第31話
病院までどういった道筋を通ったかよく覚えていない。ただ、真帆は、馴れた様子でためらいなくハンドルを切っていた。会話があったかもよく覚えていない。真帆は何か喋っていたかもしれない。美羽が、気付いたときには病院の正面玄関に立っていた。円加と対面したらなんと声をかけようか、そればかり考えていた。角一の手紙には急いでいたのだろう、病室は書かれていなかった。しばらく来ない間に、この病院もえらく様変わりした。美羽が知っている頃はいつもどこかしらの工事をしていた。迷いながらロビー内をうろついていると、
「如月さん、」と、女性の声が呼びかけた。美羽がその声に振り返ると、「やっぱ、如月さんだ。」と看護師姿の女性が声を弾ませた。
「ああ、えっと……有美ちゃん。」美羽は、記憶を整理して目の前の看護師を思い出した。彼女は、看護学校時代の寮で隣の部屋だった相川有美だった。特別仲良くしていたわけではなかったが、美羽の読みをひっくり返すと、有美で、顔なじみになった。また、シフトが違ったがアルバイト先が同じだった。気がよく愛想が良い女の子で、しかも授業態度も熱心で、それなりに優秀だった。二人は少しの間、学生時代を懐かしんだ。そして、美羽が此処にいる理由を話すと、すぐ、総合受付の医療事務に問い合わせて、案内した。
「今朝までICUで治療中で、今は個室に移されている様ですよ。」と説明して、
「本当は、ご家族だけの面会が原則ですけど、多分、大丈夫だと思います。今ちょうど、ご家族の方が見えられているようですし。あ、如月さんは同業だから、私、ナースセンターに言っておきますね。」と続けた。
「ICU……そんなに悪いの?」と美羽は質問したが、有美は、それには答えなかった。
二人は、病室の前まで来ると、
「何かありましたら、ナースコール……あ、ごめんなさい。わかりますものね。」と有美は、頭を下げその場を離れた。美羽は、病室へ入る前に、扉を小さくノックしてから、戸を開けた。ノブを掴む手が少し手が震えた。軽い力で戸が開くと、病室内は誰もいないかのように、病室は静まり返っていた。入り口にベッドを隠すように、ベージュ色のカーテンが引かれていた。それは、美羽を円加へ近づけさせないようとするためのバリアーのようだった。美羽は、恐る恐るカーテンを開けた。カーテンがまるで鉛の板で出来たかのように重く感じた。ベッドには、呼吸器を付け仰向けで眠っている女性が居た。円加だろうか?美羽は一瞬、それが円加とは気付けないでいた。薄い掛ふとんから浮き出る身体は信じられないくらい、細く、小さかった。髪は短く整えられ、頬が痩せこけた、まさしく円加だった。
「ま、円加さん……。」美羽は、円加に声をかけたが、返事どころか反応はない。手を握ろうと近づこうとすると、
「き、如月……。」美羽は驚いて後ろを振り返った。声をかけたのは海堂角一だった。何年ぶりだろうか。角一は美羽がよく知っていた頃よりも、体格が良くなり、頭髪は薄くなっていた。かつての箱根のスターは十分に中年になっていた。角一は、美羽を懐かしむ事なく、ベッドで寝ている円加に、「円加、如月が美羽ちゃんが来てくれたよ。」と、やさしく声をかけた。そして、美羽は角一にお見舞いを渡すと、角一が礼を言った。そして、
「待合室で話そうか。」と言って、病室を出た。美羽はその後を付いていった。平日ということもあるだろう、待合室に病室にテレビがない患者や、面会者がいたが、まばらだった。二人は対面のテーブルに腰掛けた。角一は、「わざわざ来てもらってありがとう。それにしても、松本に居ないと聞いていたから……」美羽の早すぎる見舞いに驚いた。美羽はこの一通りの話をした。競技生活の後や、現在の仕事のことも話した。角一はそれを聞いて安心したような面持ちで「良かった。」とだけ言った。美羽は、
「円加さんに何が遭ったんです。」単刀直入に聞いた。角一はやや、話しづらそうに、待合室の窓の外を見た。
「君が、僕らの元を去ってから、円加はしばらく、誰ともまともに口を利こうとしなかった。外に出るのも億劫がって、部屋に篭もるようになった。そして、君の出たレースのビデオばかり見ていた。君が出たレースがテレビ中継するときだけは、比較的元気で、成績が良いと、外出したがったな。そう、君の走りは円加の唯一の楽しみだったと思う。あの日も、君の姿を見るのを楽しみにしていた。」
