イン・ジ・エンド

ナツメ

雨とスパイスと砂漠

 ここで雨でも降ってくれたら完璧なのに、生憎と空はカンカン晴れで、おまけに気温は三十九度だ。くそったれ。

 ちいさく舌打ちした口の中は乾ききって、ねばねばしていた。それなのに、顔の毛穴という毛穴からは汗が吹き出して、輪郭をなぞったしずくは顎先から地に落ち染みを作る。

「ドラマチックなんてないよ」

 君はいつもそう言ってなぜだか嬉しそうな顔をする。たしかに今の僕は、ぜんぜんドラマチックなんかじゃない。汗だくで、Tシャツの脇のところが変色してるし、髪もぺたりと額や頬に貼りついている。場違いで、みっともなくて、全く絵にならない。

 しゃがみこんだ背をジリジリと太陽がいて、もう耐えられなくなった。

 僕は立ち上がった。



 思い出すと、あの日は雨が降っていた。それはただ鬱陶うっとうしくて、僕らのんだ雰囲気を一層陰気なものにしていたっけ。でも、それはそれでおあつらえ向きだったんだと今は思う。

「ドラマチックなんてないよ」と言う君はく日常を愛した。現実を愛した。を愛した。

 たぶん僕は元来ロマンチストで、例えば排水溝のぬめり取りとか、カレーのにおいが染み付いたタッパーとか、卵買おうと思ったら二軒目のスーパーのほうが値段が高くて悩んだ挙げ句一軒目に戻るとか、そういうみたいな、映画やドラマじゃ描写されないような日々のリアルなモジャモジャしたものを、どことなく恥ずかしいと思っていた。

 でも君は、そんなモジャモジャをこそ愛でた。だからはじめの頃僕は、君のことをとてもユニークだと思ったんだ。君と居れば、情けなくて隠したいような手垢のついた日々も途端に鮮やかに見えるような気がした。君の目を通して僕もまたを見つめ直そうとしていた。つぶさに見ればそこには、これまで見落としていたようなちいさな輝きがあって、それに気付いているのは世界中で君と僕だけなんだ、そんなふうに感じられるのが僕には、それはそれは心地よかった。

 つまり、こんなことを思っている時点で、やっぱり僕は根っからのロマンチストだったってこと。輝きのないくすんだ日々を直視するのではなく、条件をつけてにすることでしか日常に価値を見いだせなかったということ。僕は君と同じ視線を持ったわけじゃない、自分が持ち得ない視線だからこそ君のそれは特別で、だからこそ僕には意味があったってこと。

 はたして君は気付いていたんだろうか。僕にはわからなかった。君の態度よりも早く、僕の感覚が変わってしまった。特別がになるのは一瞬だ。人は慣れる生き物だから。

 あっという間に、生活のそこここにあったはずのちいさな輝きは失われた。排水口のぬめり取りはやっぱり惨めでやりたくないし、一軒目のスーパーに戻る時は店員さんに見られたら恥ずかしいと思った。僕の人生に、そんなシーンはあるべきじゃない。こんなはずじゃない。もちろん、僕も一応大人だし、高給取りでもないんだから、そういう営みを投げ出したりはしない。でも、それに甘んじていたくなかった。それを恥じないのは、感受性の鈍麻どんまだと思った。君の魅力だと思っていた部分が、君のだらしのない部分に見えてきた。「ドラマチックなんてないよ」というお決まりの台詞も、諦めた人間の言い訳のように聞こえてきた。

 そうして、僕と君の間の空気は、停滞し、にごって、腐り始めたんだ。


 その日はカレーだった。二日目のカレー。市販のルーの、玉ねぎと人参と豚肉の入った、なんの変哲もない、特に昨日より美味しかったりもしないカレー。

 ラップにくるんで冷凍していたから変に四角いご飯に、レンチンしたそのカレーがかかっている。カレーの入っていたタッパーは、チンした時に少し変質したらしい。内側がざらついて、そこにカレーの色がこびりついている。洗ってもきっと取れないだろう。ついでに、においも。まあ、すでにカレーくさいタッパーだったから良いっちゃ良いんだけど。

