5

 ホームセンターで買ったスコップをそれぞれ抱えながら、僕らは山に向かって歩いていた。山登りに使われるような整備された山ではなく、もう暫く整備された形跡の見えない、誰かの私有地であろう山。

 空が橙色に染まるこの時間になると山の周辺の住宅街は眠りにつく準備を始め、ひっそりとした静寂を携える。僕らは自らの影を追うように、夕陽を背負いながらゆっくりと歩いた。それは、どういうかたちであれ訪れる終わりへの確かな歩みだった。

 ひぐらしの声が聞こえる。涼やかな、心地よい風が頬を撫でる。夏の果てる匂いがする。

 僕ら以外の世界は死んだのではないかと思うほど、周りには何の影も見えなかった。蝉の声と、歩く音だけが響いて、沈黙がやけに浮き彫りになる。ただ、僕はその空白を満たす適切な言葉を持っていなくて、静寂を涙のように携えた。

 ヘンゼルとグレーテルのように、零れ落した静寂の跡を追って、僕は帰るのかもしれない。その時、隣に彼女がいるかは未だ僕にも分からなかった。彼女を殺すのかどうか、僕はこの場に来ても決められていない。僕らの過ごした時間を、思い出を、積み木崩しのように壊すことが僕には耐えられない。

 僕は狂いそうなほどに彼女のことが好きになってしまった。だからこそ、殺すべきなのか。だからこそ、殺さないべきなのか。答えなんてないのかもしれないけれど、僕はずっとそれを考えている。

 住宅街を抜けて、山の入口が見える。入口なんて言えるほど大層なものではないけれど、分け入れば奥へと進めるような場所がぽっかりと空いている。

 僕らは言葉は交わさずに、山へと入って行く。肌を擦れる草葉がくすぐったくて、鬱陶しい。ひぐらしの声は一段と大きくなり、木々だけではなく音も僕らを囲んで周囲から僕らを隠そうとしてくれているようだった。

 先を行く彼女は変わらず制服を着ている。どうしてそこまで制服に拘るのかと思ったけれど、制服しか外に行くような服がないのかもしれないと、数日前にようやく気が付いた。

 僕は、僕なりに彼女がどうして死にたいのかを考え続けた。服の下の痣は誰にどうしてつけられたのか。いつも制服を着ているのは何故なのか。夏祭りに行ったことがないことや、溺れた過去、プールに参加出来なかった理由。そんな彼女の欠片を集めて、僕はそれなりの答えをパッチワークのように作り上げる。

 多分、正解ではないにしても、そう遠くない答えなんだと思う。ただ、答えを当てたところで、だからなんだという話だった。僕に出来ることなんてありやしない。子供一人に出来ることなんてたかが知れている。

 足下を見ると、蟻の群れが蝉の死骸を運んでいた。羽を千切られ、無残な姿をした蝉が、それでも運ばれ動いていく。そこに憐れみではなくグロテスクな嫌悪感を覚える自分に吐き気がして、僕は顔をあげて再び歩き始めた。

 どれくらい歩いたか、彼女がふと止まった。僕も倣うように足を止める。

 ぽっかりと空いた空間。人ひとり埋めるには十分なその場所で、彼女は振り返った。

「ここら辺にしよっか」

「……ああ、うん」

 そうして、僕らはスコップを持って穴を掘り始める。彼女のための墓を、作り始める。

     *****

「問題は私の死体の処理だと思うんだよね」と、三日前彼女は言った。

「私、君には感謝してるんだ。だから、捕まって欲しくなんかないし、それに出来る協力はしたい。それで、捕まらないために必要なのは、私の死体がまず見つからないことだと思うんだ」

「まあ、そうだろうな」

 日本の警察は優秀だという定型句は嫌と言うほど聞いたことがある。死体さえ見つかればあらゆる情報から僕に辿り着くのは、そう難しいことではないだろう。

「多分、一番良いのは山に埋めることだと思うんだよね。そりゃ、海のど真ん中に捨てられればそれが良いのかもしれないけど、船なんて用意出来ないし、そうなるとやっぱり埋めるのが一番だよ」

