弐周目参――侵入

「どうなっているんだ」


 山河童セコたちが慌てて逃げているのが木々の間から見える。しかし、近くで道や山肌が抉れている様子は見えない。

 仕方なく地上へ降りてみると、ぶよぶよとした透明の膜が張られていることに気が付いた。

 膜の表面に触れるとビリビリとした感覚が身体を駆け巡っていく。痛くはないが不快だ。

 尾を一振りして膜を破ると、内側からどろりとした黒い液体が辺りにあふれ出てきた。

 その悪臭に思わず小さく呻いた俺を、どろどろの奥から見ている者がいる。


「人間、ここは俺のナワバリだ。失せろ」


 無言のままこちらへ近付いて来る人間に対して、警告をする。

 であれと願われた俺は、基本的には人間を害することが出来ない。これは呪いのようなものだと他者は言うが、俺は水蓮が俺の魂に打ち込んだこの頸木を愛おしいとすら思っている。

 今回のように、山に害を為そうとする人間を問答無用で殺せないのは多少もどかしいが……。

 無言のまま奥から歩いてきたのは、赤い髪と瞳の青年だった。

 藍色の狩衣を身に纏っている少年は姿を現すなりこちらへ向かって短刀を投げつけてきたが、それは俺の鱗を僅かに傷付けるだけで地に落ちた。

 短刀の先端に血が付いているが、俺のものではない。既に手傷を負っていたのか? それとも……。

 妙なことをするものだと怪しみながらも、俺は口元に笑みを浮かべている若い男へ視線を戻す。


「白鱗山の主は蛇だと聞いていたが……角が生えた蛇とは妙なものだ」


 顎に手を当てながら、こちらを品定めするように見上げた男は懐から数枚の札を出して宙へ浮遊させた。


「帝の命を救うためだ。あんたにはボクの式神になってもらう」


「人間如きが俺を従えるだと? 笑わせるな。失せろ」


 尾で地面を叩き、小石を飛ばすと、石は男の頬を掠めて数筋の血を流した。しかし、怯んだ様子もなく、男は念を込め青く光るようになった札をこちらへ差し向けてくる。


「あんたが本当の神様なら、無理かもな。だが、勝算はある」


 飛んできた札を尾で薙いで叩き落とす。多少痺れるような痛みはあるが、全く問題ない。

 山の主である俺がいなくなれば、この一帯は妖怪あやかしや鬼たちに荒らされるような呪いの土地になる。

 仕方が無いが、こいつには死んで貰うしかない。


「なあ、蛇神、お前に教えてやるよ。自らの身を捧げ、神無き土地に神を降ろした巫女水蓮の子孫がボクだってな」


「その名を、何故」


 噛みついてそいつの身体を真っ二つにしようとして身体を伸ばしたが、思ってもいなかった名前を言われて一瞬だけたじろいだ。

 その隙に、男は腰にぶら下げていた刀をすらりと抜いてから後ろに跳んで俺と距離を取る。


「巫女水蓮を食らい、巫女水蓮の願いによってこの地に縛られた妖怪神あやかしがみよ。我が血を食らい、我が一族の怨念を吸った大蛇よ、その真名をここに告げよ」


 しまったと思った時には遅かった。あの短刀に付着していた血は、こいつ自身のものか。

 身体の内側を、強い痛みが走り抜ける。全身が硬直して動かせなくなった俺はそのまま地面へと縫い付けられるように倒れた。


「効かない、だと」


「なんのつもりか知らないが、残念だったな」


 焦った男に悪態を吐く。しかし、このままではじわじわ弱らされてあいつに支配される可能性もある。

 どうすべきか悩んでいると、男の肩に紙で出来た鳥が一羽止まるのが見えた。


「へえ、あんた……人間を飼っているのかい。じゃあそいつからあんたの真名を聞き出す。それまで悪夢良い夢でも見ててくれないか?」


「……貴様」


 ニヤリと口の左側だけ持ち上げて俺に背を向ける男に何か言おうとするが口が動かなくなる。

 目の前がぐるぐると揺れて頭がふわふわと心地よくなる。

 ああクソ。タキを、タキを助けなければ。

 そう思いながら、俺は真っ黒な靄の中をひたすら這い回る。

 一筋の光が見えた。ここが出口か……。狭い穴に身体を捻じ込んで外へ出ると、そこは俺の屋敷だった。


「■■、どうしたの? ほら、今年取れた野菜の漬物よ。あなた、好きでしょう?」


 薄赤の髪はすっかり伸びていて、巫女のように腰まで伸ばした髪を和紙で一つに括っている。くりくりとしたリスのように丸い赤い瞳でこちらを見上げているのは水蓮だった。

 しかし、野菜も漬物もあいつが作ってくれるはずだが……。いや、あいつとは誰だったか……。


「もう、ぼうっとしてどうしたの? もうすぐ豊穣祭で村に降りる予定でしょう? あなたのきれいな鱗もしっかり磨いておかないと」


 口に漬物を放り込まれ、とぐろをまいている俺の鱗を水蓮が束子でゆっくりと磨いている。そうか、もう豊穣祭の時期か。

 確か水蓮が巫女として俺に嫁ぎ、俺が神として恵みをもたらした翌年から行われるようになった祭り。


「夢を見ていた。お前が死んで、それで、俺は孤独で。村から五十年に一度人間の娘を供物として捧げるように命じるんだ」


「つらい夢を見ていたのね。大丈夫。私はずっとあなたの側にいるから」


 そっと掌で撫でられて心地が良くなる。このまま水蓮の言うことだけ聞いていれば温かな日差しの下にいるような気持ちでずっと過ごせるのだろうか。


「さあ、村へ降りましょう。村にいる鬼を食べるだけの簡単なお祭りだから」


「ああ、お前が言うのならそうしよう」


 水蓮が山の向こうを指差す。毎年していることのはずなのだから、きっとそうなのだろう。

 水蓮が微笑む。穏やかでまるで菩薩のような微笑みだった。

 完璧で、完全で、それでいてどこか気味が悪い。


 ……俺は、この笑みを浮かべる女を知っている。水蓮では無く、誰か、いたはずだ。

 前へ進むのを止めた俺を見て水蓮が振り返る。

 その表情は氷のように冷たかった。

 しかし、徐々に水蓮の表情は変わり、髪と目の色はそのままに男の顔へと変貌していく。


夜刀やと、さあ、都の方々のために鬼を食らうのだ」

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