弐周目参――取引

夜刀やと、さあ、都の方々のために鬼を食らうのだ」


 水蓮によく似た顔で、水蓮の声をした男がそう囁く。 

 ああ、これは夢なのだな。

 真名ではないこの名を、今人間で呼ぶのはあいつだけだから。

 誰にも告げていない、貰ったことすら自分の記憶の奥底に追いやった俺の真名をかつての思い人は口にしないまま死んだ。


夜刀やと様!」


 いくらか前に進んだ時、見知った声が頭の中に響いて立ち止まる。それは、凜としていて力強く、愛おしい声。

 一面に咲いた桜景色と、春の麗らかな昼の景色をギラリと青黒く光る短刀が切り裂いていく。

 まだ肌寒い春の夜。そうだ。俺は見ず知らずの陰陽師に調伏されそうになっていたのだった。

 磯撫いそながあいつにやった短刀はよく斬れるようだ。名刀でも俺の鱗を貫いて身を切るのは難しいというのに、彼女が切り付けたであろう場所からは血がどくどくと流れ、彼女の手だけでは無く、寝間着までも汚してしまっている。


「タキ」


 俺の夢を覚ました愛らしい少女の名を呼ぶ。

 しかし、タキは申し訳なさそうに眉尻を下げてこちらを見上げた。

 両手で傷口を押さえているからか、腕も足も着物もどんどん赤色に染まっていく。


「ごめんなさい……こんなに切れ味がいいと思わなくて」


「傷はすぐに治る。それよりもお前がどうしてここに?」


 狼狽える彼女に寄り添ってやりたいが、身体の自由がまだ利かない。


「妙な男が来て……わたくしが夜刀やと様の名前を告げたら、人里へ行けなんて酷いことをいうものでしたので頭にきて」


「……殺してはないだろうな?」


「はい……たぶん」


 手加減をしたのだろう。殴られただけならば、すぐに目を覚ます可能性も高い。

 脅威になるとわかれば、あの男はタキに危害を加えようとするかも知れない。タキがいくら丈夫だと言っても、俺に対して行ったような魂を縛るような搦め手には弱いだろう。

 どうすべきかと思案していると、彼女の手に握りしめられている一枚の羽根に気が付いた。


「それは」


逢火おうび様の羽根でございます。あの、最初に出会った時に、強く念じればあの方のお家に行く道が開けると……教えていただいて、その、内緒にするようにとおっしゃっていたので、言い出せず」


 すっかり俺の血で汚れてしまった大きな羽を両手で持ったタキが、隠し事をして気まずかったのか珍しく俺から視線を逸らしながらそう答える。


「くくく……。まあ年頃の娘は秘密の一つや二つ持っておくもんだ」


 目を泳がせるタキが思いの外可愛らしくて込み上げてきた笑いを堪えようとして、さきほど切り付けられた傷が痛む。

 身体を廻る霊力を阻害されているのか、傷の治りが遅いが、致命的なものにはならないだろう。


夜刀やと様……」


「平気だ。それよりも、ここを離れよう。目覚めたあいつが何をしてくるかわからねえ。俺に触りながら、あいつの顔を思い浮かべて念じてみろ」


「は、はい」


 少し癪だが、逢火あいつに頼るほか無いようだ。

 コツをわずかに教えてやると、タキが両目を閉じた。

 逢火おうびの風切り羽を握りしめた両手を心の臓近くへ持っていったタキは息を大きく吸い込む。半開きの小さな唇から吸い込まれた空気が、彼女の控えめな胸部を膨らませる。何度か深く呼吸をしてぎゅっと両手に力を込めると、汚れていた逢火おうびの風切り羽に青い光がぽっと灯る。

 その光は、次第に眩しくなっていった。


「きゃ」


 驚いて目を見開いたタキが小さく声を上げると同時に、青い光はタキと俺を呑み込んだらしい。

 目の前が真っ白になって、眩しさに目を閉じた次の瞬間、やけに暖かい空気が頬を撫でる。


「……やあやあ夫婦仲良くご来訪とは。なにがあったんじゃ?」


「まだ夫婦めおとではない」


 目を開いたときに見えたのは、たくさんの人魂が入った籠だ。俺たちが移動したのは壁一面に飾られている壁に囲まれた円形の部屋だった。どうやらこれがあいつのねぐららしい。

 その部屋の中央にいる逢火おうびは、青鷺本来の姿で座りながら俺たちを見下ろしていた。


「ひっひっひ。まだ……じゃと!」


 先ほどまでは頭くらいは持ち上げられていたのだが、今は地面に縫い付けられたように動けない。

 身体の傷は先ほどまでは浅くなったが、未だにじわじわと血が流れ出していて、床に敷かれている藁を汚している。

 そんなことを気にしていないような、いつも通りの飄々とした態度の逢火おうびの軽口に応じると、いてもたってもいられないといった様子で駆け出したタキがあいつの首元に腕を伸ばす。


「それよりも、逢火おうび様、大変なんです! 夜刀やと様が変なのです」


「……陰陽師にやられた。真名は握られていないが、内側に細工をされたようだ」


 俺とタキの話を聞いた逢火おうびは、丸くて黄色い瞳を細めると、大きく翼を広げた。

 室内に風が吹き、青い光に包まれたあいつは人間の姿になると、目の前にいるタキの細くて華奢な顎に指を当ててクイッと持ち上げる。


「そうじゃなあ……タキ、おぬしの身体をくれんか? そうすればわしはこいつを救えるやもしれん」


 タキの白い喉が上下する。赤みを帯びていた顔からは一瞬で血の気が引いて、カタカタと指先が震えているようにも見える。


「ふざけるなよ逢火おうび。タキに傷の一つでも付けて見ろ。動けるようになったらただじゃ置かねえぞ」


 タキから手を離した逢火おうびは、羽織を翻しながら這いつくばっている俺の方へしずしず歩いてきて、にたりと笑みを浮かべた。

 何を考えているのかわからないが、いくらなんでもタキの身体を食わせるわけにはいかない。コイツは人間で、丈夫で傷はすぐ治るとは言え、ちょんぎったりなんかしたら腕がはえてくるなんてことはない。


「俺の角でも目玉でもやる。だから……」


「いえ、わたくしは……構いません。命まで奪わないのなら、お好きな部分を食べてくださいませ」


 俺の言葉を遮るように、タキはそう言うと逢火おうびの羽織を掴んで引き留めた。

 その表情は切羽詰まっていて、俺にいつも食べてくれというような高揚した様子や、恍惚とした表情からはほど遠い。


「タキ……!」


「ごめんなさい、夜刀やと様……。あなた様に全身食べていただきたかったのですが、少し減ってしまいそうです」


 俺に背を向けた逢火おうびがタキの肩に手を当てた。眉を八の字にしながら笑う彼女の笑顔はいつもの完璧な微笑みでは無く、口元が引きつっていて、無理に笑っているのがわかる。


「じゃあ遠慮無くいただくのじゃ。悪いのう夜刀やと


 タキの後ろで一つに束ねた髪を手で掴んで持ち上げた逢火おうびが、口元に笑みを浮かべながら彼女の首元に口を近付けていく。

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