弐周目次――海の底
「ちっ……。あの野郎、水中に入りやがった」
切り立った岩壁は水しぶきに塗れて黒く光る。
分厚い雲が太陽を隠し、色を失ったように見える景色の中、タキを咥えている
急がなければ……。水中を泳ぐのは得意だった。
息を止めて、前方に見えている魚影を追いかける。あいつはどうやら海底近くの洞窟へ入ったらしい。
口からあぶくが漏れる。この程度なら俺は苦しくないが、タキは人間だ。今日は身を守るための鱗も持たせてやってない。
罠かも知れないが、そんなことを考えている余裕はない。
表情は読み取れないが、恐らく不思議そうに彼女を見つめている
俺の口に入る瞬間、タキが微笑んだように見えたのは気のせいだろう。あいつを食らったことを思い出して苦々しい気持ちになりながらも、それを振り払いたくて一度頭を左右に振り、海面へ向かう。
口の中に甘い香りと味が広がるのも、気持ち悪かった。こいつが傷付いているのに美味いと思う己の本性がたまらなく苛立たしい。だが、前世でこいつを喰らった時のように耐えがたい衝動までは起こらない。だいじょうぶだ。自分にそう言い聞かせて海面を目指す。
人間に見られては面倒だ。水面から顔だけだして、見かけた岩の上にタキを吐き出した。
真っ白な顔をしたタキは、岩の上に仰向けにしてやると咳き込みながら息を吹き返した。
ガタガタと震えているタキは、体を起こすと腕をさすりながら俺を見た。
「てっきり……食べてくれるかと思いましたのに」
血色が悪い唇の両端を持ち上げて、タキは弱々しく笑いながらそう言った。
クソ……どういうつもりだったんだ。
こいつの肌は簡単なことじゃ傷付かないのに、着物から見えている手足には擦り傷がところどころ付いているし、血が流れている。
以前のように強く惹かれるほどではないが、甘い味と匂いが口の中に残っていって気持ちが悪い。
どうしてやろうかと思っていると、物音一つ立てずに大きな魚影が近付いて来た。
魚影は頭だけ水面に出すと、俺とタキを交互に見つめて「すまん」と気まずそうに呟いた。
「大丈夫です。少し血が出ただけですから。それに……鮫神様はわたくしが水の中で呼吸が出来ないと知らなかっただけです」
俺がシャアっと威嚇の声をあげる鼻先にそっと手を置いたタキは、
どうすればいいのか検討がつかない。
「そうだ! オレ様は悪くない。説明しないのが悪いだろう」
「勝手に俺のタキを連れていったのはてめえだろうが」
「オレ様の住み処へ案内しようと思っただけだ! 殺すつもりはなかったぞ」
怒鳴りつけてやろうと口を開こうとする前に、タキが
「
鼻先に触れられて、黒目がちな目をきらきらと光らせたあいつは、少し考えたように黙ったが、すぐに俺たちが背を向けている方向を尾びれで指す。
「火なら心当たりがあるぞ! 豊漁の時に人間がオレ様に魚を捧げる神殿がある」
そう言った
すぐに口を閉じたあいつは、不服そうに背びれを揺らして俺たちに背を向けた。
タキを俺の背に乗せて、背びれを見せたまま元来た方向を引き返す
俺になれているからか、それとも他者を疑うことを知らないのかタキは無防備だ。鱗を常に持たせるだけじゃなく、まじないで守ってやった方がいいだろう。
今後、俺の様子が変わったことに興味を持った他の神や
明確に悪意をぶつけてくるやつらも……いるだろうから。
黒い木で作られた鳥居が見えてくる。最初に俺たちがいた場所から少し離れた岩場にあるようだった。
鳥居の奥には、俺の屋敷とそう変わらない規模の家屋が建っている。が、人間の気配は感じられない。
「付いてこい。火ってやつも多分つけられるだろう」
いつのまにか
しかし、変化は不得手のようで耳があるはずの場所はヒレが生えており、肌も人間のそれよりも青みが強い。
服をまとっていないおかげで、あばらの位置にエラの名残があることもわかる。つんつんとはねている黒髪をわしわしと掻いてから、
人間へ関心が低い
タキを背中に乗せたまま、俺は
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