壱周目序―瀧
人の声が聞こえる。たくさんの足音と、ざわざわとした少し人が遠巻きに騒いでいるような声。
温かい太陽の光で、もう朝なのだと気が付く。
地面はよくならされていて、僅かに硬い。土と草の匂いではなく、人里の匂いがする。
慌てて目を開くと、わたくしを遠巻きに見ている数人が驚いたように身じろぎをした。間を空けずに、いかにも人が良さそうなご婦人がこちらへ駆け寄ってくる。
「起きたのね。あんた、川辺に倒れていたのよ」
蛇神様は、わたくしを見捨てたのだろうか。
それとも、戻ってこれるかという試練をわたくしに課したのでしょうか。
もう一度戻れば、わたくしを今度こそ食べてくれるのだろうか。
「大丈夫かい?」
「あの……! あの、わたくし、蛇神様に食べていただくために……」
「あらあら……可哀想に。蛇神様は知っているけれどあの神様は人を喰らうようなおそろしいい神様じゃあないよ。誰かに騙されたのかい?」
わたくしが目を覚ますと、近くでざわついていた人達がこちらへ歩み寄ってきて声をかけてくれる。
哀れむような視線。でも、敵意や害意は感じない。
おそらく、本当にわたくしを可哀想だと思っているのだろうと言うことはわかった。
「ち、ちがいます」
蛇神様は人を食べない。
そんな言葉を聞いて恐ろしくなる。
それが本当なら、わたくしはなんのために生きてきたのだろう。
わたくしは、なんのためにひとりぼっちでいなければならなかったのだろう。
わたくしは、どうやって、村のみなさんへ恩返しをすればいいのだろう。
「あんた、事情があるのかい? ここはなんにもない村だけれど落ち着くまでここにいたっていいんだよ」
よたよたと近付いて来たのは、腰が曲がった老婆だった。穏やかな表情を浮かべている彼女は使い古されているが、手入れがされた柿色の着物を身につけている。
しゃがんでわたくしの手を握ってくれた老婆が、にっこりと微笑んでくれる。
「いえ、あの……わたくし、行くところがありますから……」
「おや、そうかい。場所は?」
どうすれば蛇神様のお屋敷へ戻れるか、少し思案する。おそらく、この村の人達も蛇神様の存在は知っているのだろう。もしかして、あのお屋敷がある場所も知っているのかもしれない。
そうじゃなくても、蛇神様にまつわる場所くらいは……知っているのではないか。
怪しまれないように、邪魔をされないように慎重に言葉を選ぶ。
「あの、道を教えてくれませんか? 蛇神様を祀っている御山は……」
「あんた、蛇神様に食べて貰うってのはやめときな。あの神様は血を嫌うんだ」
血を嫌う? そんなわけがない。
でも、わたくしたちを遠巻きに見ている村人たちは、その言葉に頷くばかりだ。
わたくしが知っている蛇神様とは違う神様なのだろうか。でも、別の神様だったとして、もし出会えればわたくしの蛇神様の元へ連れて行ってくれるかもしれない。
「ち、ちがいます。その……仕えるべき主人が……蛇神様が住む御山の近くにいるのですが、迷ってしまい……。先ほどは夢を見ていて、混乱していて……あの」
「ああ、そうかい。すまないねぇ。おばばは心配しいなんだよ」
老婆は柔らかく微笑んで、遠くに見える岩山を指差した。
周りの山々よりも一際高い岩の山。遠目から見てもごつごつとした岩に囲まれていてあのてっぺんにあんな大きなお屋敷があるとは信じられない。
でも、あそこへ向かうしかない。
「蛇神様の御山はほら、あの小さな山を二つ越えた先の
「ありがとうございます」
立ち上がってわたくしは老婆に頭を下げる。それから、わたくしたちを遠巻きに見ていた村人たちにも頭を下げて、老婆が指差した山へと向かう。
声をかけてくれる人もいたが、わたくしはその申し出の全てを断った。草履を譲ってくれるという人、牛に乗せようかと申し出てくれる人、干した魚や野菜をくれようとする人……全部断って、わたくしは人目から逃れるように森の奥へ奥へと歩を進めた。
十日はかかると、あの老婆は言っていた。
そう……普通の人間ならば、きっとそうなのでしょう。
でも、残念ながら、わたくしは忌み児なのだ。女のくせに怪力で、傷だって人よりも早く治る。
大嵐が来た日、ぺしゃんこになった家の上に乗っていた大木を持ち上げたわたくしを、村のみんなは気味悪がった。
村を襲った小鬼たちから牛を守った日、傷だらけになったことを村長様に叱られた。でも、その傷が半日もすれば治った時に、村長様はわたくしを小鬼でも見る時のように気味悪そうな視線を向けていたのも知っている。
「唾棄すべき子供……気味の悪い子……それがわたくしなので、棄てられることには慣れています」
こぼれてきそうな涙をぐいと腕で拭って前を向く。
わたくしの人生を終わらせてくれる蛇神様。あなた様にだけは、棄てられては困るのです。
地面を力一杯踏みしめる。うまれてはじめて、全力で走る。