 僕は辟易へきえきしていた。げんなりしていた。かわいいと思って君に買ったはずのアンバーのデュラレックスまで、なんだか古くさくてダサく見えた。

 もうこの頃は、あんまり会話がなかったと思う。そう考えると、やっぱり君も気付いてたんだろう。気付いていることにすら気付けないほどに、僕は君への興味を失っていたのか。

、取ってくれる?」

 と君が言ったのは覚えている。僕はダイニングテーブルに置きっぱなしの小さなボトルを君に手渡す。

 それは、本当は五香粉ごこうふんというスパイスだったのだけど、僕らの中ではと呼ばれていた。なにかの会話の流れで、「とはいえ、五香粉かけておこうか」みたいなフレーズが出て、「とはいえのスパイス」とか呼んでいたのが、最終的にだけになったんだと思う。

 そういう、家族とか恋人の間でしか通用しない符丁ふちょうみたいなやつも、最初のうちはすごく気に入っていたはずなのに。なんだかそれも所帯染みているというか、とにかく全部が嫌になっていたんだ、僕は。

「……ね」

 ボトルを受け取った君がありがとうの「あ」を発するコンマ一秒前に、僕はそう言った。ため息まじりに、間違いを訂正するように、言った。

 きっとそれが、終わりの合図だった。

 君は黙っていた。窓の外からさーさーと雨音がしていた。部屋の中の重く湿った空気が、一層どんよりする気がした。君はボトルの蓋を開けることなくテーブルに置いた。

 その時はもう逃げ出したいくらい嫌だったけど、今思えば、ああなんてなワンシーンだろうな。

 あれが僕らにとっての最後の瞬間で、しかもあの日の雨が世界にとっての最後の雨だったなんて、出来すぎなくらいだ。



 もうほとんど終わりかけてた僕らだったから、最後はあっさりしたもんだった。完全に一緒に住んでたわけでもなかったし、それぞれの部屋に戻って、それだけ。

 ひとりになったって生活は続くけど、を隠すことはできる。リアルのモジャモジャした部分から目を逸らして、キラキラした美しいものだけを見て生きていこうと思ったんだけど、そう上手くはいかなかった。

 だって、僕らだけじゃなく、世界の方も終わりかけてるだなんて思ってもみないじゃないか。

 そのことがわかってきたのは、あの日からひと月半くらいあとだっただろうか。

 本当はもう少し前からニュースとかでは取り上げられてたらしいけど、テレビなんかろくに見ないし、ただSNSとかでやたら節水の呼びかけを見るなぁとは思っていた。

 でも、天気の良い日が続くのは嬉しいし、こういうときのためにダムで貯水しているんだろうし、第一もうすぐ梅雨なんだから、雨なんて嫌でも降るだろうって僕はまだまだ楽観視していた。

 間抜けな僕は、それから更にひと月が経って、七月になっても一向に梅雨入りせず、計画断水が始まったころ、ようやく本当に大変な事になっているんだと気付いた。

 日本だけじゃなくて、世界中どこにも雨が降らなくなっていた。

 海の向こうでは戦争が始まっているらしかった。国内でもデモが行われていたが、何に対するデモなのか僕にはよくわからなかった。

 一人暮らしだし、制限されているとはいえ水道は出るし、ペットボトルと湯船に溜めておけば生活はどうにかなったけど、不安だった。

 断水の時間は伸びて、やがて給水車が回ってくるようになった。川の方や海の方に移住する人が増えているらしい。消防車に積む水がなくて火事が延焼した。手術が出来なくて人が死んだ。毎日毎日そんなニュースばかりで、僕はアパートの部屋でひとり小さくなって、ただこの事態が収束することを祈っていた。


