龍神の章

弐周目序――唾棄

――もっと早くあなた様にわたくしの本当の名を打ち明けられればよかった。


 その願いを、叶えてやろうと俺は言った。

 もう二度と人間なぞ食べないと、そう決めていたのに。


 唾棄ダキだなんて、ふざけた名付けをされ、俺の元へ送られた供物の娘だった女を頭から丸呑みにする。

 暴れることすらなく、俺の腹に収まった彼女から煮詰めた蜂蜜よりも甘い味がじわじわと体に広がって、体の中で力がぐつぐつと暴れ回るような感覚に陥る。

 体が軋み、目の上の皮が突っ張る。人の姿になると映える角が生えたのだと見ていないにも拘わらず感じられた。

 薄氷を割るような音を立てて鱗が逆立っていく。

 目を開けば、目に映る世界は大きくぐにゃりと歪み、流転した。

 水底に落ちていくような感覚がしばらく続いていたが、それも止まり、蒸し暑い風が頬を撫でる。

 草と土の匂い。そして僅かに漂う人間と白粉の香り。

 体は白蛇本来の姿ではなく、人間に近い姿になっている。

 ……これは、あの夜だ。

 タキが供物として捧げられた夜。


蛇神へびがみ様! わたくし、貴方様に食べて頂くためにここへ参りました!」


 いつかのような溌剌とした声を聞いて目を開く。

 すると、そこには艶のある宵闇色の髪をした少女が張り付けたような完璧な笑みを浮かべて目の前に立っていた。

 俺と目が合うと、ハッと短く息を吐いた彼女は慌てたように跪き、三つ指を立てながら額を地面へ付けるように頭を下げる。


「顔を上げろ。ほら、手を貸せ」


 そう言いながら、俺は腰を降りて彼女へ手を差し伸べる。

 おもてを上げた彼女の喉から「ヒュ」という息を勢い良く吸ったような音が聞こえた。かと思うと、素早い動きで後退りをして、胸を両手で押さえている。


「供物の娘、あんたの願いを叶えてやる」


「わたくしの願いは、蛇神様に食べていただくことただ一つです」


 今思えば、こいつは食われることに執着しているばかりで、自分を食う代わりに村へ恵みをもたらしてくれなんて言わなかったなと気が付いておかしくなる。


「そりゃあ困る。俺は人間を喰わねえんだ」


「それは……こ、困ります」


 いつものようにとんちんかんなことを言わないこいつは新鮮だが、調子が狂う。

 ああ、本当に時が戻ったのか……と感慨深くなりながら俺はタキの手首を掴んで自分の方へ引き寄せる。


「だから……」


 こいつが、いつもみたいな妙に完璧な微笑みを浮かべないのはなんだか気分が良い。鳶色の澄んだ目を丸くして見開いて、小さな桜の花びらみたいな唇を僅かに開いているタキの肩に手を回した。


「食われたいって願い以外のあんたがやりたいことを見つけるまで、俺の屋敷で過ごせ」


「え……え?」


「背に乗れ」


 こいつはどうせ俺の姿にも臆さないはずだ。

 元の姿へ戻り、背を向けるが、予想通り足音は遠ざかって行かなかった。近付いて来た足音が止まると、ひたりと小さな掌が俺の体に触れる。

 尾を丸めて、体を持ち上げてやるとおずおずと体に登りはじめた。なんだか動きにくそうだなと思ってよく見ると、あいつが好む服よりも分厚く重そうな物を着ているのだなと気が付く。


「角を掴んでいろ」


 ようやく頭にまで登ってきたタキが、口答えもせずに角にしがみついた。食べてくれとやかましくないのはいいが、なんだか調子が狂うな。

 ぐいと頭を持ち上げて、体を伸ばすと体がふわりと浮いた。羽根もないのに妙な気持ちだなと内心思いながら、体をくねらせる。

 水の中を泳いでいるようだ。薄い雲の合間を縫いながら、俺は山の頂を目指す。


 こいつは「わたくしの本当の名を打ち明けられればよかった」と言っていたが、本当にそれでいいのだろうか。

 こいつに、俺のための人生ではなく、こいつ自身の人生を謳歌させてやればそれ以外の願いを叶えられるのだろうか。

 幸いにも、今の俺はこいつの願いを「食ってやる」こと以外、叶えられる力はありそうだ。


「蛇神様……その……空を泳いでも星は掴めないものなのですねぇ……」


「あまり身を乗り出すなよ。落ちると面倒だ」


「は、はい」


 彼女に呼ばれて、そういえばと気が付く。蛇と言えば蛇だが、を食らったことで俺は龍になった……のだろうと思う。

 だが、今さら龍神と呼ばれても据わりが悪い。どうすべきか思案しながら、俺は角から片手を離し、星へ手を伸ばす彼女に相槌を打つ。

 しっかりと角へ掴まり直したのを確認した俺は、速度を上げて屋敷へと戻った。


 背から降りた彼女はまだ戸惑いを隠しきれないでいるようだった。人に近い姿に変化してから、辺りを見回しているタキを見下ろす。

 目が合うと、小さく「あ」と声を漏らし、目を逸らされてしまう。

 いつものように笑って「食べる気になりましたか?」と聞いてくる方があしらいやすかったのかもしれないな……と、昔を懐かしみながら、最初に出会った時のように彼女の手首を掴んでそっと引いた。