「あの日。」美羽は聞き返した。
「君は思い出すのは辛いかもしれないが、正直、僕達も辛い。あの福岡のレースだよ。」角一は断りを入れた。美羽は、
「大丈夫です。つい先日もその話をしていたので。」と言って、角一を見た。
「君の調子が悪いのは、テレビの画面からも十分に伝わった。円加は、何度も僕に確認をしたんだ。「美羽ちゃんはあれで走れるのか、私だったら止める。」と。その予感は不幸にも的中した。君が、先頭集団から置いて行かれて行くのを見ながら、円加は泣いていた。泣きながら、「もう止めて。」と何回も叫んでいた。君が、走るのを止め吐瀉してしまったあの姿を見た円加は、部屋を飛び出そうとしたんだ。君を止めるために。円加も自分で何をしているかわからないような感じだったが、必死だったんだろう。自分が走れなくなった時でさえ、あんなではなかった。」
「じゃあ、なんで、私を避けるようになったの。」
美羽は、飲み込もうとしたが、我慢ができずにやや強気な語気で質問した。角一は、ため息混じりに、
「それは、君も同じだろうに。」と言った。美羽は何か言おうとしたが言葉が出てこなかった。角一は続けた。
「円加は、エレベーターを待っている事ができずに、車椅子から降りて、這うように階段を降りようとしていた。」
角一と円加の自宅は、彼らの両親が経営する海堂エンジニアリングの工場の上階にある。自宅へ出入りする際は、エレベーターか階段を使う。
「僕が、もっと速く対処していれば、あんな事にならなかった。円加は、階段から転げ落ちて、気を失った。幸い一命をとりとめたが、両足は骨折し、首から下は不随になった。円加はそれ以来、口が聞けなくなってしまった。かろうじて、意思の疎通は出来ていて、日々の生活ことはヘルパーを雇った。それでも、君のビデオは見たがるんだ。昨日も、目で訴えるんだ。君の姿が見たいって。そんなときにあのインタビュー記事だ。慌てて雑誌を買って円加に見せたよ。円加は笑顔になってくれた。そうしたら、突然意識を失ってしまって、緊急で運ばれた。二度目の脳梗塞だ。」話し終えると、角一は大きくため息をついた。
「辛いけど、覚悟はできている。今日まで長かったからね。」と最後に言った。美羽は言葉を失った。しかし、頭の中は何故円加が自分を拒絶したのかということが、ひしめいていた。
「そうだな、君は糸魚川のレースのときにはもう、円加の実力を追い抜いていた。あの時、僕らが教えることはもう何も残っていなかったんだ。それだけだ。拒絶ではないよ。確かに、円加は君が遠くへ行ってしまうような気持ちになってしまったかもしれない。じゃなきゃ、今回、君に手紙なんか書かいよ。出来れば、円加の意識がある時に、もう少し元気だった時に会って欲しいって思っていたけど、今になってしまった。君がレースを離れてから、どういう生活をしているか、知りたかったが、怖かったんだ。円加の想いひとつで君を競技の世界に引き込んだんだ。君の人生の一時を奪ってしまった。でも、あのインタビューを読んで、安心した。君はあのときから確実に時間の針を進めていたんだ。」角一は美羽に謝りながら言った。美羽はどう返事をしたら良いかわからなかった。ひたすら、角一の言葉に頷くことしかできなかった。角一は少し間を置き、
「今日、東京に帰るの。」角一が聞いた。
「ええ。そのつもりです。」美羽は小さな声で返事をした。
「じゃあ、もう一度、円加に会って行ってもらえないかな。健康で元気にしている君の姿を見せてやってほしい。」角一は美羽に頼んだ。美羽は頷いた。角一が椅子から立ち上がろうとした時に左指の指輪は輝いて見えた。
「コーチ……」美羽は、かつて角一を呼んでいた敬称で呼びかけた。角一は、美羽が自分の薬指に気付くと
「去年、結婚したんだ。来年子供が生まれる。悪いことばかりじゃないよ。円加は長く不幸だったが、今日、君が来てくれた。」と言って少し笑った。もう、本当に覚悟などはとうの昔に出来ているのだろう。美羽は角一の悲しそうな笑顔を見てそう思った。
