝じゃな」


「うるせえ。だが……あんたがいて助かった。一人だったら気が狂っていたにちがいねえ」


「わしの友人を古い頸木から解き放ってくれた礼をするかのう」


 こちらへ歩み寄ってきた逢火おうびは、俺の横へ来るとタキが中へ入っている黒い繭に手を当てる。

 なにかあったらどうするんだと止めようとしたが、あいつがこんなときにふざけるはずはないと思い直し、その様子を静かに見守る。


「棄てられた児よ。おぬしの新たな生がより良いものであるように……わしからの贈り物じゃ」


 穏やかな微笑みを浮かべた逢火おうびは、目を閉じて腕に力を込める。

 掌から漏れ出した青い光を黒い繭に吸いこませているあいつは、涼しい顔をしているがよく見てみると額には粒のような汗がいくつも浮かんでいる。

 霊力は他人に与えてもなくなるものではないし、減った分は休めば戻るとは言え、大量に与えればいざというときに我が身すら守れないこともある。

 妖怪あやかしならば、軽率には行わない行為だ。俺がタキにこうして霊力を与えたのもあいつが特別だからだ。


「暇つぶしの礼じゃ。はーあ。もう霊力を大量に減らしてしもうたから陰陽師の相手などしたら調伏されてしまうかもしれないのー」


「そういう魂胆か」


 手を離してその場で尻餅を着いた逢火おうびだったが、それだけではないのは俺もわかっている。しかし、こうして戯けてみせることで俺たちが気にしすぎないように考えているのだろう。

 軽口を返してお互いに笑い合っていると、遠くでどぉんと低い地響きが聞こえてきた。おそらく陰陽師の男がなにかをしているのだろう。

 膝をついて、俺は黒い繭を抱きしめる。


「俺がお前に名前をやるのは二度目だな」


 額を繭の表面に付けると、わずかに温かい。

 妖怪あやかしとして生きるための名前、真名を、逢火おうびには聞こえないように小さな声で囁く。

 

「……ひとやたき。出ておいで、俺のつがい


 あいつの鳶色の瞳は炎を思わせる。あいつの黒くて長い髪は、万物を眠りの中へ閉じ込める漆黒の夜のようだ。

 頭に思い浮かんだ名を呼ぶと、黒い繭の表皮に小さなヒビ割れが出来てきた。

 真っ黒な靄がヒビから噴きだし、ゆらりと立ち上がった人影の輪郭が徐々に露わになっていく。


夜刀やと様……」


「タキ、具合はどうだ?」


 俺とは反対のこめかみから生えている黒い角をさすりながら、首を傾げているタキは朱色の鮮やかな曼珠沙華が描かれた着物を身に纏っていた。

 さきほど逢火おうびによって喰われた黒い髪は元の長さに戻っており、俺と揃いの簪でまとめられている。

 力の弱い妖怪あやかしならば、元が人間だとしても人に近い姿を取ることが出来ない。しかし、タキは人間に近い姿というだけではなく、無意識に己の力に見合った着物まで作りだしたようだ。


「今ならなんだって出来そうなくらい元気です」


 無邪気な笑顔を浮かべたタキは、そういうと指先から炎を出して見せた。彼女が生み出した墨汁で描いたような黒い炎は彼女自身の着物へ吸い込まれていき、曼珠沙華を囲うような模様に変化した。


「ほら、どうでしょう? 力になれそうでしょうか?」


「十分だ」


 どうやら、俺だけではなく逢火おうびの霊力も受け取ったことで非常に強力な力を持った妖怪あやかしとして生まれ変わったらしい。

 ただの獣に近い姿になったとしても彼女を愛そうと心に決めていたが、そんな心配は無用だったらしい。


「ひっひっひ。強い妖怪あやかしになるとは思ったが、ここまでとはのう」


逢火おうび様も……ありがとうございます。わたくし、夜刀やと様と邪魔者を追い出して参ります」


 座ったままの逢火おうびに深々とお辞儀をしたタキは、流れるような所作で俺の手を握った。

 彼女の細くて小さな手に引かれて、俺は立ち上がってからどう外に出るべきか思案する。


「ほれ、ここから出るといい」


 逢火おうびが指でスイっと空を撫でるように円を描くと、俺たちの背中側にある壁が左右にゆっくりと割れていく。

 手が届きそうなくらい大きな月が見える夜空が割れ目から見えている。


「では、いってまいります。また、近いうちに屋敷へいらっしゃってくださいね」


 簪で止めきれないタキの遊び髪が靡いている。開いた壁の向こうに広がる夜空に向かって、彼女が俺の手を引いたまま床を蹴った。

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