17 二河原のナポレオン



「どういうことだったの?」

 帰りのバスで僕に尋ねたのは、友人の桶田である。

 彼の傍にはすっかり打ち解けた様子の瀬成や杉江、流川もいて、僕たちは揃ってバスの後部座席におさまっていた。

 前の座席にいた染屋も振り返る。

 いつのまにか合流していた安藤が意味深にくすくすと笑い、すでに眠っている城之は声すら聞こえていないだろう。

 南方についている伊達と坂下の姿はない。

 後半のバスはひとけも疎らで、歩き疲れた気だるい空気が車内には充満していた。

 僕は咳払いをして、部外者である友人にもわかるようにあらましを伝える。

「実はお昼を食べているときに、馬場先輩から追加の連絡が届いていたんだよ」

 彼がメッセージを送ってきたのは、先日、南方が呼びかけに使用した図書局全員のものではなく、副局長である彼が管理しているグループページだった。

 そこは、南方に伝えることができない内容を語るための、ちょっとした根回し用である。

 参加者には司書教諭の平森もいるため、よってたかって南方をいじめているわけではないことは保障してくれるだろう。万が一南方にバレた場合に備えて、何人かはダミーのあだ名で登録されている。しかし、何も局長を締め出すためにある場所ではない。

 むしろ馬場は、破天荒で問題を起こしやすい南方を守りたいのだ。そのために先回りしてフォローするのが、副局長の役目である。

 昨年からあるというグループチャットに僕が入れてもらえたのは、春先の体育祭のあとだった。

 まだ新入局員は誰も知らない。今回の耐久遠足一行でいうと、僕と城之、そして伊達のみが閲覧できるメッセージである。

「今回のエントリー問題に対しては、スティーヴンソンが明確な文章を残しているらしいんだ」

 馬場が発見したという文章は、メッセージ欄にそのまま貼り付けられている。ちなみに、三鷹や佐羽などの別行動中の局員も見ることができるが、彼らは持ち前のスルースキルで既読しかつけていない。

「スティーヴンソンって『宝島』の?」

「ああ。彼は生涯を通して旅を続けていた。その体験を交えた冒険物語はいまでも読み継がれている傑作ばかりだね」

「知ったかぶっちゃって」

「ともかく、彼が旅行記をまとめた『旅は驢馬をつれて』にこんな記述があるらしい」


『実際、この地は、狼たちのナポレオン・ボナパルトと呼ばれた、記憶に残る野獣の地だった。』


 スティーヴンソンは当時のイギリス紳士である。

 若いころに患った結核を療養するためあちこちを旅し、それらの経験がリアルで読むものの心を躍らせる冒険小説となった。

 そんな彼がジェヴォーダンを旅した際、世界が変わりつつあることへの落胆として残した一節だと馬場は教えてくれた。

 世間を騒がせた獣も、産業革命を経て科学が発展し、人々の生活が潤うにつれて、その脅威は失っていった。野生の獣に人間が勝てないことは変わりないが、ひとは頑丈な檻を作ることができた。月が昇るたびに姿を変える狼人間なんていないと証明され、吸血鬼やゾンビですら研究が進んで誰も信じなくなった。

 作家がみた風景は、狼を恐れて森林伐採されたあとのジェヴォーダンだったようだ。


 ジェヴォーダンの獣とは、狼界のナポレオン。

 つまり伝説や伝承にヒントはない。むしろ、問題はそのままの意味だったのである。

「ナポレオンを捕まえて共にゴールせよ。南方先輩を無事にゴールまで導いたら、僕たちは条件を満たしたことになる」

 だから、平森は僕たちに合格の判断を下したのだ。

 トラブルはあったが、毛布にくるまれて連行されていった南方にもう行方不明になる心配はないだろう。


「なんだ、そんな簡単なことだったの」

 瀬成が肩を落とす。

 隣に座る杉江が彼女を宥め、僕を振り返った。

「でも……、どうして南方先輩がゴールの条件だったのでしょう?」

「去年、先輩はゴールしていないからね」

 安藤に試験を押しつけようとした先輩たちに刃向かった南方は、自分たちだけでクリアして見せると息巻いた。結果、焦りもあったのか彼は地図を大幅に読み間違え、教師に保護されるまで山道を彷徨い続けていたらしい。

 巻き込まれた馬場と佐羽にとって、どんな経験だったのだろうか。安藤は、二人にとっても大事な存在のはずだ。彼を守ってくれた人間として南方に惚れ、以降、影ながら支え続けていることを考えると、つらいばかりではなかったのだと予想はできる。

 南方が変えていった図書局を、一番近くで見ていたのだ。その頃にできたという根回し用のグループは、改革にも大きく貢献していたのかもしれない。


 あとの話は、安藤が僕から引き継ぐ。

「暮林くんの目論みで、今年は調べないとわからないような課題を皆に出している。でも、難しすぎて登山道を長く歩く羽目になったら、また南方くんはゴールができないかもしれない。だから、鈴鹿くんが咄嗟にアドリブを効かせてくれたんだと思うよ」

