弐周目次――磯撫

「すごい! 向こう岸が見えません」


 海岸へ近付いて、遠くを見るようにつま先立ちをしたタキは、海を見てからこちらを降り返る。

 冬の海は風が強く、すこしべたついた風が潮の匂いを運んでくる。

 海鳥が鳴く声を聞きながら、俺たちは磯浜を歩く。

 夜が明ける少し前に俺の背にタキを乗せて飛び、人目を避けるようにして森へ降りた俺たちが海へ到着したのはすっかり日が高く昇ってからだった。


「変な匂いがする水ですね」


「塩っ辛いぞ。舐めてみるか?」


 岩場でしゃがみこみ、浅瀬を覗き込む。うみうしがのたのたと動き、小魚が人の影に驚いてサッと遠ざかったのを彼女の背中越しに見ながら、俺は瞳を輝かせているタキに聞いてみる。


「本当……! こんなに塩辛い水の中にも魚は住んでいるのですね」


 躊躇なく手で水を掬い、口元へ運んだタキは目を皿のように丸くしてから朗らかに笑った。

 それから、再び浅瀬にいる生き物たちに目を向ける。砂浜でもあれば貝でも掘ってみせてやったというのに。

 人目に付きにくい岩場を選んだのは失敗だったか?

 そんなことを思いながら、俺はタキを見守るようにあちこち動き回る彼女の数歩後ろを歩いていると、波の合間になにやら大きなヒレのようなものが目に入った。


「あれは」


 タキも気が付いたようで、沖からこちらへ近付いてくる影の方を見て首を傾げている。

 それは、巨大な影だった。船よりも大きいそれは波打ち際まで来るとぐぐぐと海面を持ち上げる。

 驚いて上体を仰け反らせたタキの肩を両手で受け止めて、海面から出てきた巨大な影を見上げた。

 鋸の歯に似た鋭い歯がみっしりと並んでいる口は雄牛すらも軽々と飲み込んでしまいそうなほど大きい。

 

「めずらしい気配がすると思ったら、白鱗山の主じゃねえか。元気か?」


 夜をそのまま固めたような小さな瞳がぎょろりと動いて、俺たちの方を見る。

 フカによく似た巨大な魚は、長い尾びれを水面へ出して揺らしながら親しげに話しかけてきた。


「ああ。磯撫いそなも相変わらずのようだな」


「まあまあだな。冬は人間も海にあまり出ないので暇ではあるが! 珍しい客が来たから差し引きなしってとこだ」


 白目の見えない目をこちらへ向けながら、磯撫いそなはヒレを機嫌が良さそうに動かす。


「お知り合い、ですか?」


「まあ、な。こいつはここら辺の海の主だ」

 

 磯撫いそなと軽く挨拶を交わしてから、タキにこいつのことを説明してやる。

 落ち着き無くその辺をぐるぐると回っているアイツの長い尾びれを指差すと、彼女も視線をそこへ向けた。


「こいつは、返しのある小さな棘がたくさん生えた長い尾びれで、船上の人を引っかけて捕まえる。それが撫でるように見えるから磯で撫でる物の怪と畏れられるようになった」


 黒い体は海から頭を出していても影のようだ。

 磯撫いそなは、しばらく水中で泳いでいたが、ぐるりと体を回転させ、大きく水面を跳ねた。水しぶきがあがり、俺は思わず腕で顔を庇う。その瞬間、小さな悲鳴が聞こえて、俺から遠ざかった。


「こーんな風にな! あっはっはっは」


 咄嗟に伸ばした手が空を切る。

 声が聞こえた方向を見ると、空中に投げ出されたタキを磯撫いそなが大きな口で捉えていた。


「客人! オレ様の巣へ案内してやろう」


 食うつもりはないようだが……。珍しく顔を真っ青にしているタキを放っておくことは出来ない。

 それに……逢火オウビもそうだが、神や妖怪あやかしというものは、人間がどれだけ脆いかに疎い。

 いくらタキが丈夫だからといっても、冬の海で何時間も水浸しになっては弱ってしまいかねない。

 さらに……あの巨大な魚が力加減を間違えればタキの体はずたずたに引き裂かれてしまうだろう。

 舌打ちをして、本来の姿へ戻る。

 風を切り裂くように海を進んでいく磯撫いそなを見失わないように、俺は水面すれすれを飛んで二人を追いかけた。

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