第30話

 住宅地とも商店街とも取れない一角に、四角柱の白い三階建の建物が建っている。その前には、自動車が五台は停められる駐車場があり、一番端には、軽バンがぽつんと停まっていた。配達用の車だ。一見洋風な佇まいにも見えるが、玄関には、格子状の木材があしらわれ、戸口には、“すし処 きさらぎ”と達筆に書かれた看板が掲げられている。その周りは、ゴミひとつない。この美しい掃除の仕事は、美羽の兄、明人の妻である、真帆の手によるものだろう。今日は、のれんはかかっていない。看板の脇には“本日休業”の札が貼り付けられていた。休業ならば、店の戸は開くことはないと、美羽は、自宅の玄関へ回った。玄関前には、自動車が二台停められるスペースが有り、そのうち、一台は出払っていた。もう一台、青い車は恐らく、フロントグリルのライオンのエンブレムが眩しく光る(プジョー208)真帆の車だろう。そのデザインやボディカラーの輝きからまだ新車に見える。美羽が知らない間に新しくしたのだろう。以前は青いミニクーパー(二代目)だった。出払っている車は、兄のワンボックスミニバン。(アルファードかヴェルファイア。もしかしたらオデッセイかも知れない)もしかしたら、家族全員で何処かへ出かけているかもしれない。誰も居なければ、あえて寄る必要もないので、確認のために美羽は、チャイムを鳴らした。誰も出てこない。美羽は玄関の扉に手をかけた。すると、大きな扉が、力を必要とすることなくスルリと開いた。誰も居ないならば、不用心だ、と少し憤慨した。美羽は、恐る恐る上がり込んで、靴を脱ぎ、階段を上がった。一階と、二階の一部は店舗に取られている為に、玄関を入ると、すぐに階段とエレベーターがある。このエレベーターは祖父母のために設置されたが、祖父は未だに使いたがらない。祖母も生前は、「健康のために。」と言いながら、よく階段を使っていた。美羽は、恐る恐る階段を上がり、リビングへ向かった。実家なのだが、まるで自分が空き巣に入った泥棒になったかのような気分だった。二階の半分は座敷になっており、大人数の客や、予約客などを受ける時に使っていた。その座敷は、商工会や商店街連合会の役員や、お偉方も頻繁に会合や接待の場所として利用している。それのおかげもあって、他地域からの役人などが店を利用してくれるのも、重要な収入源の一つでもある。ただ、こういった接待は、景気が良かった時代から比べると、だいぶ減った様だ。

住居部分は、寿司屋でありながらも、洋風の造りをしていて、祖父の部屋以外はフローリングになっていた。これは、兄夫妻の趣味が反映されたのであろう。かつては美羽がいつ帰ってきても良いようにと専用の部屋もあったが、現在は姪の部屋になっている。美羽はリビングの扉を開けたが、そこには誰も居なかった。ますます不用心である。続いて、キッチンへ向かったがそこにも誰も居なかった。いよいよ不安になってきたが、ひとつ忘れたいた事があった。店の厨房だ。もしかしたらそこに誰かいるかもしれない。自分の家とて、ガランとしている様子は何処かうす気味悪くかった。そのとき、「誰?」という声が響いて、美羽は後ろを振り返った。兄の妻、美羽の義姉、真帆だった。

「美羽ちゃん。」と大きな声を上げ、驚いた様子で真帆は美羽を迎えた。

「驚いたわ。ちょっとお隣まで回覧板を持っていって帰ってきたら、玄関に見慣れない靴があるじゃない。もう、帰ってくるなら帰ってくるって言ってよね、駅まで迎えに行ったのに。」と美羽の突然の帰郷に呆れてた様子だった。

「真帆さん、ごめんなさい。別に驚かそうとしたわけじゃないから……」と、美羽は謝った。何故か、“お義姉さん”と呼びづらく名前で呼んでいる。

「良いのよ、別に。でも、今日平日でしょ。仕事は。」

「うん、ちょっと。お休みが取れたから、お墓参りしようと思って。」

「そう、じゃあ、これから行く?」

「あ、もう行ってきたんです。」美羽は、タクシーで墓参りを済ませたことを報告した。

「あら、なんでそういうことを前に言わないの。それなら全部こっちで手配したのに。」真帆は、それを残念がったが、美羽はそれには答えなかった。美羽は、真帆に新宿駅で買った東京のお土産を渡した。

