壱周目結――供物
「おいタキ、今年はナスだけじゃなく、きゅうりもまともに実ったぞ」
修行中の僧が来て、わたくしの住まいに文句をつけてからすぐに、蛇神様はわたくしに自分の屋敷へ来るように命じた。
それから「一人で里へ出ると何かと面倒だ」とわたくしを連れて、人里へ降り、着物を見繕ってくれた。
髪を黒く変化させた蛇神様と隣り合って歩いていると、夫婦と間違えられることもあった。
滅相もないと否定しようとしたけれど「面倒だからそういうことにしておけ」と言ってくださった。
もう、自力では碌に動けないわたくしを縁側に座らせたまま、蛇神様は嬉しそうに実った野菜を片手に持ってこちらへやってくる。
本来の姿である大きな白蛇の姿を見せてくださった時も、怖くはなかった。
やっと食べていただけるのですか? と聞いたら、蛇の姿で表情が見えにくいはずなのにいつもの眉間に皺を寄せるあの顔をしているのだろうとわかって、思わずくすりと笑ってしまったこともある。
「タキ、ほら、見てくれ。お前の手を借りずとも、糠も美味く手入れできるようになったんだぞ」
いつからだろう。自慢の健康な体も思うように動かなくなって、それでも蛇神様はわたくしを食べてはくれなかった。
野菜を育てるお手伝いをしたり、人里で買い物をするときに便利だというお役目も果たせなくなってしまったわたくしは、いよいよ棄てられてしまうのかと思ったけれど、蛇神様はわたくしをお屋敷へ置き続けた。
唾棄という名前よりも、タキと呼ばれてからの方が長いというのに、わたくしはまだその名前に縛られている。
「蛇神様は、まだわたくしを食べてはくれないのです?」
「……タキ、お前は変わらないな」
昔みたいに眉を顰めることは知ったけれど、蛇神様は首を横に振って眉尻を下げて笑う。溜め息をついてから、そっと髪に触れて、それから再び畑へと戻っていく。
もう、本当はわかっている。
あのお方は、本当に人を食べるつもりなど無いのだ。
人間を食らうよりも、野菜を育てる方が好きだし、理由は知らないけれど漬物を食べることが大好きで、とても優しくて、わたくしのような者にでも暴力をふるったりはしない。
わたくしは……あの方にウソを吐き続ける唾棄すべき穢れた人間にも拘わらず……。
本当のことを言っても、あのお方は……蛇神様はきっと、わたくしを責めたりはしないのでしょう。
でも、だけれど……唾棄とあのお方の口からその名を聞くのはとても嫌だなと思ったのです。
目を細めながら、わたくしは農作業に精を出す変わった神様を見守ってそのまま目を閉じた。
「タキ、目を覚ませ。今朝も良い天気だぞ」
次に目を覚ました時、かろうじて上体を起せていた体は、いよいよ動かなくなった。
声のした方を見ると、出会った時と変わらない美しい姿の蛇神様がわたくしの顔を覗き込んでいる。
そっと抱き上げられて、縁側へやさしく下ろされる。
寝転んだまま顔を少し動かすと、北の空に三本の狼煙があがっているのが見えた。
覚えている。蛇神様へ供物を供える日が近付いて来た合図だってこと。
次の供物になる娘は……どんな子なのだろう。きっと、わたくしが出会うことはないのだろうけれど。
新しい供物の娘は、蛇神様に食べられないことを喜ぶのだろうか、悲しむのだろうか。
ああ、考えたくないな。わたくし以外が、蛇神様の近くにいるなんて。
「
きっと今日も断られてしまうのだろう。だって、蛇神様は人なんて食べたくないのだもの。知っているけれど、諦めきれずに願いを口にする。
だって、わたくしは、そのために生きることしか知らなかったから。自らの人生を唾棄すべき存在で、村の人からも親からも棄てられた存在だから。
「もう、おいしくはないでしょうけれど……」
蛇神様と出会ったときは、健康な体だけが取り柄だった。けれど、今のわたくしは痩せ細って、骨と皮ばかりだし、筋肉もすっかり落ちてしまった。
「蛇神様……ね、お願いですから」
何も答えてくれない蛇神様へ、もう一度願いを告げてみる。
このまま死んでしまうよりは、食べていただきたかった。そうすれば、ずっと蛇神様と一緒にいられるのに。
