廻れば棄児も神なれど

こむらさき

唾棄の章

壱周目序ー棄て児

「ダキ、逃げるんじゃないぞ。蛇神様に召し上がっていただくためにオラたちは自分の飯を我慢してでもお前にたぁんと飯を食わせて育てたんだからな」


「村長さま、わかっていますとも。わたくしは蛇神様のために生きて、死ぬ存在。親のいないわたくしを育ててくれた村のみなさまへやっと恩返しを出来るのです。逃げたりなんてするはずがございません」


 逃げたって、どこにも居場所はないじゃないですか……とも、やっとわたくしの人生をお終いに出来てうれしいとも言えず、わたくしはただ、教えられたように微笑みを浮かべる。

 微笑み以外を浮かべてはいけない。蛇神様は尊いお方だから、無礼な真似などすれば村が滅びてしまう。

 ひとりぼっちで、ずっと生きてきた。母様はわたくしを村に捨てて去り、父様もいない。怪力が取り柄の忌み子であるわたくしを村長様はひきとってくれて、育ててくれたのだ。

 粗末とはいえ、雨風を凌げる小屋へ住まわせて頂き、言葉と礼儀を教わり、食事も他の村人よりもたくさん与えて頂いた。

 だから、だから、この日がうれしかった。村長さまや村の男達が何故わたくしが逃げることを心配するのかすら、わからないでいた。


「お迎えが来るはずだ。決して……決して逃げるでないぞ」


 それだけ言い残して、村長さまと輿を担いできた男衆たちはわたくしに背を向けて去っていった。

 白無垢と呼ばれる今まで生きてきた中で一等良い服を着付けてもらったわたくしは、蛇神様が住むという御山の麓にある黒塗りの鳥居の下に一人佇む。

 しん……と静まりかえって物音一つ聞こえない。僅かに差していた陽の光はすっかりと消え失せ、獣や鳥の鳴き声も聞こえてこない。

 蛇神様に召し上がっていただく前に、獣などに食われやしないかだけ心配だった。何故なら、いつもの身軽な服ではなく、帯をキツく締められた正装だからだ。身を守るために服を乱したりなんてすれば、生娘でないと疑われてしまうだろうか……。村長様が、蛇神様に捧げるのは生娘でなければならないとおっしゃっていたから。


 しばし、思案をしていると、山の上方からずずずと何かを引きずるような音が近付いて来た。

 少しだけ間が空いて、背のスラリと高い人影が目に入る。

 人間離れした整った見た目を目の当たりにして息を呑む。

 陽が落ちて月の光すら届かない山間でも仄かに光るような真っ白い肌、そして山々の緑を閉じ込めたような深い緑色の瞳。それに、こめかみから真っ直ぐに天へ伸びている漆黒の角……。それに、つららで糸を紡いだらこうなるだろうと思えるような白銀の髪は、綺麗な簪で後ろにまとめられている。

