弐周目次――願い

「へぇ。人間はこうやって眠るんだな」


 眠っているタキの顔を覗き込みながら磯撫いそながそう呟いた。

 知らない場所へ来て、海の底に引きずり込まれたり、体が冷えたりしたからか、タキは俺の膝に頭を乗せていつの間にか寝息を立てていた。

 起こさないようにそうっと彼女の頭を下ろして、すっかり乾いた毛皮を掛けてやると、寝ぼけながらもそれをたぐり寄せ、彼女は体を丸めて再びくぅくぅと小さな寝息を立て始める。


「白鱗山の主、あんたはこいつと番うつもりはねえのかよ」


 ひとしきり俺の行動を黙って見ていた磯撫いそなは足を崩して座り直すと、いきなり問い掛けてきた。


「あんたにそのつもりがねえなら、オレ様が娶っちまうか。オレ様の血を飲ませればこいつも妖怪あやかしになる。しばらく退屈せずに済む」


「ふざけるな。こいつと番うつもりも、同類にするつもりもない」


 タキの髪に手を伸ばし、そっと撫でる磯撫いそなの指を手で払いのけながら睨み付けた。


「なんだよ。じゃあ、こいつが死ぬまで愛玩するつもりか。人間は寿命が短いらしいぞ?」


 しかし、磯撫いそなは俺がすごんだとしても全く怯まない。 

 けろりとした表情を浮かべながら首を傾げてそう返され、俺は思わず顔を顰める。


「そんなこと、誰よりも俺自身が知っている」


 一度、こいつを看取ったんだ。あっと言う間に死ぬなんて誰よりも知っているつもりだった。

 こいつの抱えているものにも、こいつがどう扱われてきたのかも知らないまま一度は寿命を終えさせてしまった。

 タキの願いを叶えるために、俺は力を得たのだ。だから、こいつの願いを見つけて、叶えてやらなけりゃならない。


「わからねぇなァ。餌にもしねえ、番にもしねえ、仲間にもしねえ。人里に返すわけでもねえんだろ?」


「タキに決めさせる。人里に戻りたいと言えばそうするし、番になりたいというのならそうしよう」


「なぁ、じゃあこの人間がオレ様に嫁ぎたいって言えば、協力してくれるのか?」


「……それがタキの望みなら」


 顎を少し持ち上げて口元にずらりと並んだ牙を見せて、磯撫いそなが笑う。

 得意そうな表情で笑みを浮かべているこいつに腹が立ちながらも、俺は辛うじてそう応えた。


「あっはははは。あんたがそんな面ァすると思わなかったぜ」


 よほど酷い顔をしていたのだろう。体を仰け反らせ、腹を押さえた磯撫いそなが大きな声を出して笑い始めた。

 タキが起きやしないか心配して彼女へ目を向けたが、すぅすぅと安らかな表情を浮かべて眠っている。


「オレ様に食われたくないってもう振られちまってるからな。そんなこたあねえんだろうが」


 ひとしきり笑って体を起こした磯撫いそなは、目尻に浮かんだ涙を指で拭いながらタキを見た。


「人魚の肝を人間が食うと、不滅の体を持てるらしい。血を浴びれば体が丈夫になるそうだ。もしこいつが他の人間と違うなら……妖怪俺たちの血を引いているか、人魚の血でも浴びたのかもしれねえな」


 それから、少し前に傷付けた頬を、今度は傷付けないように手の甲でそっと撫でながら囁くように言った。


「……今、逢火おうびがこいつのことを調べている。それがわかれば、こいつの生まれになにがあったか僅かにでもわかるだろ」


「へえ、青鷺の旦那が」


 片方の眉を持ち上げながら、磯撫いそなは楽しげにそう声を上げた。

 それから、再びタキへ視線を戻す。


「ひひひ……人間、お前は妖怪あやかしに寵愛される才能があるらしいなぁ。なあ、白鱗山の主、こいつの名はなんだったっけ」


「タキだ」


「そうか、タキ。山から水が落ちる場所の名だな。きれいで好きだ。こいつにピッタリじゃねえか」


 目を細め、柔らかく微笑みながら彼女の頭を手の甲で撫でる磯撫いそなを見て、胸の辺りがキュウと縮まるような感覚がして思わず胸元に自分の手を当てる。

 ……が、妖術の類を使われたわけではないらしい。

 それから俺と磯撫いそなはいくつかの言葉を交わし、気が付けば空が白み始めた。

 タキを起こし、朝の支度をさせている間に磯撫いそなは魚を捕ってくるといって海へ入っていった。

 あいつが戻ってきたのは、タキが支度を終えて屋敷から外へ出た時だった。


「なあ、タキ。オレ様はどうやらお前に悪いことをしたらしいな」


 海からあがってきて、すぐに人間に近い姿になった磯撫いそなは水を滴らせながらタキへ近付いてくる。


「わたくしにもよくわかってません。だから、そんな謝っていただく無くても大丈夫です」


「ならば、こうしよう。オレ様におもしろいものを見せてくれた礼だ。受け取れ」


「あら……これは」


 磯撫いそなが差し出したのは魚だと思っていたが、白いものが太陽の光を反射しているのを見てどうやら違うと気が付く。


「オレ様の牙だ。こうして持ち手をつけりゃあ、あんたの手を痛めずに使えるだろう」


 磯撫いそなは、持っていた牙を指で撫でる。青い光を放ちながら牙は小刀を模した形へ変化していく。

 少し無骨すぎる気もするが、刃が乳白色なこと以外、普通の小刀だ。磯撫いそなの牙を手渡されたタキは目を丸くして角度を変えたりして興味深そうにそれを見ている。


「お前がこんなものを作れるとはな」


「オレ様はあんたよりもずぅっと人間に畏れられ、恨まれている。人間を喰うからなァ。人間のことはすぐ食っちまうからよく見てねーけどよ、武器は腹の中に残るからな。吐き出したときによく見るんだ」


「ありがとうございます。畑仕事も楽になりそうです」


「ひひひひ。あんた、人間に復讐とかは考えねえんだなァ。おもしれえよ」


 タキへ腕を伸ばそうとした磯撫いそなの手を思わずぱしりと叩き落とし、彼女をこちらへ抱き寄せた。

 一瞬あっけにとられたように口をあんぐりと開いた磯撫いそなだったが、怒りもせずにニヤニヤと笑ってこちらを見ている。


「思ったより長居してしまったな。帰るぞ、タキ」


「はい。あの、磯撫いそな様、ありがとうございました」


 少し磯撫いそなから離れ、元の姿に戻るとタキの腰に尾を巻き付けて体を持ち上げてやる。

 俺の背に乗ったタキが磯撫いそなに深々と頭を下げた。


「ああ? オレ様に礼なんていい。オレ様も久々に知人と会えておもしろかったからなぁ」


 ひらひらと手を振る磯撫いそなを横目に捉えながら、俺は空へ向かって体をくねらせた。


「なあ、タキ。また来いよ」


「はい。磯撫いそな様も、お元気で」


 大きな声で別れの言葉を述べる磯撫いそなに、タキも手を振りながらそう応える。

 また……か。

 こうして、タキに交流を持たせるのはあの屋敷に閉じ込めておくより健全なのだろう。

 それが、俺だけに依存する彼女を失うのだとしても。

 昨夜、磯撫いそなが「オレ様に嫁ぎたいって言えば、協力してくれるのか」という言葉を思い出しながら、そんなことを考えていると、タキが俺に体を寄せながら呟いた。


「帰ったら、聞いても良いですか? あなた様が食べた人間の話を」

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