 僕には死体遺棄のことなんて分かるはずもなくて、多分彼女が言うならそうなんだろうと頷く。死体を遺棄するとすれば山というイメージが強いし、少なくとも大きく外れた答えではないだろう。

「でも、当然だけど山に死体を連れて行くなんて無理だよね。車があればそれで良いんだろうけど、免許持ってないでしょ?」

「そうだね」

 資格らしい資格なんていうのは高校生という身分と小学生の時に取った英検の四級くらいだ。自分の役に立たなさが嫌になる。

「だから、山で殺すべきだと思うんだ。一緒に穴を掘って、その中で私を殺して、そのまま埋める。その穴を君は埋めて、そのまま逃げれば多分バレないんじゃないかな」

 杜撰にも思えるその計画は、しかし単純であるがゆえに確かに気づかれにくいような気がした。そもそも、代替案なんて僕にはないのだ、彼女が案を出してくれるなら僕はそれに乗っかるしかない。

 ただ、ひとつだけ引っかかったことを、僕は聞いた。

「死ぬのは、山でいいの?」

 僕の問いに対して彼女はからりと笑った。

「死は死だよ。どんな場所でも、どんな死に方でも、それは変わらないから」

     *****

 穴を掘るという作業は、思いのほか時間と体力を食う作業だった。土にスコップを刺し、隣に掃ける。そんな代り映えのない単純な行為の繰り返しというのがまた精神的に辛かったのかもしれない。

 命みたいな、大切な何かが削れていくような感覚がする。終わりに向かう虚しさを、改めて噛み締める。

 例えば、何かを話すことが出来たなら良かったんだろう。死ぬとか、殺すとか、そういう複雑なことは抜きにして恋人らしく、くだらないことでも話せば良かったんだろう。でも、そんなことをしても傷を増やすだけで、僕らは物言わず、ただ穴を掘り続けた。

 空が藍色に染まる。微かな陽の光を木々が遮り、山の中は他の場所よりも一足先に夜に入る。それでも、僕らは掘り続ける。人ひとり埋める穴というのは、思っているよりも大きくなければならない。深さも大きさも、両方必要な穴は永遠に堀り終わらないんじゃないかとさえ思えてくる。

 手が痛くなってきた。皮でも剥けているだろうか。暗いので、掌を広げて見てもどうなっているかは分からない。じんじんとした痛みを無視して、僕は再びスコップを握る。

 明かりのひとつもつけずに僕らは掘り続けた。暗闇も慣れれば案外不便はしない。少なくとも、人を殺して埋めるくらいなら。

 蝉の声はいつの間にか止んでいて、代わりに蟋蟀こおろぎの声がまばらに聞こえ始める。シャツが貼りつくほど汗をかいた身体に夜風が擦れて、身体の芯がゾッと冷える。

 月が見えた。満月に限りなく近い、何かだった。僕らは穴を掘り終えた。

「結構疲れたね」と彼女が言った。カフェで雑談でもするような、なんてことのない口調。

 何を返しても醜い呻き声のようなものになってしまうそうで、僕は暗闇の中に浮かぶ彼女を見た。制服の白は見えれど、細かい表情まではハッキリとは見えない。だから、彼女が泣いているのか怒っているのか笑っているのかなんてことは分からなかった。

 彼女は穴の中に自らのスコップを捨てた。埋めるのは僕だけなわけだから、確かに彼女のスコップは既に要らない。証拠を消すためにも、彼女と一緒に埋めるべきだ。

 脳が焼ききれそうな痛みを覚えて、目をぎゅっと瞑る。走馬灯のように、夏の記憶が蘇る。

 何もかもが間違いの夏だった。振り返ればこんなことをしなければ良かったということばかりが思い浮かんで、叫びそうになる。壊しそうになる。

「殺させてくれ」

 僕はそう呟いた。

「今なら、殺せそうだから。殺すから」

 その行為が正しいのか間違っているのか、後悔はないのか、そんなことは分からない。ただ、今なら殺せるというそれだけだった。今を逃せば、殺せなくなるというだけだった。

 彼女は「うん」と言って穴の中に入った。僕も続いて、彼女に覆いかぶさるように穴の中に入る。

 そのまま、僕は何を言うでもなく彼女の首に手をかける。思えば、意識をして彼女の身体に触れたのは初めてかもしれない。僕らは、どちらが何を言ったわけでもなく潔癖な付き合いを続けていた。