獣たちしかきっとわたくしを見ていない。
森の木々や鳥や虫はわたくしを気味悪がったりしない。
あやかしたちも、きっと今はわたくしを見逃してくれるのでしょう。きっと、おそらく。
蛇神様に担がれていたときみたいに、景色がびゅんびゅんと流れていく。息が少しだけ切れる。
でも、つらくなかった。きっと、蛇神様の元へ戻れば、あの方はわたくしを今度こそたべてくださる。
それだけを望みにしてがむしゃらに老婆が指差した御山へ向かった。
「蛇神様! 蛇神様! わたくし、貴方様に食べて頂きたいのです」
地面も白い塀も山の木々も燃えるように赤く染まっている中、門の扉を手で叩くと不思議そうな表情を浮かべた蛇神様がわたくしを出迎えてくれた。
「……どうやって戻ってきた」
しばし間を空けてから、蛇神様がそう尋ねてくるので、わたくしは自分の膝小僧を叩いてみせる。
「もちろん、わたくしの足で走って参りました。この健康な四肢、見てください! きっと食べたらひきしまって美味しいと思います」
「……帰れ」
「嫌です。帰る場所などありませぬ」
背中を向けようとする蛇神様の腕をわたくしは手で掴む。
不敬かも知れない。けれど、それはそれで怒った蛇神様がわたくしを食べてくれるのではないかなんて期待を少しはしていた。
なのに、蛇神様は怒ったりせずに呆れた様に溜め息を吐くだけだった。これが村長様だったら折檻の一つや二つはするのだけれど。
蛇神様は、村長様が言っていたよりもずいぶんと優しい方らしい。それとも、わたくしは怒る価値もないということなのだろうか。
「ああ、そりゃあそうか。ったく」
長く白くて骨張った指が、さらさらと額に落ちた髪をかきあげる。そんな所作のひとつひとつまで蛇神様は美しい。
「人間の娘、あんたの名は?」
腕組みをしてわたくしを見下ろした蛇神様は、眉間に皺を寄せたまま口を開いた。
そんなことを聞かれると思っていなかったわたくしは、思わず息を止める。
唾棄。
棄てられた子。棄てられるべき子供。忌々しい棄てたくなるような気味の悪い子供。
そんな事実を、口にすればいいだけなのに、まるで喉がはりついてしまったみたいに声が出ない。
「唾……棄……で……ございます」
急に自分の名前が、自分のありようが嫌になって思わず顔を伏せる。蛇神様は、もしかして、わたくしが唾棄すべき存在だと見抜いて、食べてくださらなかったのだろうか。
そんな名で、そんな存在で、俺に食べて貰おうなんて思い上がるなと、そうおっしゃるつもりなのだろうか。
ねばっこい汗が背中を伝って落ちていく。胸が痛くて、蛇神様の息を吸う音が耳に刺さるみたいに聞こえる。
自分の価値がないことを宣言する言葉を待つ間は、まるでなにかの刑罰のようだと思った。
「タキ……蛇に捧げる娘の名にしちゃあ洒落がきいているが」
「は、はい?」
そうではない。そうではないのだけれど、安堵してしまった。
わたくしが唾棄すべき存在ではない。そう蛇神様が言ってくれた気がして、気のせいなのはわかっているけれど、ただの聞き間違いだとわかっているけれど愚かなわたくしは、救われてしまったのだ。
「なんだ知らねえのか。蛇は瀧を使って天に昇り龍になる。そう言う伝説があるんだとさ」
ふっと口の端を持ち上げて笑った蛇神様の御顔は、その場にぱっと花が咲いたように艶やかで思わず見とれてしまう。
「タキ、あんたは本当に変わり者だってことだけはわかった。これだけは持っておけ」
そう言って放り投げたものを両手で受け取る。
手を開いて蛇神様がわたくしへ投げた物を見てみると、それは普通の蛇と比べたら何倍も大きな一枚の鱗だった。
白銀の鱗はなんだか甘い匂いがしていて、日がすっかり暮れた夜の森でうっすらとした光を放っている。
「あの……」
声をかけようとしたときには、もう蛇神様は見えなくなっていた。
昨晩みたいに、わかりやすい場所で眠っていたら、知らない間にまた人里へ連れて行かれるかもしれない。それに、獣やあやかしに食われてしまっては元も子もない。わたくしの体は獣の餌でも、見ず知らずのあやかしの餌でもない。この体は、蛇神様に食べていただくために、他の村人たちのご飯よりも良い物を食べて育てて貰ったのだ。
安全そうな場所を見つけるために歩き回っていると、ちょうどいい穴蔵があった。中を探ってみたけれど、幸いなことに獣もあやかしもいないようだ。捨てられた巣だろうか。
雨風がしのげるし、ここからなら蛇神様の屋敷へも通いやすいだろう。
適当な葉っぱをかき集めて地面に敷き詰める。
夜は少し冷えるが、体を丸めれば問題が無い。
一日中走り回ったからか、今日も眠気がひどい。蛇神様からいただいた鱗をぎゅっと握りながら、わたくしは微睡みに身を任せて目を閉じた。
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