弐周目次――例外

「ありがとうございます。少し楽になりました」


 屋敷の中にあった囲炉裏に火を付ける。着物はないので屋敷内に落ちていた布で彼女の体を包ませ、服も吊して乾かすことにした。

 しばらくは寒さで震えていたが、頬に赤みが戻ってきたタキがようやく柔らかく微笑む。


「人間、悪かったな。攫った人間は喰っちまうから、水の中で息が出来ないなんて知らなかった」


 タキに頼まれて、磯撫いそなが持ってきた魚の口から尾にかけて枝を突き刺したものを囲炉裏の端に挿している。

 そんな俺の手伝いをしながら、磯撫いそなは謝罪の言葉を口にした。


「傷のことも謝れ」


「ああ? でもこの人間、もう傷があったことなんてわからねえくらいきれいに治ってるぞ」


 魚を胸の辺りに突きつけながらそういうと、眉を顰めながら磯撫いそながタキを指差した。


「わたくしは少し他の人間よりも丈夫みたいです。だから、大丈夫ですよ」


 布で包まった体から脚が見えているが、確かに傷があったことなんてわからない。少し前まで擦り傷と切り傷がたくさんあって血が滲んでいた彼女の白肌は珠のように美しい。


「生まれ育った村でも石を投げられたりしましたが、すぐに治るので驚かれたものです」


 額の辺りをさすりながらタキはなんでもないことのようにそういった。

 その言葉に、腹の奥底がぐらりと煮立つような心地になる。

 張り付けにされて、石を投げられた水蓮は額が割れて柘榴のようだった。

 きれいな顔が腫れあがり、俺が姿を見せる前までは痛みに呻いていたのを思い出す。

 そんな、笑いながら言うことでは、決して無いはずだ。


「はっはっは! 石はオレ様も投げられたことがあるぞ! お揃いだな、人間」


 俺の気も知らず、磯撫いそなはそう言ってのけると籠の中に入れている魚を頭からバリバリと囓りながらタキの方へ身を乗り出した。


「なあ、オレ様が怖くないのか? 最初は真っ青な顔をしてたってえのに」


「わたくしを突然食べる方ではないのは、わかりましたから」


 首を傾げながらタキは天女像のように微笑んだ。

 こいつには怒りや悲しみという感情が欠落しているのか、それとも表に出さないだけなのか。

 表面が炭で炙られ、香ばしい匂いを発し始めた魚を取ってタキへ手渡す。

 両手で枝を受け取り、小さな口で魚の腹へ食いついた彼女はあっというまにそれを食べ終えた。


「口が小せえなぁ。人間なんて近くでまじまじ見たことはなかったけどヨォ、おもしれえ」


 グイと身を乗り出し、磯撫いそながタキに腕を伸ばす。

 鋭い爪が彼女の頬を掠め、一筋の血が流れたがそんなことを気にしないまま不躾に顎を掴むとそのまま持ち上げた。


「乱暴にするな。丁重に扱え」


 タキは拒む様子も、驚いて身じろぎする様子もなかった。ただ、穏やかな微笑みを浮かべて磯撫いそなを見上げている。

 先に耐えられなかったのは俺だ。きょとんとした表情でこちらを見たのは、磯撫いそなだけではなかった。タキも目を丸くしてこちらを見ている。

 逢火おうびと遭った時にも薄々気が付いていたが、今確信した。こいつは乱暴に扱われることに慣れすぎているのだと。

 タキの顎を掴む磯撫いそなの手をぱしりと叩き落とし、それから彼女を抱き寄せる。


「オレ様はてっきり、白鱗山の主は飯を連れ歩いてるだと思ったんだが……」


 特に憤慨した様子もなく、磯撫いそなは腕組みをしながら俺とタキを見比べた。

 抱きすくめているタキからの視線も感じながら、俺は磯撫いそなをじっと睨み付ける。


「ああ、そいつとつがいてぇのか!」


「は」

「え?」


 俺とタキは同時に声を上げた。


「その、ち、ちがいます! わたくしは夜刀やと様に食べていただきたくて……勝負をしているだけで、その……」


 両手を頬に当てて、かぶりを振りながら捲し立てたタキは微笑みを崩して顔を俯かせる。

 頬から一筋垂れた血を拭ってやると、傷口は塞がってもう見えなくなっていた。


夜刀やと様がわたくしを食べたくなればわたくしの勝ち、わたくしが食べていただく以外の願いを見つければ夜刀やと様の勝ち、そういう約束をしているのです。わたくしのようなものが……つがいになるだなんて、そんな……そんなことは……」