「タキ」
蛇神様が、いつもと違う神妙な表情でわたくしの偽りの名前を呼ぶ。タキ、タキ。そう、まるでわたくしが塵ではないような、綺麗な名前。
「お前を食べるよ」
信じられなくて、言葉がなかなか出てこない。
それと共に、わたくしのワガママを聞いていただけるなら……と隠し続けていたことを吐き出してしまいたい気持ちになった。
ずっときれいなものみたいな顔をして、大切な方を騙していたくないから。
「ああ、うれしい。さいごに、わたくし、謝りたいことがあります」
声が掠れる。喉が張り付きそうになる。
それでも、わたくしは、自分の本当の名を伝えるために口を開く。
「どうした? 食え、食えと毎日のように五月蠅くわめいたことを謝ってくれるのか?」
「いいえ、それは謝りません」
ふっと表情をやわらかくした蛇神様がわたくしの真っ白になったぱさついた髪をなでつける。
「強情なのはいつまで経っても変わらないのだな」
腕を伸ばして、蛇神様のつるりとした頬に触れると、そのまま手を重ねてそのまま彼は目を閉じる。
長くて透き通った睫毛が頬に影を落とし、ゆっくりと開かれた森色をした瞳に痩せこけた老婆が写っている。
こんなわたくしは美味しくないだろうなぁ……なんて考えながら、散漫になった思考を切り替える。
残された時間は多くないのだから。
「蛇神様……。わたくしの名前、本当は、
そう言った瞬間、穏やかだった蛇神様の表情が強ばったのがわかった。ああ、嘘吐きのわたくしに幻滅したのだろう。本当に悪いことをしてしまった。
けれど、どうか、聞いて欲しい。わたくしの感謝の言葉も。これはワガママでしかないのだけれど。
「たしか、棄てられるという意味の。あなたさまが、名を間違えて呼んでくれて、うれしかったのです」
蛇神様が、わたくしの手に重ねていた手を離す。
そのまま立ち去られたらどうしよう。そう思っていたけれど、蛇神様はただ黙って、わたくしの目尻を指で拭ってくれる。
それで、自分の目から涙が零れていることに気が付いた。
「供物のタキとしてこの生を終わらせること……ありがたく思います」
瞳孔は針の様に細いけれど、わたくしを見つめるその表情がとても優しくて、蛇神様がわたくしに対しては怒っていないことがわかる。
ああ、これが思い違いでないのなら、もしかして、わたくしを唾棄と名付けた人間に対して怒ってくれているのでしょうか。
それを聞く勇気は出ずに、わたくしは、蛇神様がわたくしの名を初めて間違えたときに話してくれた逸話を口にする。
「ねえ、あなた様、瀧を喰らった蛇は……龍になったりするのでしょうか」
「ああ、そうだな。もしも、龍になったら……お前をゴミだと名付けた村でも滅ぼしてやろうか」
「いけません。そんなことをしたら、あなた様が穢れてしまいます」
蓮の花びらみたいに艶やかで血色の良い唇に、そっと人差し指で触れると、蛇神様は驚いたように目を丸く見開き、それから困ったように眉尻を下げた。
「ああ、それでも……もっと早くあなた様にわたくしの本当の名を打ち明けられればよかった。ずっと騙していて申し訳ありませんでした」
わたくしの肩に手を回し、そっと抱き上げられると、蛇神様の麗しい御顔が近付いてくる。
甘い花のような香りが強くなると共に、体の力が徐々に失せていくような気がした。
わたくしが着物に手をかけると、蛇神様はわたくしを寝かせて少し離れる。
それから、白い肌に鱗が浮き上がり、漆黒の角が小さくなり、蛇神様が本来の大蛇の姿へと姿を変えていく。
「その願い、叶えてやろう」
どの願いだろうか?
そう思った時にはもう彼の大きな大きな口が目の前に広がっていた。
「ありがとうございます」
わたくしの声は届いたのでしょうか。
食べていただけただけで、満足なのに……。
不思議と痛みはなかった。心地よい締め付けと温かさを感じながら、わたくしは愛しい方に包まれる幸福に身を委ねて目を閉じた。
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