「これ、美月に。」

「悪いわね。帰ってくる度いつも。」と、真帆は礼を言った。一人娘の美月のことに関しては、真帆は一切遠慮をしない。

美羽は真帆に帰郷した本当の理由を話さなかった。この問題をあまり広げたくなかった。真帆は美羽にお茶を淹れながら、聞いた。

「どう?」

「まあまあ、です。」と、返事をした。

「まあまあ、か。」真帆はため息をついた。「インタビューの記事読んだわよ。ていうか、ご近所でもずっとその話題だったんだから。写真良く撮れているじゃない。美人すぎるくらいに。」

「ところで、お兄ちゃんたちは、どうしたんです?」

「あ、昨日から、お出掛け。商工会の旅行よ。今年は会津だって。明日帰ってくるわ。」

「水月も?」

「まさか、水月は学校終わったら、今日は、そのまま塾よ。真由美ちゃんと一緒。」

「まゆみちゃん?」

「江本さんのところの。」

「あ、なおみの、二番目?」

「そうよ。」

 中沢なおみは、美羽の幼馴染みである。如月家の隣にある、江本建材店のひとり娘で、小さい時はよく、一緒に遊んだ。何故か中学生になってから、あまり一緒に行動をしなくなった。そして、高校は違った。なおみは高校入学してすぐに、中沢建材店で働く、大工見習いの義雄の子供を妊娠した。なおみの父親は泣いて大反対した。当時、義雄は十七歳。父親は、飲んだくれで、定職に就かず、チンピラまがいの男だった。そのろくでなしに貢ぐホステスとの間の子供だった。義雄が、三歳の時に、父親に愛想つかした母親は違う男を作って出ていった。生活能力がない父親ではと、義雄はその後親戚中をたらい回しにされた。その間に父親は蒸発した。今は、生きているかどうかもわからないらしい。そんな義雄は、愛情なく育ってしまった。お陰でグレた。警察沙汰になるようなこともしたが、幸い、鑑別所や少年院に入ることはなかった。十六歳の時に、江本建材店で働くようになり、いつしか、なおみと関係を持っていた。それを、美羽は早い時期から知っていた。材木店のトラックの幌が被さった荷台でお互い裸で抱き合っている姿を目撃してしまった。見てはいけないものを見てしまって、その日は眠れなかった。

美羽たちから見れば、義雄の勤務態度は真面目だった。自分の居場所があれば、穏やかにやっていけるのだ。しかし、娘の妊娠を知ったなおみの父親は許そうとはしなかった。それを仲裁し、結婚まで結びつけたのは、美羽と兄の明人だった。なおみの妊娠を知った義雄は、金髪に染めた髪を五分刈にし、明人に借りたスーツを着て、三人でなおみとなおみの父親に手をついた。それでなんとか許してもらった。美羽は、それがきっかけで再び、なおみと付き合うようになった。美羽は、千絵をなおみに紹介し、三人で会って遊ぶようになった。それから、しばらくしてなおみは出産を期に、高校を退学し、子育てと、材木店を手伝うようになった。義雄は、江本家の婿養子になり、十八歳になってすぐに、なおみと婚姻した。

