弐周目参――取引
「
水蓮によく似た顔で、水蓮の声をした男がそう囁く。
ああ、これは夢なのだな。
真名ではないこの名を、今人間で呼ぶのはあいつだけだから。
誰にも告げていない、貰ったことすら自分の記憶の奥底に追いやった俺の真名をかつての思い人は口にしないまま死んだ。
「
いくらか前に進んだ時、見知った声が頭の中に響いて立ち止まる。それは、凜としていて力強く、愛おしい声。
一面に咲いた桜景色と、春の麗らかな昼の景色をギラリと青黒く光る短刀が切り裂いていく。
まだ肌寒い春の夜。そうだ。俺は見ず知らずの陰陽師に調伏されそうになっていたのだった。
「タキ」
俺の夢を覚ました愛らしい少女の名を呼ぶ。
しかし、タキは申し訳なさそうに眉尻を下げてこちらを見上げた。
両手で傷口を押さえているからか、腕も足も着物もどんどん赤色に染まっていく。
「ごめんなさい……こんなに切れ味がいいと思わなくて」
「傷はすぐに治る。それよりもお前がどうしてここに?」
狼狽える彼女に寄り添ってやりたいが、身体の自由がまだ利かない。
「妙な男が来て……わたくしが
「……殺してはないだろうな?」
「はい……たぶん」
手加減をしたのだろう。殴られただけならば、すぐに目を覚ます可能性も高い。
脅威になるとわかれば、あの男はタキに危害を加えようとするかも知れない。タキがいくら丈夫だと言っても、俺に対して行ったような魂を縛るような搦め手には弱いだろう。
どうすべきかと思案していると、彼女の手に握りしめられている一枚の羽根に気が付いた。
「それは」
「
すっかり俺の血で汚れてしまった大きな羽を両手で持ったタキが、隠し事をして気まずかったのか珍しく俺から視線を逸らしながらそう答える。
「くくく……。まあ年頃の娘は秘密の一つや二つ持っておくもんだ」
目を泳がせるタキが思いの外可愛らしくて込み上げてきた笑いを堪えようとして、さきほど切り付けられた傷が痛む。
身体を廻る霊力を阻害されているのか、傷の治りが遅いが、致命的なものにはならないだろう。
「
「平気だ。それよりも、ここを離れよう。目覚めたあいつが何をしてくるかわからねえ。俺に触りながら、あのスカした鳥の顔を思い浮かべて念じてみろ」
「は、はい」
少し癪だが、
コツをわずかに教えてやると、タキが両目を閉じた。
その光は、次第に眩しくなっていった。
「きゃ」
驚いて目を見開いたタキが小さく声を上げると同時に、青い光はタキと俺を呑み込んだらしい。
目の前が真っ白になって、眩しさに目を閉じた次の瞬間、やけに暖かい空気が頬を撫でる。
「……やあやあ夫婦仲良くご来訪とは。なにがあったんじゃ?」
「まだ
目を開いたときに見えたのは、たくさんの人魂が入った籠だ。俺たちが移動したのは壁一面に飾られている壁に囲まれた円形の部屋だった。どうやらこれがあいつのねぐららしい。
その部屋の中央にいる
「ひっひっひ。まだ……じゃと!」
先ほどまでは頭くらいは持ち上げられていたのだが、今は地面に縫い付けられたように動けない。
身体の傷は先ほどまでは浅くなったが、未だにじわじわと血が流れ出していて、床に敷かれている藁を汚している。
そんなことを気にしていないような、いつも通りの飄々とした態度の
「それよりも、
「……陰陽師にやられた。真名は握られていないが、
俺とタキの話を聞いた
室内に風が吹き、青い光に包まれたあいつは人間の姿になると、目の前にいるタキの細くて華奢な顎に指を当ててクイッと持ち上げる。
「そうじゃなあ……タキ、おぬしの身体をくれんか? そうすればわしはこいつを救えるやもしれん」
タキの白い喉が上下する。赤みを帯びていた顔からは一瞬で血の気が引いて、カタカタと指先が震えているようにも見える。
「ふざけるなよ
タキから手を離した
何を考えているのかわからないが、いくらなんでもタキの身体を食わせるわけにはいかない。コイツは人間で、丈夫で傷はすぐ治るとは言え、ちょんぎったりなんかしたら腕がはえてくるなんてことはない。
「俺の角でも目玉でもやる。だから……」
「いえ、わたくしは……構いません。命まで奪わないのなら、お好きな部分を食べてくださいませ」
俺の言葉を遮るように、タキはそう言うと
その表情は切羽詰まっていて、俺にいつも食べてくれというような高揚した様子や、恍惚とした表情からはほど遠い。
「タキ……!」
「ごめんなさい、
俺に背を向けた
「じゃあ遠慮無くいただくのじゃ。悪いのう
タキの後ろで一つに束ねた髪を手で掴んで持ち上げた
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