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電車を乗り継いで来た海は、思いのほか綺麗ではなかった。人ごみを避けるために遊泳禁止の海岸に来たため、人工的なゴミが散乱しているというわけではなかったけれど、単純に海が濁っていたのだ。藻のような暗い緑色。透き通るような海緑のまるで反対の色をしている。一言でいうなら汚かった。
それに、潮風もきつい。扇風機の「強」くらいの強さの風が常に吹き付けているし、なにより潮の匂いが慣れない僕にとってはなかなか堪えがたいものだった。
夏の日差しは容赦なく肌を刺すし、いよいよ何もかもを投げ出して帰りたくなるところだったけれど、風に髪と制服をたなびかせる彼女が綺麗で、僕はなんだかんだ嫌な顔ひとつせずに海岸を歩いている。言うまでもなく、僕は彼女にめっぽう弱いのだ。
確か、海に来たいというのは彼女の要望だったはずだ。「どうですか、海は」と、太陽の光をきらきらと反射させた海面を眺める彼女に尋ねてみた。水平線ぎりぎりの海は陽の光で照ってその汚さを包み隠している。
「意外と何もない」
「そりゃまあ、海だから」
「なんでみんな好き好んでくるんだろ」
「泳ぎたいんじゃないのかなあ。もしくは、綺麗な風景が見たいとか」
「綺麗」
「もっと綺麗なところもあるんだよ。ほら、沖縄とか」
沖縄とか、沖縄とか。海のことなんてそれくらいしか知らない。彼女がいなければ、海に来ることなんて一生なかったかもしれない。そうして来る海がこんなとこで良かったのかよって話なんだけれど。
「綺麗な海って案外ないんだよ。日帰りで行ける場所プラス予算で考えると見つからなかったくらいには」
「ああ、いや、別に綺麗な海に行きたかったわけじゃないし大丈夫。私は、私の行ける果てを知りたかっただけだから」
急いで継いだような言い訳がましい言葉に、彼女は特に気にすることもないようなのんびりとした声で答えを返した。
果て。海を果てというのは面白いなと思った。
船が出来て、飛行機が出来て、往来が容易になって、インターネットを使うことで行ったことがなくても行った気になることも出来るようになって。僕らは世界に果てなんてないことを知っている。ただ、それは知っているだけで僕らが現実的に足を運べる果ては、確かに彼女の言う通り海なのかもしれない。あるいは、海を越えた先にある大陸というのは全てまやかしの情報にしか過ぎなくて、本当にここが果てかもしれない。馬鹿げた妄想だけれど、海の先に行ったことのない僕には否定できない話だった。
「私、水が好きじゃないんだ」
海を見ながらそう言った彼女の表情は、僕には見えなかった。
「昔溺れかけたことがあって、いや、あれは溺れたって言った方がいいのかな。ともかく、苦しくて、暗くて、そういうイメージがどうしても拭えないの。と言っても小学校入るか入らないかくらいのことだったんだけど、その後プールの授業も殆ど出られなかったから克服することも出来なくてさ」
プールの授業に殆ど出られなかった。その理由を、制服の下の痕と結びつけて穿って考えてしまうのは、僕が捻くれているだけなのか、事実なのか。
ふと、高校以前の彼女はどういう子供だったんだろうと思う。いつから、彼女は危うく痛い強さを身に着けたのだろうか。身に着けざるを得なくなったのだろうか。あどけない、無邪気な彼女の姿は、どうしても想像出来ない。そのくらい、彼女の脆さは染みついているものだった。
「でもさ、どうせ来たなら何もしないっていうのも損だよね」
「え? いや、ちょっ」
彼女は僕の戸惑いが落ちつくよりも先に靴下と靴を脱いで、海の方に駆けて行った。遊泳禁止の場所だって、浸かるくらいなら問題はない。彼女の足は瞬く間に寄せた波に沈んだ。
「気持ち悪う」
彼女は眉に皺を寄せながら笑った。海に対して持っていたきらきらとした幻想のようなものとは真逆の言葉に、僕は思わず噴き出してしまう。
「足浸けるだけでも無理なの?」
「冷たくはある。でも、なんかべたついてる感じがして気持ちいいとは思えないかな」
言葉だけではいまいちイメージが湧かなくて、僕も裸足になって彼女の方に近づく。海に来ることなんて、もうないだろうし、やってみてもいいだろう。
足に波がかかる。ひんやりとした感覚が足を撫でる。ただ、それは一瞬で蒸発してしまうような冷たさで身体に残るほどではない。引いていく波とともにその心地よい涼やかさは去って行く。
夏の終わりが近づいていたことを思い出す。暑さの峠は少し前に越えて、この波のように徐々に引いていっている。海の向こうに見える入道雲がやけに大きく見えて、嫌になる。いつだって夏は通り魔のように過ぎ去って行く。前触れもなく、傷をつけられて終わって行く。
時間も暑さに溶けるのだろうか。そんな馬鹿げたことを考えていたら、いつの間にか腰が浸かる辺りまで進んでいた。
「ねえってば」
鋭いその声とともに手首を掴まれて、反射的に振り返った。見たことがないような、張りつめた表情をした彼女が立っていた。
「死ぬ気?」
「まさか」
どうして彼女と海に来て、こんなに幸せなのに死ななければならないのかと思ったが、しかし、もしかしたら幸せだからこそ、死にたいと思い夢遊病者のようにここまで歩いたのかもしれない。不幸の中で死ぬよりも、ふっと幸福の中で死ねたら良い。だからこそ、人はたまに幸せな時に限って死にたくなる時がある。