美羽は再び病室に入ると、円加の前に椅子を用意し腰掛けて、円加の頬を愛おしくなでた。声にならない声で円加の名前を耳元で何度もささやいた。そして、美羽は円加と離れてからの自分の足取りを話して聞かせた。西條に話したときよりも、楽しく話せた。職場の仲間や、千絵のこと、西條のこと。話しながら円加の頬を何度もさすった。その様子をしばらく黙って見ていた角一が、
「ありがとう。」と一言、言った。美羽は角一を見た。霞んで見えた。
「如月は、自分の人生を悔いのない様に送ってほしい。円加もそれを望んでいるよ。円加の分も十分に健康で幸福になってほしい。」と、角一は言った。それを聞いて、美羽は無力感で一杯になった。その無力感は、もしかしたら、自惚れかもしれない。
どれくらい、円加の元にいただろう。外はいつの間にか、太陽が沈み、辺りは暗くなっていた。美羽は、角一の「送っていくよ。」の一言を断ってから、別れを告げ、タクシーに乗った。これ以上一緒にいれば、必要以上の情が円加や角一に移るのを嫌がった。もし、もっと早く、円加の状態を知っていれば、きっと円加の元に居て寄り添っただろう。そんな考えが頭によぎったからだった。余計に円加への想いが募り、辛い。十分すぎることはない。美羽はタクシーの窓に頭をつけて、「ごめんなさい。」と小さく謝った。
美羽は、上りの特急に飛び乗った。乗客もそれほど多くなく、ゆっくりと座席に座ることが出来た。一息つくと、真帆にメールで、病院で円加に会った事と、帰りの電車に乗ったことを送った。心を落ち着かせようと、ゆっくりまぶたを閉じた。しかし、脳裏に浮かぶのは今日、病院で再会した円加の姿だった。何度も元気だった頃の円加を思い出そうとしたが、できなくて切なかった。円加がいなくなってしまえば、家族以外の者は誰も思い出さなくなってしまうかもしれない、と不安になった。円加は充足に健康な日々を遅れたとはいえない。辛いだろう悔しいだろう。今まで考えないようにと避けてきた、円加への想いが、美羽の目尻を伝う涙と共に溢れ出した。車窓には泣き顔でバサバサな髪の毛の自分がいた。
美羽は、西條と角一の言葉が重なった。
――“悔いのない人生”――
終点の新宿駅までずっと考えていた。最近、自分の半生を振り返る機会があった。今日もそういう日になった。同時に、円加を想った。円加は脚の自由、身体の自由が利かなくなってから、どのように毎日を過ごしていただろうか。大好きだったであろう、走ることを諦め、自分の想いを美羽に託した時の気持ち……美羽は、今初めて考えた。円加にとって、美羽は円加だった。美羽は、そんな風に考えた。もしかしたら、もしかしたら、伴野も同じ気持ちだったかもしれない。そして、美穂子も。そんな期待は過度であると。そして、美羽自身への過信であると。美羽は、自分の小ささに失望した。ならば何が出来るだろう?
アパートに着く頃、美羽は、疲れていた。様々な人の声が、頭の中をひしめき合っていた。そして、眠れなかった。
朝になった。美羽はベッドの中に身体を埋め、今のままでは美保子を始め病院の皆似合わず顔がない、と考えていた。昨日の疲れを引きずるようにむっくりと体を起こし、スマホの電源を入れる。通知はなにもない無通知に余計な孤独感を感じなから、そこへ、メールの着信音が鳴った。西條からだ。
「お渡したい物があります。先日のところでお会いできませんか?日取りは任せます。」と
美羽は、西條がこのメール以前に同じ内容の手紙をよこしているのではないかと思い、慌てて外の郵便ポストも確認をしに行ったがそれらしきものはなかった。部屋に戻ると、息荒く興奮だった気持ちを抑え、
「おはようございます。今日、これからでもよろしいですか。」
と返信をした。
すぐさま西條から返信が届いた。「良いですよ。これからならはゴゴイチでよろしいですか。場所は先日の喫茶店で。」とあった。美羽は時計を確認した。十時を回っていた。すぐさま承知のメールを送り、部屋着を脱ぎ捨てシャワーを浴びる準備をした。
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