 そうして一年が過ぎた頃、ついに人が干からびて死んだ。らしかった。

 僕が住む東京では、一応まだちゃんと給水はされていた。量はたしかにどんどん減っていたけど、少なくとも最低限の飲み水は確保されていた。

 だからその話が本当かどうかはわからない。もしかしたらデマかもしれないけど、ただその話を聞いたときのショックは、ものすごくリアルだった。

 だって、このまま行けば、いずれ僕ら全員そうなる運命じゃないか。

 ――死ぬかもしれない。

 そう実感した瞬間、僕はなぜだか、君のことを思い出していた。

 あの日別れてから一週間くらいは多少引きずっていたけど、それ以降君のことなんて一度も考えたことがなかったのに。

 すぐにLINEを送ってみたけど、既読はつかなかった。単に読んでいないのか、ブロックされているのかわからない。

 僕はいてもたってもいられなくなった。どうせ死ぬなら、という言葉が頭の中を駆け巡る。

 どうせ死ぬなら、君に会ってから死にたい。

 そう思った。



 世界がこうなってから、初めて東京の外に出た。噂には聞いていたけど、内陸の方は、本当に砂漠になっていた。

 本来、こんなに早く土地が枯れることはないのだという。でもそれは、世界のどこかでは雨が降っている場合の話だ。いまや地球の空気はどこも乾燥しきって、土や木の水分を容赦なく奪っていくらしい。野原や山から砂に変わって、それが吹き流れてくるものだから、君の故郷の土地はもう人が住めるようには見えなかった。田舎とは聞いていたけど、本当に田畑に囲まれた古い集落のような場所だったようで、もちろんその田んぼやなんかも乾ききっているし、木造家屋も白くなって崩れていた。

 数少ない共通の友人に連絡したら、一人だけ返信をくれた。僕と別れて程なく、君は田舎に帰ったと。砂漠化の話は聞いていたから、きっとそこにはもういないだろうと思ったけど、他になんの手がかりもなかった。

 死の可能性を肌で感じて、妙にテンションが上がってしまっていたんだろう。僕はバイクを駆って内陸部へ向かった。

 距離で言えばそう遠くもなく、当然渋滞もなく、道すら途中からあってないようなものだったから、四時間もかからずに到着した。グーグルマップを航空写真に切り替えるとそこは一面の緑なのに、実際の光景はどこも白茶けている。

 一応、目的地は君の実家の住所にしていた。画面上のピンの位置に近付いて、僕はバイクを止めた。ヘルメットを外すとこめかみからだらりと汗が垂れた。止まった途端に急激に暑さを感じる。湿度は低いが、その分日差しが日に日に強くなっている気がした。スマホで気温を確かめると、三十九度と表示されている。僕はメッシュのジャケットを脱いでシート下にしまった。本当は着たままの方が涼しいのかもしれないけど、吹き出した汗で袖がまとわりついて嫌だった。

 水のボトルを片手に、僕は歩き出す。あたりは一面砂だった。地図がずれているのか、それとも完全に倒壊したのか、家らしきものは見当たらない。バイクを走らせてきた舗装路だったと思われる道から、その脇に広がる砂地に一歩踏み出す。

 ず、と足が沈んだ。どこまでも乾いた感触だ。元は田んぼか何かだろうに、そこにたっぷりとたくわえていた水分は、全部どこかに消えてしまったのだろうか。

 ざくざくと砂を踏み締めて、あてもなく歩く。こんなところに人がいるわけない。それはわかっていた。単に引っ込みがつかなくなっていたのかもしれない。あるいは、探す行為そのものもが目的化していたのかも。