 もしかすると、事前にエントリーした段階で、すべては仕組まれていたのかもしれない。

 平森の反応を聞いた安藤も太鼓判を押し、流川が微かに額を押さえる。

「結局、私たちはあの人に振りまわされてたんですね」

「僕は皆であれこれ話し合うのも新鮮で面白かったけれど」

「桶田も図書局に入ればいいのに。椿にも南方先輩にとっての馬場先輩みたいな人が必要じゃない?」

「瀬成さん、それってどういう意味で……」

 あれこれ言い合っていると、流川が肩をすくめた。

 彼女は、伝記や過去の文化を調べるのが好きらしい。彼女は南方のような存在感のある人間が組織で活躍するのには、優秀な凡人が必要なのだと独り言のように呟く。

「ナポレオンが率いるフランス軍が当時最強と思われていたのは、優秀な人材が揃っていたおかげといいます。坂下くんのような人が、ナポレオンの周りにもたくさんいらしたのでしょうね」

 彼のような人に振りまわされるのも、悪いことばかりではない。

 彼女はそう締めくくると、平森が褒美にくれたアイスを遠慮なく開けた。

「ナポレオン軍に関しては、時代もあると思うぜ。革命が起きて腐敗していた軍に即戦力が求められた。だからナポレオンや他の将軍ものし上がることができた」

「当時の身分階級のお話なら、私も把握しております」

「ああ、そうですか。すみれちゃんはお利口さんだなあ」

「ねえ。すみれと染屋先輩はどうして朝からぴりぴりしているの?」

 瀬成の疑問に答える者はいない。

 なんとなく沈黙が下り、先輩たちも前を向いた。いまばかりは船を漕ぐ城之が羨ましいくらいである。

「ところで……、どうして南方先輩は『二河原のナポレオン』と呼ばれているんですか」

 また、杉江が尋ねる。

 今度は皆が彼女に注目し、おずおずと口を開く。

「ライオンみたいだからじゃないの」

「ナポレオンのように縦横無尽だからかな?」

「そもそもナポレオンってなんでさくらんぼやパイの名前にもなっているの」

 思えば僕も、ナポレオンについて明確なイメージがあるわけではない。

 知らない人がいないほど有名な偉人なのに、皆が彼の功績すべてを認識しているわけではない。なんならぼんやりとしか知らず、そのまま疑問にも思わないまま生涯を終える人も多いのかも知れない。

 十九世紀のフランスに確かに存在した、唯一無二の存在。傾向としては大きくて突出した功績を残した者、型破りながら、皆を引っ張っていた者につけられることが多い称号に思える。

 その中には、深い意味がないものも多いようだ。大きくて広すぎるイメージが、いまでもあちこちで一人歩きしている。


 僕たちは、ナポレオンのことを何も知らないのかもしれない。だからこそ、彼に例えられる南方にも未知のものとして惹かれている。


「そういえば、南方くんに連絡がつかないみたいなんだけど」

 安藤が思い出したように振り返った。

 彼が手にしていた端末には、例の根回し用のグループが表示されている。馬場が何度か連絡をしているが、そもそも南方の携帯電話に電波が通じないらしい。

「もしかして、あのとき」

 桶田がはっとする。

 首を傾げる先輩たちに川に落ちたときの様子を語る彼は、やはり図書局向きの観察眼だ。

 僕たちは全員、南方がジャージに端末をしまい、その上で歩き出したのを知っている。つまり、彼が川に落ちた際も、その端末は彼と共に冷たい雪解け水に落下したのだ。

「……水没した携帯って、ドライヤーで復活するって言いますよね」

「いや、不可能だろ。こないだメーカーが推奨してないと名言していた」

「染屋先輩は私が情報収集もできない小娘だとお思いのようですね」

「だからなんで……」

 子守歌のように聞こえてくる止めどない会話が、僕を包む。

 ふいに襲ってきた眠気は、安堵のようなものだったのかもしれない。

 無事、仲間と共に歩き続けることができた。その先に待っていたのは単なる疲労で、美しい景色や十分な休息があったわけではない。すでに痛み始めている両足は、明日には使い物にならなくなるに違いない。

 それでも、歩き続けた。

 ナポレオンが大陸軍と名付けた組織がそうだったように、どんな隘路でも乗り越えたという充足感が、僕たちを満たす。


 限界を迎えて瞼をおろしたときに僕の耳に聞こえていたのは、仲間たちの楽しそうな笑い声だった。




 ◇◇




「コルシカ人は信用がならない」

 かつて闘いの天使に例えられた男の晩年は、悲惨なものだった。

 檻から出されたとき、男は術祖のようにそう繰り返していたようだ。

 報告が書かれたナポリ王からの手紙を、私はそっと握りつぶす。


 いまは、そんなことにかかずらっている場合ではない。

 私は蝋燭に近づけた手紙が黒ずんでいくのを眺めながら、また決意を堅くした。


 彼が進むときは三歩あとへ。

 必ずフランスを守るという決意は、いつだって私を正しくしてくれる。




2章 完



作中参考・引用


RAPP The Last Victor / Jean Rapp

Memorires du duc de Rovigo / M.Savary

Le Capitaine Richard / Alexandre Dumas

The Wolf and the Fox / Brothers Grimm

The Wolf and the Fox / Aesop

VOYAGE AVEC UN ÂNE DANS LES CÉVENNES / Robert-Louis Stevenson


サキ短編集 / サキ 中村能三訳


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それは不可能です、ナポレオン 伍月 鹿 @shika_novel

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