 彼女の温度を身体に残すことが怖かったのかもしれない。掌に伝わるどくどくとした脈の感触を覚えながらそう思った。彼女が生きていることを改めて実感する。僕が殺すことを改めて確認する。息が苦しくなって、視界がちかちかする。舌を噛んで、なんとか正気を保とうとする。

 少し、手に力を入れる。ぐっ、と彼女の息を詰まらせる音を聞く。掌に走る生命の鼓動が、僕の倫理へ躊躇を呼びかける。

 僕はこれから恋した人を殺す。自らの手で恋を惨殺する。

 深く息を吐いた。倫理とか、後悔とか、躊躇とか、哀切とか、そういう要らない何もかもを一緒に吐き出すように、深く、息を吐きだす。

「なあ」

 僕の小さな呼びかけに、彼女は僕の方をじっと見た。月明かりが木々の隙間を縫って、彼女の表情を照らす。

「君は、僕のことが好きだったのか?」

 殺すことを条件に付き合いを始めただけで、最初から彼女は一度も僕に明確な好意を示したことはなかった。

 都合よく使われているかもしれない、なんてことは分かっている。それだからなんだと、何度も自分に言い聞かせてきた。

 それでも、最期に一回だけでも、本当の答えが聞きたかった。彼女が僕をどう思っているのか、それが知りたかった。

「好きだったよ、ずっと」

 彼女はそう言って笑った。

 僕は手に一気に力を込めて、彼女の首を絞める。

 彼女の表情を見るのが怖くて、目を瞑った。掌を伝う脈の感触が一気に強くなる。生に縋ろうとする身体の動きを抑えるように、しっかりと彼女を抑え込む。

 折れないように、けれど確実に殺せるように、僕は彼女の首を絞め続ける。神様に祈るために手を合わせるように、目に見えない何かを掴むように、僕は手に力を入れる。

 彼女の身体の動きが止まった。それでも、僕は力を入れ続けた。確実に殺せるように。生き埋めになんてならないように。終わりにするために。

 ざあ、と風が吹いて木々を揺らした。その音で、僕は正気の世界に引き戻された。

 自分の下に、動かなくなった彼女が在る。ただ死んだだけなのに、それは彼女ではなかった。それでも、不思議な美しさのようなものを感じて、惹かれるように見つめた。何もかもが誤って出来た、途方もない不正解の結果。だからこそ、美しいのかもしれない。

 僕は穴から這い出て、スコップを持った。そうして、穴を埋め始める。感傷を覚えないように感情を押し殺して、ただ黙々と機械的に手を動かす。

 数時間かけて掘った穴はものの数分で姿を失くした。残るのは寂寥感や虚脱感をないまぜにした名状のし難い何かだけで、僕は暫くぼうっとその土を眺めていた。

 何もかもなかったみたいだった。何もかもなかったことにしたかった。それでも過去は変わらなくて、僕は山を下る準備をする。恋した人を殺した場所なんて、長く居たい場所ではなかった。

 少し下ったところでスコップを放り捨てて、山を下る。行きの感覚が狂っていたのか、今の感覚が狂っているのか、延々と登ったように思えた道を僕は気づかないうちに下り終えていた。もうずっと山に居たような気がして、久しぶりに踏んだアスファルトの硬さでやけに安心する。

 駅に向かって、住宅街を歩く。時計を見ていないので分からないけれど、まだ電車は残っているだろうか。野宿だけは勘弁して欲しい。

 電車がなかったら、警察を呼ぶのもいいかもしれない。そんなことを思う。人を殺したと言えばすっ飛んできて、拘置所なりに入れてくれるだろう。そこでも良い、ともかく今日だけはベッドで眠りたかった。

 ふと、通りがかった家の先に向日葵が見えた。既に枯れてしなびたそれは月明かりに照らされて死体のように美しかった。

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夏とともに君は死ぬ。 しがない @Johnsmithee

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