商工会のオジサン達のアイドル的存在の真帆が何故、旅行に参加しないのか不思議に思った。

「真帆さんは旅行行かなかったですか。」

「だって、水月がいるでしょ。学校休ませる訳にいかないし、それとね……」真帆は含みを持たせた。美羽は真帆の姿をよく観察した。そして、「あっ。」と声をあげた。

「流石、美羽ちゃんね、わかった。」と真帆が嬉しそうに言った。

「まだ、誰にも言っていないの。明人や、お義母さん達にはまだ、内緒。」

「じゃあ、まだわからないですね、どっちかは。」と美羽が言うと真帆は頷いた。

「男の子だったら、跡継ぎですね。もし、そうだったら、お祖父ちゃん、もの凄く喜ぶと思う。」美羽は言った。

「ありがとう。この間、わかったばかりで、まだ、これからよ。跡継ぎなんて先の話よ。あとね、男の子だったら、あの人は絶対にサッカーやらせると思うし。」真帆は、冷静に言った。美羽はそれに頷きながら、よく、寡黙な兄と結婚してくれたと心の中で感謝した。美羽の兄、明人は、口数が少なく大人しい部類に入る。明人が子供の頃、あまり大人し過ぎた為、心配した父と母は、地元のサッカークラブに半ば無理やり入れた。ところが、サッカーは明人にとって相性が良かった。サッカーは、みるみる間に上達し、父親が亡くなるまで続けた。しかし、スポーツをやったとはいえ、性格そのものは変わらなかった。特に父親が亡くなり、寿司職人になると決意したときから、再び寡黙な性格になった。それだからか、美羽は明人とあまり会話した記憶があまりない。年が離れている事も影響してか、兄妹喧嘩もした事がなかった。美羽からすれば、無味無臭(美羽はそれを、“無印良品”と形容する。)のような明人の元に嫁いでくれた真帆には感謝しかなかった。兄の何処を好きになって結婚したのか。聞けないこともないが、未だ聞けず終いである。そもそも、真帆は、順調にいけば、芸能人か、億を稼ぐプロスポーツ選手と結婚したかもしれない、義姉。旧姓 栗山真帆、在京民放キー局の人気アナウンサー(イメージとしてはフジテレビ。)だった。それが、今では寿司屋の若女将。お陰で客足が伸びた。そして彼女は非常に器用だった。器用貧乏ではなく、凝り性でとことんやり詰める。ある時突然、蕎麦打ち教室に通い始め、蕎麦打ちを習得し数年前から、店で売っている。特に年末の年越し蕎麦はよく売れる。味も上々である。それだけではない。口下手な兄に代わって、商工会や青年会議所の仕事もこなし、去年までは役員だった。それは、人気アナウンサーだったこともあり、何処へ行っても輪の中心となり、抜群の愛想のために彼女を悪く言う人は皆無に等しい。言うとするならば、嫉妬の目を向ける同性の御婦人方が少々だった。しかし、そんな御婦人方をも、その抜群の愛想と処世術で味方に付けるのも真帆の実力の高さだった。美羽と真帆が知り合ったのは、美羽がまだ十九歳の時に、“東京五輪を目指す次世代のアスリート”というテレビ番組の特集で取り上げられた事があった。その時のインビュアーが当時、アナウンサーだった真帆だった。当時、インタビュー初経験だった美羽は、上手く答えられなくてしどろもどろになった。答えに詰まる度、カメラが止まった。その度、真帆の眉間にシワが寄った。恐らくその日は機嫌が悪かったのかもしれない。その収録時、カメラが回っていないときに、美羽は、

「生理ですか?」と思わず質問してしまった。その時、真帆は笑顔だったが、明らかにひきつらせて、「正直な娘ね。」と言い返した。そのインタビューは、事務的に終わらせることができたが、別れ際、真帆が、「愛想を覚えようね。これからスターになるんだったら。」と言い残して美羽の前から去っていった。お陰で、真帆とのファーストコンタクトは、あまり気持ちが良いものではなかった。それが一年位経ち、今度は長野県の美味い店を紹介するという情報バラエティ番組で店にロケにやって来た。それは、美羽の実家であることが前提でのロケだった。その時には、美羽も、何度か取材を経験し、インタビューには慣れていたが、幸か不幸か、地方レーす遠征のために不在であった。しかし、今度は真帆が喋る事ができなくなった。明人を一目した真帆は、顔を真っ赤に染め、兄の顔ずっと見つめていた。明人は、寡黙だったが、もの応じしない性格だった。それが相手が誰であろうが。美羽からすれば、あまり自分に似ていないし、特にイケメンでもない。それに、サッカーではフォワードのポジションだったが、女子にモテたという記憶もなかった。(フォワードが持てないというのは美羽の偏見である。)美羽は、寡黙な兄を嫌いではなかったが、ムッツリかもしれないいう、僅かだが、軽蔑の目も持っていた。それが、お茶の間の顔として人気者だった真帆が、兄の前では喋る事が出来ず、収録そのものができなくなり、急遽、地元のネットワーク局の女子アナが呼ばれ、代行した。真帆は、その時の様子を、生放送でなくて良かったと振り返る。そんな失態を演じてから、真帆が、三度、自分の前に現れることはないと美羽は思っていた。しかし、違った。それから、一週間に一度、真帆は松本まで通店までやって来た。ランチメニューの上寿司握りセット二千五百円を食べて帰る。それが二、三週間続き、最初のうちは会話らしい会話もなかったが、少しずつどちらともなく話始めていた。そのうち、店が休みの日になると、兄が東京まで行き、デートを重ねていた。兄は大柄だったので目立ち、すぐに写真週刊誌の格好のターゲットになった。しかし、兄は全く動じなかった。客の冷やかしも無視をしていた。それどころか、自分達のデート中の写真が掲載されている週刊誌を普通に店内に置いて置くぐらいだった。それから、一年経たないうちに、真帆は、朝に担当していた情報番組で、自分の結婚と妊娠、局の退社を宣言した。それは、入念に打ち合わせされたものであったが、ネットの掲示板などでは、“放送事故”として語り継がれている。それが、きっぱりと仕事を辞め、如月家に入ってくれた。実のところ、美羽も含め、如月家の面々は半信半疑だった。特に母はテレビで毎日見る顔が目の前にいることが不思議でたまらなかったらしい。祖父母に至っては、ドッキリカメラではないかと疑いの目を向けていた。しかし、美月が生まれると、その様子は一変し、如月家は真帆を家族として受け入れた。ゲンキンなものである。後に真帆はそのこと、「この家の人達はよっぽど疑り深いのよね。」と笑い飛ばした。そして、今、二人目の妊娠である。美羽は安堵した。恐らくこの妊娠が公になれば、皆が本当に安堵するだろう。そして、美羽は、「幸せそうで良かった。」と胸をなでおろすように言った。