 まるで子供のように素直に後をついてきたタキを床の間へ通し、座らせる。


「供物の娘、まずはあんたの名を聞こう」


 俺は、彼女にどう答えるのが正解なんだろうか。

 そのまま、唾棄ダキと呼びたくはない。しかし、聞き間違えた振りをすれば、彼女はずっと罪悪感に縛られた一生を送ってしまう。

 迷いながらも、間が持たないことに耐えかねて、俺は彼女へ名前を問い掛けた。

 びくりと肩を震わせた後、タキはあいつに似つかわしくない怯えの色が見える表情でこちらはゆっくりと視線を向ける。

 いや、俺がよく観ていなかっただけで、こいつは最初に出会った時、このような表情を浮かべていたのかもしれない。


「わたくしは……」


 唾を飲み込む音。躊躇うように伏せられた目。長い睫毛が揺れ、宵闇のような黒髪がさらりと肩に落ちる。


「唾棄……と申します」


 こちらに視線を向けないタキは、畳を眺めながら、桜の花のように小さく鮮やかな唇をゆっくりと動かした。そして、忌々しい言葉が彼女の口から告げられる。


「あんたは俺に捧げられた供物なんだよな?」


 こいつの本来の願い。上辺だけの願い……本当の名を告げるという目的は果たされたはずだ。だから、こいつが天命を迎えたときにもう一度やり直したくても、もう時を戻すことは出来ない……と思う。

 しおらしい態度なんてあんたには似合わない。こいつを、こんな風にしているのは、唾棄とかいうふざけた名のせいなのか?


「は、はい」


 苛立ちを僅かに覗かせれば、タキは体を縮こまらせてこちらを上目遣いで見つめてくる。俺の知っているタキと目の前にいる女は本当に同一人物なのか?

 俺が知っているのは、白無垢が破れることも気にせず塀をよじ登り、帰れという一言に毅然と「帰りません」と言ってのけた女だ。

 だが、今目の前にいる女は、帰れなんて言ったら泣きだしてしまいそうな雰囲気すら漂っている。


「……タキ」


「え」


「あんたの名だ。いいだろう? 蛇は、滝を遡り龍に成って空へ昇るんだ。俺のそばにいるのなら、唾棄なんて名はふさわしくない」


「その……蛇神様、わたくしは……」


 顔を上げたタキの目に、見覚えのある光が宿った気がした。鳶色の瞳をらんらんと輝かせながら丸く目を見開いたタキは、グイッと俺の方へ身を乗り出す。


「わたくしは……あなた様に食べて貰いたいのです! 名前をいただけたことはうれしいのですが」


 こいつの食べられたいという意思は、本当にどこから来ているんだ……。俺の知っているタキに戻ったような気がして、少し安心しながら、俺は呼び慣れた彼女の名を口にする。


「タキ」


「はい」


 背筋をしゃんと伸ばし、俺の顔を見つめるタキは、さきほどまでの陰鬱な雰囲気を感じさせない。たかが名前だと思っていたが、本当にあいつにとってのという名前は呪いのようなものだったらしい。

 名を読んだはいいが、こいつをどうすべきか少し思案をする。


「じゃあ、勝負をしようじゃないか。俺があんたを食べたくなるか、その前にあんたが食われる以外の願いを見つけられるか……」


 外にこいつを置いておけば、穴蔵で獣のように暮らすことはわかっている。それに、何度人里に返してもすぐに戻ってきてしまう。

 ならば、そばにちゃんと置いてやろうと思い直した。前回の俺は、あまりにもこいつを放置しすぎた。


「わかりました! わたくし、あなた様に食べていただけるように全力でがんばります」


 単純な女で助かる。俺が微笑んだ意味を取り違えたのか、タキはにこりと微笑み返すと腕まくりをしてこちらにちからこぶを見せつける。


「せいぜいがんばるがいい。では、お前が過ごす部屋を教えよう。こいつについていけ」


 髪の毛を一本だけぷつりと抜いてフッと息を吹きかける。ゆらゆらと青い火の玉がわらしの形になっていくのを見て、タキが小さく声を上げた。


「ゆっくり休め」


 俺の言葉に頭を下げたタキは、大人しく青い炎の童についていったようだ。遠ざかる足音を聞きながら俺は本来の姿に戻る。

 ぐるりと体を丸め、自分の胴に顎を乗せた。体の変化と言えば、本来の姿へ戻っても角が消えないくらいだが……体にみなぎっている力は以前までとは比べものにならないくらい強力になっているのが自分でもわかる。

 周囲のあやかしどもや神々が、俺の変化を嗅ぎつけてめんどうなことにならないといいが……。


「考えすぎだといいが……」


 目を閉じて、山の中に体を溶かすような感覚に陥りながら俺はまどろみに身を委ねた。

 猪の寝息、ヤマイヌたちの遠吠え、蛙の歌……小さな鬼やあやかしが宴をする様子、山々の自然俺の全てを抱きながら、俺はその中でも一際甘い匂いを放つタキへ視線を合わせる。

 ううんと小さく寝返りを打ったまま、スヤスヤと眠る彼女を朝日が昇るまでずっと山に溶かした意識の中で見つめていた。

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