 わたくしの生を終わらせてくださる尊い神様は、醜くともかまわなかったが、とてもとても美しい方だった。


蛇神へびがみ様……、わたくし、貴方様に食べて頂くためにここへ参りました!」


 笑顔でいるように努めていたが、直視するのは不敬だと村長むらおさ様から言われていたのを思い出し、すぐに地面に額を付けて蛇神様へ挨拶をする。


「顔をあげろ」


 冷たい声。それに、なんだかがっかりしたような呆れたような声色で、蛇神様はわたくしにそう言葉をかける。

 顔を上げると、蛇神様の美しいお顔が近くにあって、思わず息を呑む。

 なんということか、彼のお方は腰を折り、わたくしに手を差し伸べてくれていたのだ。

 ヒュッと息を飲む。それから、慌てて後ろへ飛び退いた。


「……あ、申し訳ございません。その……美しい御目にわたくしのような穢らわしい姿を写すと思うと居た堪れなく……」


 彼が眉間に皺を寄せるたのが見えたので、自分が無礼なことをしたと気が付いて、ふたたび地面に顔を伏せ、三つ指を突いて謝罪をする。


「まあ、いい。立て。俺はお前を喰うつもりはない。近くの人里へ逃がしてやろう」


「え」


 思わず顔を上げて、麗しい御顔が目に入り、怯みそうになる。

 でも、そうではない。

 彼は……蛇神様は、わたくしを食べないとおっしゃった。


「困ります! 貴方様に食べていただくためにここまで生きてきたというのに」


「……お前の村からは離れたところへ連れて行ってやる。心配をするな」


 そういうと、蛇神様はわたくしをひょいと米俵でも担ぐように肩へ担ぎ上げた。


「そういうわけではなく……」


 蛇神様から、春に咲く花のように甘い香りがふわりと漂ったかと思うと、地面を軽く蹴る。それと同時に、今までいた鳥居が遙か下に見えるほど高くわたくしたちは空を飛んだ。

 舌を噛みそうになり口を噤みながら、わたくしは涼しい表情を浮かべている蛇神様の御顔を盗み見た。

 つるりとした透き通るように白い肌は、まるで茹でた玉子の白身みたいに綺麗な上に、ひそめられた柳眉と固く結ばれた薄い唇が醸し出す憂いの表情は思わず息を呑むほど美しい。

 なぜ、食べてくれないのだろう。

 わたくしは、貴方様に食べて貰いたいと言っているのに。

 蛇神様は、こちらを見もせずに木々の枝を跳び越えてどこかへ向かっているみたいだった。びゅんびゅんと流れるように過ぎていく山々の景色を見ていると、月の光りできらきらと蛇神様の銀色の御髪が仄かに光る。


 蛇神様が降り立ったのは、お寺のように大きな門構えの内側。小さな畑と井戸のあるお庭の中だった。目の前には縁側が備え付けられている立派なお屋敷が建っている。村長様のおうちよりもずっとずっと大きい。


「……夜に娘を放り出すのは気が引ける。今夜は俺の屋敷で好きに休め」


 すとんと地面に優しくわたくしを下ろした蛇神様はそう言って屋敷の中へ入っていこうとする。

 無礼になるのを承知で、わたくしは彼の浅葱色に染められた着物の裾を思わず掴んだ。

 グイと引っ張ると、蛇神様は足を止め、そしてゆっくりと振り返る。


「そんな必要はありません! わたくしを今すぐ食べていただかないと」


 蛇神様の眉間に皺が寄る。澄んだ深緑色の瞳を割くように縦長の瞳孔がキュッと細くなったのがわかった。けれど、わたくしは息を呑んで、そのまま一歩前へ踏み出した。


「だから、俺は」


 そうだ。蛇神様は、こんなに無礼なことをしてもわたくしを殺さないくらい優しい方なのだ。

 優しい方が、人間のように口汚くわたくしを貶すわけがない。だから、きっと食べるのが嫌いなのではない。

 そうに決まっている。だって蛇神様は、人を食べる。ずっと、村から供物を捧げられてきた。

 わかってしまった。わたくしは……。


「わかりました」


 蛇神様の着物はとても柔らかいけれど、表面はどこか冷たい。でもサラサラしていて心地よい。

 あんぐりと開いている赤い口の中。僅かに見える尖った犬歯を見つめながら、わたくしは蛇神様の思っている本心を自分の口で告げる。


「蛇神様はお優しいので至らぬわたくしめに食べる価値すらないことを直接おっしゃってくれないのですね!」


 蛇神様が何か言おうとしたのを遮って、わたくしは笑顔であるように努めながらこう述べた。


「わたくし、もっと美味しく食べる価値のある供物として努力いたします!」


 しばらく訝しげな表情を浮かべていた蛇神様だったが、何も言わずにわたくしに背を向けて、屋敷の中へ入っていく。

 きっと、言葉ばかりではなくきちんと食べる価値のある娘になれという無言の答えだと解釈したわたくしは、蛇神様の背中へ深く頭を下げた。

 さっきは屋敷へ入れと言われたけれど、きっとそれに甘えるような耐えしょうの無い娘ならば、供物の資格無しとされて人里へ放たれてしまうのだろう。

 それは困る。

 ぐるりと屋敷を囲っている塀は、少しがんばれば乗り越えられる。ビリリと布が破ける音が聞こえたけれど、気にせず塀を登り、屋敷の外へ出た。

 朝一番に屋敷へ行って、蛇神様に食べてくださるようにお願いをしよう。適当な木の根元に座って胸の前で手を合わせる。


「きっと、きっと食べていただきます」


 自分に言い聞かせるように口に出して呟いてから、木の根元で体を丸めた。

 慣れない服を着ていたし、ずっと憧れていた蛇神様に出会って気疲れしていたのだと思う。

 あっというまに体は重たくなり、まぶたも開けていられなくなる。土と草の匂いに包まれながら、わたくしは眠ることにした。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る