第32話

 例の喫茶店には先日と同じくやはり西條が早く来ていた。美羽はそれを確認すると「この人はここで仕事をしているのかもしれないわ。」と小さな勘ぐりをした。マスターの沙織さんは先日と同じ笑顔で迎えてくれた。美羽が西條に挨拶をすると、

「ごめん、急な話で。」と真っ先に謝った。

美羽は、「いえ。」とだけ言ってあとは少しうつむき加減で、腰掛けた。メールを貰った時の美羽の高ぶった気持ちは電車を降りる頃にはすっかり落ち着いていた。

西條は先日とは違う美羽の暗さに、

「どうかした。」と質問した。

「あれから、いろいろありまして……」と簡単に濁した。

「そう。もし記事が世に出て君が何か傷ついたりしたら、謝らなければならない。と言っても、あの記事、結構好評で、雑誌自体の部数が伸びたわけじゃあないんだけど、共感ってやつかな。最近はネットで炎上云われているけど、こういうのは嬉しいね。記事の感想が編集部宛に手紙やメールがジャンジャン届いてね。僕や編集部宛じゃない。全て君宛にだ。」

西條から記事の反響の大きさを聞かされた。共感の大きさに戸惑う編集部だったが、とても嬉しいと。西條がやや大判の茶封筒を鞄から取り出し、その中から印刷されたメールを二通代読した。

美羽は振り返れば、現役時代はファンレターに目を通しことなど、ほとんどしなかったことを思い出した。今になってそれは大変失礼なことと振り返った。そのファンレター達は実家にまだ残っているだろうか。

そんなことを思いながら、西條がメールを読むのを聞いた。

美羽は記事の読者の溢れるばかりの感受性に戸惑いながらも、背中が軽くかるような気持ちになり、自分は、正しい選択をしたわけではないが、間違ってもいない事に気付いた。そして自分が泣いていた事に気付き、手の甲で涙を拭きながら、小さな声で「ごめんなささい。円加さん、美穂子ちゃん。私頑張る。」とつぶやいた。

西條がその言葉を聞いて項きながら、

「そう、でも大丈夫。君は頑張っている。」と優しく続けた。

美羽は涙声で

「ありがとうございます。もしご迷惑じゃなければ、そのメールやお手紙をいただけませんか。」

西條は、

「その為に持ってきたんだよ。すべて君へのメッセージだ。」と言い、美羽に渡した。封筒はずっしりと重かった。この重さが美羽への気持ちだと思うと、余計に重く感じた。

美羽は重い手紙たちを抱えて持ち帰った。


他人は無責任だ。無責任が故に一喜一憂で人を傷つけ、時に無責任に励ます。親友、千絵が昔の事を蒸し返さないのは美羽を傷つけたくないのであって、それを無視しているわけではない。千絵は美羽と気持ちを共有しているのだ。ただしこれは千絵に直接聞いたわけではない。美羽がそう思っているだけである。もしかすると千絵と何か言いたいことはあるかもしれない。

逆に、良枝は美羽の過去にあまり関心がなのいだろう。そして美穂子は、伴野を失ったことにより強い行き場のない感受性を美羽にぶつけた。彼女も千絵とベクトルは違うもののまた、今で美羽に気を使っていたのだ。が、美羽は美穂子の頬をぶつ事で美穂子の想いから逃げだした。その後帰郷し偶然、円加と角一に再会をはたした。あれは和解だったのだろうか。許されたとは思えない。

そして今美羽は思った。皆が言っていること、気持ちは同じなんだと……自宅へ帰り、茶封筒の中身を読み進めるうちに思いが募った。そして、最後のメールに、


「気持ちの整理がつくまで時間がかかったと思います。傷が完全に癒えたなら、再び太陽の下で、皆の前で走ってほしいです。貴女の走る姿は美しい。その姿をもう一度、大歓声の下で見たい。」


「私が美しいんじゃない、私が参考にした人が美しいフォームをしていたんだ。」と声を出して反論したが、思い出した事があった。

「美羽ちゃんのフォームは綺麗よ。私もまた走れるようにはなったらあなたのように走りたい。」いつだったか、車椅子に腰掛けた円加の言葉を思い出した。その夜、美羽は涙が枯れるまで泣いた。

目が覚めると、外は明るかったが、ベッドから出られなかった。その日は一日パジャマで過ごした。明日は出勤日だ。もしかしたら最後の出勤日になるかもしれない。たとえそうなっても美穂子には謝りたいと思った。

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