「そう、そうね。幸せね。あまり考えたことないけど。」と返した。

「たまにいろいろ考えるわ。お店のことで、あの人、明人と意見が合わない時とか、美月の教育方針でケンカした時なんかね。」

「考える。」

「明人は私を愛してくれていることはわかる。お祖父さん、お義母さんは優しい、でも、私は本当にこの家族の一員なのかって。でもね、すぐにそんな考えが馬鹿らしくなるの。美月は私よりパパのほうが好きで、背が高くて、明人そっくり。でもね、美月って、あのくらいの年頃の私によく似ているのよ。その娘が、「パパ、パパ。」って言っている姿見ると、ホントにね。ケンカだって美月のことがほとんど。最後は私が勝つけどね。あと、自分でした選択ですもの。私の両親は、大学進学も、就職も、そして結婚も、自分で決めさせてくれた。ああしろ、こうしろ、なんてことは一切言わなかった。ただ、後悔だけはしないように、とだけは、言っていたわ。だから、明人と最初に会った時に、私はこの人の奥さんになるって、決めた。すしや(・ ・ ・)の大将に一目惚れで、ロケが中止になるくらいですもの。」と、はにかみながら言った。愛されているという信頼だろうか。いや、愛は信頼かもしれない。美羽は、兄のことが羨ましいと思った。こう云う風に自分を愛してくれる人に出会えるだろうか。そして真帆は、

「私、あの日から此処に毎週通ったのは、確認したかったからなの。自分の一目惚れが真実かどうか。2回目で真実って確信できたけどね。」と付け加えた。言い終わると、真帆は照れ隠しのように大きく笑った。思い出すように気付いた様で、「ちょっと、待っていて。ちょうど、渡すものがあるわ。」と言って、奥へ入って行った。何分もしないうちに真帆が手紙らしきものを持ってやって来た。それにしても、最近は手紙づいている。どうせ、同級会か、結婚相談所のお見合い写真だろうと思った。

「お見合い相手の写真ならダメですよ。」と言った。

「そんなんじゃないわよ。これ、今日の午前中に届いたわ。」と差し出された封筒には、丸い文字で“如月美羽様”と、裏面を見ると、“海堂角一”と書かれていた。美羽は何度も裏表を確認し、顔をこわばらせた。真帆は、「本当に今朝、届いたの。これ観て、速達で。」そう言いながら、切手部分を指した。美羽は、封を切ろうか躊躇った。真帆は、「お茶入れ直してくるね。」と気を利かせたのだろう、その場を離れた。美羽は真帆が出ていくのを確認してから封を切って手紙を取り出し、ゆっくりと開いた。そこには、宛名と同じ丸い文字で、


拝啓、美羽さま

お元気でしょうか。インタビュー拝読しました。

何とかして、連絡が取れないかと思い、ご実家へこの手紙を出しました。一刻も早く、読まれることを期待して。

円加が、信大病院に入院しています。

この手紙を書いている二時間前に救急車で搬送されました。

電話しようか迷いましたが、ご家族に迷惑をかけてしまうと思い、

あと、実家にはいないと風の噂で聞いたので。

出来たら、円加に会って欲しい。そうしたら円加も喜ぶと思います。

海堂角一


そこへ、手紙を読み終えた頃に真帆がお茶を持って帰ってきた。美羽は真帆に手紙を見せた。真帆は、すぐさま、

「すぐに行かなくちゃ。あそこは、面会は三時からだから、今から行けばちょうど良いわ。私、乗せてく。」

美羽は、躊躇した。すると、真帆が、

「だめよ、そんなんじゃ。行かないと、行きなさい。」と、目を据えて、きっぱりと言った。真帆はすぐさま、車の鍵を取りに行き、美羽を外へ促した。

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