 死ぬかも、と思った時、僕はひさびさの感覚にとらわれた。

 非日常、ドラマチック、センチメンタル。そんなふうに呼ばれる感覚。

 思えば、世界が終わりに向かいはじめて、日常は消え去った。君の愛したような、些細な繰り返し、積み重ね、ゆるやかな変化、そういうものは姿を消して、非日常が日常になった。すべてが未知で、はじめての経験で、でも全然特別じゃない。生活のわずらわしさだけを引き継いだ新しい日常は、僕の感受性を摩耗まもうさせるのに充分だった。

 死という、人間の一生においてもっとも重大な出来事をしてようやく、ツルツルになった僕の感性は反応したようだ。

 どうせ死ぬなら、君に会ってから死にたい――なんて。ドラマチックの極みだ。生き物は死ぬ前に子孫を残そうとするなんていうけど、僕は死ぬ前に僕らしさを取り戻したかった。僕は徹頭徹尾ロマンチストで、ただこの天災に負けて、なるべく生命を引き伸ばした挙げ句何もしないで死ぬのは嫌だった。

 そう考えると、僕は君そのもののことはどうでも良かったのだろうか。ただ別れた恋人に会いに行くシチュエーションに酔っているだけなのか、と気付きたくないことを考え始めたころ、砂の中に四角いものが見えた。点々とあるそれは、どうも墓石はかいしのようだった。

 近付いてみると直方体の大きい墓石が二つと、墓標ぼひょうというのだろうか? 平べったい板状の石が一つ、砂に半分埋まるようにして、無残に転がっていた。

 まるで、枯れてしまったこの土地そのものをとむらっているみたいだと思った。

 僕は手にしていたボトルを開け、中の水を墓石にかけた。砂にまみれて真っ黄色だったのが、水の通った跡だけ黒々と光る。

 もう一つの墓石にもかけ、ほんの少しだけ残ったのを墓標の方にかけた。

 きらきらと光を反射しながら、まだ新しそうな彫刻の文字が現れる。

 意味より先に、その文字列が目に飛び込んで、僕は心臓を鷲掴わしづかみにされたような感覚に襲われる。

 よく見知った文字列だった。それは君の名前だった。

 倒れた墓標に覆いかぶさるようにして、両手で砂を払う。君の名前。去年の秋頃の日付。別れたときの君の年齢。知らない戒名かいみょう。それらが墓標の真ん中あたりに紛れもなく掘られていた。

 僕は、ただ呆然とするしかなかった。

 だって、君は健康で、まだまだ若かったじゃないか。自分の死はイメージしたけど未来のことだと思っていたし、君のそれなんて考えてもみなかった。

 予兆も伏線もなにもない。なぜ君が死んでしまったのか、理由もわからない。お墓に名前があるから、砂漠になる前にちゃんと弔われたってことだけは良かったと思うけど、逆に言えば、この災害とは全く無関係に死んだってことなのだろうか。

 あまりにあっけなくて、唐突で、悲しくなることさえ出来なかった。

 涙は出ないのに、汗だけはダラダラと流れ続けて、足元の砂を点々と湿らせている。

 せめて、雨が降っていてほしかったと思う。しばらくぶりに別れた恋人を訪ねたら相手は亡くなっていて、その墓を前にした男のシーンにはしとどに降る雨こそ相応ふさわしいだろう。それなら僕が泣けなくても、ちゃんと悲しいワンシーンになったのに。

 それなのに現実は、カンカン照りで、直射日光にジリジリ焼かれて、服に汗ジミまで作っている。愛した人の喪失を今まさに経験しているはずなのに、喉の乾きを感じ始めて、頭の片隅で墓に水をかけたことを後悔している。そんな自分にがっかりしている。リアルなモジャモジャはどこまでもついて回って、ドラマチックな人生なんて、本当にまったく上手くいかない。

 暑さと乾きに耐えきれずに僕は立ち上がった。とにかく、一旦バイクまで戻ろう。

 きびすを返すとき、「ドラマチックになんてしてあげないよ」と君が笑った気がした。

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