「ひっひっひ。振られちまったなぁ」


 ちらりと上目遣いでこちらを見たタキの黒髪を撫でながら、溜め息を吐くと肩を揺すって愉快そうに目を細めた磯撫いそなが、新たな魚を囓って笑みを浮かべる。


「人間の娘を食って白鱗山の主になったんだろ? こいつも食ってやりゃあいいじゃねえか。それとも、人間、オレ様に食われるのはダメなのか?」


「おい、お前」


 悪気がないのはわかっている。

 水蓮のことは、俺がタキに話していないだけだ。古くからいるここいらの妖怪あやかしたちは、俺がどうやって力を得て山の主になり、蛇神と呼ばれるようになったのか知っている。

 理屈ではわかっていても、苛立つ気持ちは抑えられない。

 咄嗟に腕を伸ばし、磯撫いそなの肩を突き飛ばす。


「わたくしは、蛇神様に食べていただくために育てられましたので。磯撫いそな様に食われるわけには参りません」


「そりゃあ残念だ」


 俺が肩を突き飛ばしたことなど気にした様子もなく、磯撫いそなは肩を竦めてタキに笑い返した。

 タキがどんな表情を浮かべているのかは、わからない。見たくないという気持ちが頭をよぎる。だが、ふと視線を落とせば、胸元に抱きすくめている彼女の表情が目に入る。

 にこりと微笑んだ彼女の表情は、あの、俺と出会ったときのような完璧な笑顔だった。

 それに……先ほどまで俺を名前で呼んでいたというのに、と言いやがる。


「タキ」


「蛇神様はお優しいので、わたくしに食べる価値がないことを直接言わないかったのはよくわかりました」


「そうじゃない」


 こうなったタキは聞く耳を持たない。そのことは前世でさんざん思い知った。

 しかし、よく見ていると彼女の完璧な微笑みにも少しだけ違和感がある。よく見ていると、僅かに唇が引きつり、眉は八の字を描かず微かにつり上がっているようだ。


「ははははは! 白鱗山の主が人間の機嫌や呼び名一つで取り乱すとはなぁ! おもしれえ」


「な」


 元はといえば、お前のせいだろうがと怒鳴りそうになったが、そんなことを言う暇もなく磯撫いそなはタキに顔を近づけた。

 あいつは、ギザギザの牙が並んだ歯を見せてニッと笑いながら話を続ける。


「人間、いいことを教えてやる。こいつはな、オレ様たちの間じゃあ氷のように冷たく無表情で冷徹だと有名なんだ」


 タキから「え」と小さな声で呟き、鳶色の瞳がきらりと光る。


「白鱗山の主を慌てさせるなんてなァ、食ってもらうことよりも難しいぞ。人間を喰おうとしてこいつに追い出された妖怪あやかし共がよく言ってたんだ。白鱗山の主は氷みてえに冷たくて恐ろしいやつだってなァ」


 そんな評判だったのか。まあ、間違ってはいないが。


「……もう話が終わったなら、さっさと離れろ」


 いつまでもタキに顔を近付けたままの磯撫いそなの肩を軽く手で押すと、すんなり体を離して元の位置に戻る。

 あいつの話を聞いて、何か考えているのか無言のままでいるタキがもぞもぞと動くお陰で、髪の毛が肌を撫でてくすぐったい。


夜刀やと様、磯撫いそな様の言葉は、本当なのですか? わたくしに、食べる価値がないのでは、ないと……」


逢火おうびならともかく、こいつが気を利かせて嘘をいうようなヤツに見えるか?」


「いいえ」


「ならば、そういうことだ」


 きっぱりとそう言い切ったタキに思わず吹き出しながら、俺はもう一度タキの髪を撫でた。

 桜色をした彼女の唇の両端が持ち上がり、頬が赤く染まる。へらりと力が抜けたように笑ったタキは「はい」と応えて頷くと、俺の胸元から抜け出して囲炉裏へ手を伸ばす。

 もしゃもしゃと焼いた魚を食べる彼女を、俺と磯撫いそなは無言のまま見守っていた。

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