第26話
美穂子は結局、一週間休暇を取った。すべての行事に参加し、納骨にも参列した。そ して、目一杯のお土産を持って帰京した。
「ご家族、弟さんと、ご親戚、幼馴染くらいですかね。あと、高校時代の部活の仲間だった人が数人、ちょっと寂しいお葬式でした。ご両親は結構前に亡くなっていて、弟さんとも十年以上疎遠だったようです。それでも弟さんはたまに現金の仕送りをしていたようです。後、弟さんから藪原先生にはよろしく伝えてほしいって言っておられました。」
美穂子は、皆にお土産を配り終えると、そう、報告をした。
「納骨の時はお墓に目一杯お酒をついで、もう、たくさん飲んでも病気になることはないですし。」と付け加えた。いつも、大きな声で明朗に話す美穂子とは思えないほど静かな口調だった。美穂子はきっと泣いただろう。美羽はそんなことを思った。美穂子が話し終えると、
「先輩、ちょっといいですか?」
と美羽の元へ近づいた。
「これ、伴野さんの遺品なんですが、先輩に持っていてもらいたいと思って。」と、段ボール箱を美羽に渡した。
「どうして、私が?」美羽は困惑した。伴野は美羽を何故か、嫌っていた。だから、伴野のことは美穂子に任せっきりで自分はあまり気をかけなかった。仕事とはいえ、すべての患者に寄り添えないと思った。逆を言えば、仕事としての割り切りを教えてくれたのは伴野だったかもしれないが。だから美羽は、自分と接点がない伴野の形見分けに自分が選ばれたことに困惑を隠せなかった。
「わ、私、伴野さんとほとんど関わりなかったし。」美羽はうろたえた。
「これの中身を見れば先輩がこれを持つ人にふさわしい。いえ、先輩が持つべきかと。」と強い口調で美穂子は言った。
「これは、私の意見だけじゃない。弟さんもそう仰っていました。」と付け加えた。美穂子の言葉には凄みがあり、美羽はそれに圧倒された。美羽は、仕方がなく渋々段ボール箱箱を開けた。中にはB5サイズの手帳と、A4サイズのクリアーファイルが入っていた。
「美穂子ちゃんは、これの中身、見たの?」美羽は恐る恐る美穂子に聞いた。美穂子は、静かに頷いた。
クリアーファイルには、新聞や雑誌の切り抜きがびっしり貼ってあった。そしてその記事は美羽にとって見覚えがあるものだった。
「私だ……」美羽は、思わず心の中で言ったつもりが声に出してしまったようだった。しかし、その後の言葉が続かなかった。自分が出場した陸連公認レース、いや、それ以外の半ば趣味で出場したハーフマラソンや、都市対抗駅伝の写真と結果。中には生写真だろうか?結構の近距離から撮影されているものまであった。美羽自身も出場したことを、忘れているような全てが網羅されたスクラップブックだった。それは、まるでストーカーとも解釈できそうな情報量に身の毛もよだった。そして、恐る恐る手帳に手を伸ばした。美羽は表紙を開くのを躊躇った。スクラップブックを見てしまったからには後には引けないような気がした。それに美穂子が美羽を注視していた。美羽には美穂子に伴野が乗移ったような殺気なようなものを感じた。ゆっくりとページを開くと、びっしりと書かれたメモ書きだった。スクラップブックに貼り付けてあった記事のレースを補足するように、美羽、いや長距離走者、如月美羽の様子が事細かく書かれていた。美羽は少し拾い読みをしたが、かなり的を得たものと瞬時に理解が出来た。美羽は自分の手が震えるのがわかった。同時に、ここまで自分を研究していた人間がいたことに驚いた。これをどう捉えてよいか困惑した。困惑というより混乱だった。美羽が手帳に夢中になっていると、美穂子が言った。
「伴野さん、昔マラソン選手だったそうです。中学生の時に陸上を始めて。ご実家には、伴野さんが出場した大会の写真や、トロフィーや盾がたくさん飾られていました。私、先生の回診に付いて行くようになって、伴野さんのアパートにお邪魔するようになってからずっとその話を聞かされていて知っていました。伴野さんは実業団の選手だったけれど、交通事故に遭ってしまい、マラソンを辞めざる得なくなってしまって、同時に会社も解雇されて、いろいろ仕事を変えたけれど、交通事故の怪我の影響もあって長く続かなくてそんな辛さをお酒に頼るようになって……それは伴野さん自身も悪いところがあったのかもしれない。でも、誰も助けてくれなかったそうです。死ぬ物狂いに走ってきて、走れなくなったら“ポイ”されて、人生うまくいかないっていつも嘆いていた。だからか、この近所を走っている人達のことはよく言いませんでした。「あいつらは、ぬくぬく走っている。あんなのはマラソンじゃない。マラソンは命がけだ。怪我でもしたら、そこでジ・エンドだ。」って。勿論、その資料のように先輩のことも知っていました。伴野さん、近所を走る先輩を見た時に、目を疑ったそうです。あの如月美羽が走っているって。華麗な若き長距離走者、如月美羽。でも、それは自分が夢中になった如月美羽ではなかったって。趣味で走るなんて、昔の如月美羽は違ったって。あんな走りをするなら走らないほうが良いって。」美穂子の口調はいつしか強くなり、美羽を攻めているようだった。
「でも、先輩の話をする伴野さんは楽しそうでした。」そう言うと、美穂子は黙り込んだ。美羽は伴野の手帳のメモ書きを見ながら苛立ちを募らせていった。
――みんな、勝手だ――
美羽は思った。声に出していたかもしれない。
美穂子は、再び美羽に言った。
「なんで先輩は、走るんですか?大会も出ないのに。」
美羽は、苛立ちを飲み込むように深呼吸してから、
「何にもなくても、走ってはダメ。」と美穂子に語気を強め聞き返した。美穂子は、開き直ったかのような美羽の言葉に食いついた。
「先輩は、選ばれた人です。一番を目指す事ができた。今でもそれが出来ます。此処で燻っているような人じゃない。」美穂子の声は、叫んでいるように見えた。美羽はその声を耳障りに感じ、目を瞑って眉間に深い皺を作って黙っていた。
「なんか言ったらどうです。」美穂子は挑発的に美羽を煽った。
「冗談じゃないわ。」美羽は、叫んだ。そして、
「なによ、人の気持ちも知らないで勝手なこと言って。自分の気持ち、他人に勝手に押し付けないで。」
「そうじゃない、みんな先輩に同じ気落ちを想ってる。伴野さんだっていつも、「もったいない」って先輩のこと言って……」
最後、美穂子が言い終わらない瞬間に
“パチン”
と大きく乾いた音が、院内に響いた。その瞬間、美穂子が大きく倒れ込み、しばらくすると子供のように大声で泣き始めた。美羽は、自分が行った行為が把握できなかった。
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