ただ、冗談でも死にたかったと口に出すと今の彼女は本気で怒りそうで、「アメリカに行こうとしたんだよ」と嘯く。
「なにそれ」
「アメリカンドリームだよ。ゴールドラッシュさ」
自分でも酷いと思うくらい、僕には合わないおどけた調子。絞り出した冗談がアメリカンドリームとか、ゴールドラッシュとか、古いしつまらないし、自分のセンスのなさに失笑しそうになる。
ただ、その滑稽さがお気に召したのか、彼女は可笑しそうに笑った。僕も、その顔を見て釣られるように笑う。
声を出して笑った。僕らの声と、波の音だけが響く。波が唸って、胸のあたりまで濡れる。でも、それまでもがなんだか可笑しかった。楽しかった。本当にこのまま歩いて行ったらアメリカまで着いて、金を掘り当てられそうな気がした。
馬鹿げた空想だけど、それは心底羨ましい「もしも」だった。何もかも放り出して、彼女と一緒にアメリカで悠々と過ごす。僕は英語なんて出来ないし、彼女にしても不得意じゃないにしてもアメリカ人と流暢なやり取りが出来るほどではないだろう。だから、周りとは殆ど交流を取らずに、僕らだけで暮らすことになる。それこそ、前に行った夏祭りの神社のように、二人だけの空間で、生きていく。そのまま日本になんて帰らないで、四十歳くらいで死ぬ。死体が見つかるのは僕らが骨になったくらいで、廃れた家を不審に思い通報を受けた警察が踏み込むと、静かに寄り添った二つの骨がベッドに横たわっている。
そんな最期だったらいいなと思った。あるはずもない未来に感傷を抱いて、傷付く。最近、そんなことばっかで嫌になる。
ウミネコが鳴いた。ずぶ濡れになった僕らは向かい合っていた。
「殺してくれって言った人間が死ぬのを止めるのか」
「私が死ぬ分には、別に良いの。でも、目の前で死なれるのは辛いでしょ」
「そんな残酷なことを頼んでる僕に言う? それ」
僕としては、皮肉とか怒りというよりも純粋な驚きの言葉だった。死生観のようなものがとっくに壊れていて、だからこそ僕にそんな残酷なことを頼んだのかと、そう思っていた。
彼女は僕の言葉を責めるようなニュアンスで受け取ったらしく、曇った目線を彷徨わせる。
「分かってるよ、私の頼みがどれくらい残酷なものかは」
そのうえで頼んでいるなら、やはり彼女は強いんだろうと思う。自分の願いのために他人を犠牲にすることが出来るのは感覚が麻痺をしている人間か覚悟の出来た人間だけで、彼女は後者なんだろう。皮肉ではなく、尊敬する。自分の願いのために行動するなんて、当たり前のことのように思えるけれど、殆どの人が出来ていないことだから。
「君は、私を殺してくれるの?」
彼女は僕の中身を覗くように、抉るように見つめて言った。切実とも言えるその目線に、僕は逃げるように目を逸らす。それに耐えられるほど、今の僕は強くなかった。あるいは、僕という人間は一生耐えることは出来ないのかもしれない。怒りや嫉妬のようなこちらに対する負の感情は慣れるかもしれないが、自傷するようなそういう感情は慣れることが出来る気がしない。
「今のところは」と僕は言った。視線とは違い、それに関しては本心から出た情けない言葉だった。
「僕は、君を裏切りたくない。ただ、それでもいざ殺すとなった時、本当にそのまま君を殺せるのかは分からない。土壇場で怖くなって、嫌になって、逃げだすかもしれない。だから、断定は出来ない。不確定なことを言って期待をさせたくないんだ」
多分、一言で言うなら、僕は彼女に失望をされたくないのだろう。期待をされなければ、自然失望も訪れない。だから、僕は曖昧に誤魔化す。逃げ道を作る。
「君は、死ぬなとは言わないんだね」
彼女は零すように言った。
「だって、そう言っても死ぬだろ、君は。あるいは、もしかしたら僕が告白をしたばかりの頃に必死に止めようと思えば思いとどまったかもしれない。ただ、その時には止められるほど、君の意思を否定するほどには君のことを知らなかった」
彼女のことを知って、死んでほしくないと希って、互いの時間を分かち合った。けれど、今では、もう遅すぎる。いつも僕は、あとになってから大切なことに気が付く。
「それでも例えば、『命を無駄にするな』とか言えるような楽観主義者だったら君を止めようと思ったんだろうけど、でも、僕はそうじゃないから。君の意思を尊重はしたいんだ」
誰も、何も、個人の意思を縛ることは出来ない。倫理や常識や法律ですらも、干渉することは出来ない。
それが、世界を害するものなら止めるべきなんだろう。ただ、彼女の意思は、願いは、彼女の中だけで完結をしている。それなら、僕に止める権利はない。それだけの、シンプルな話なのだ。
「そっか」と彼女は頷いた。それだけだった。
僕らはそれ以上、未来について話すことはなく、何も言わずにゆっくりと浜辺に向かって歩いた。服がぺたりと肌に貼りつき、潮がべたつく。砂浜に上がると裸足の足には砂が纏わりつき、気持ち悪い。
彼女を見ると、制服は酷く濡れていて身体の輪郭がハッキリと浮かび上がっていた。艶やかなその姿に見惚れたことを気づかれたくなくて、「このままじゃ電車乗れないな」とわざとおどけるように言った。
「コンビニでタオルと潮を洗い流すようの水買おっか」
「ああ、そうしよう」
そうして濡れたまま、僕らは浜辺を歩き始める。海を抜け、普通の世界に戻るために。
夏の終わりはもうすぐそこだった。
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