第22話

「高校卒業したらすぐに、私は、円加さんの実家の会社、海堂エンジニアリングの社員寮に入りました。社員寮といっても、海堂家が経営しているアパートに引っ越しをしたのですが。」

「では、そこから、マラソン選手、如月美羽の誕生だね。」

「直ぐに、マラソン選手って訳じゃなかったんですが、仕事始めの日から練習は始まりました。地獄の特訓。」と、美羽はおどけて言った。

「今まで、ほぼ自己流でやっていた練習メニューも改められて、食事もほぼ毎日、コントロールされました。お昼は円加さんのお母さんが特別に作ってくれたお弁当。就業前の走り込みからで始まって、日中は仕事。作業内容は他の人と変わらず。午後三時になるとパートタイムの人たちが帰る時間なのですが。私は、そこから、夜八時まで練習。」

「給料は。」

「お給料はパートタイムの人と同じ金額を戴いていました。スポンサードされたレースで優勝して賞金が出ると、そのまま戴いていました。実業団選手としては決して待遇は良かったとはいえませんでしたが、プロ選手でもアルバイトしてっていう人多いですよね。でも当時の私はそこに大きな疑問はありませんでしたし、角一さん、円加さんに直接教えを請うことが出来ることで環境には満足していたかもしれません。このような形になったのは円加さんの強い推薦があったからだそうです。そもそも、円加さんが、会社の看板を背負って走る事ができたのは、先程もお話したように、海堂円加だからなんです。いくら優良零細企業でも人一人、走るためだけに雇うなんて、簡単にできませんもの。でも、円加さんが走れなくなれば、そんなの必要ではなくて。でも、円加さん、自分が出来なかったことを私に肩代わりさせるために社長であるお父さんに頼み込んだ。円加さんのお父さんは円加さんには甘くて。でも、そのままでは駄目だったわけで。」

「君はそれで、良かったの?」

「ええ……」美羽は少し間を置いて返事をした。

「先程の事情は私が海堂エンジニアリングを離れる時になってわかったことなんですが、そんなに甘くはないですよね。でも、私は円加さんと、角一さんというバックアップがあったから、会社でも孤立する事はなかったですし、それなりの結果を出す事ができていたうちは会社の人達とも、上手くやれていました。それが……そのうちに上手く行かなくなってくるんですよね。結果を出すことは円加さんの要請でもあったはずです。でも、結果が出せるようになってくると、円加さんの態度が変わってきました。どこかよそよそしくなり挨拶はしても、私を避けるようになって。勤め始めて最初のレースではフルマラソン初挑戦で一五位でした。私はもっと上位に食い込めると思っていましたが、完走したことを、自分のことのように喜んでくれたのに……私はレースに出る度に順位を上げてゆきました。そして、私が二一歳の時に出場した、糸魚川マラソン。アレが円加さんと袂を分かつ決定的なレースになりました。あのレースは、角一さんも来られなくて、私独りでした。でも、優勝した。二十時間二十九分三十六秒のタイムで。私は、その日は松本へは帰れず、一刻も早く直接、円加さんに報告しようと思っていました。会社の人達にお土産をたくさん持って、でも……」

「でも……」

「円加さんは私に会ってくれようとしてくれなかった。それどころか、本来、喜んでくれるであろうと思っていた会社の人達もそうではなった。私、鈍感でした。いつの頃からか円加さんを追い越していたんだって。私は、円加さんの代わりなんですけど、円加さんを超えてはいけなかったんだ。とても矛盾していますけど。次の日から、私の優勝はなかったことのように、会社はいつも通りでした。仕事が終わったあとの練習も、角一さんは気が入らないような感じで。でも、優勝してから以降、地元の新聞社やテレビ局が取材に来るようになりました。そうしているうちに、全国紙が取材に来たり。全国放送でも私ことが取り上げられるようになって。仕事の合間の取材が続きました。不思議ですよね。そういうときだけ、会社は私を会社所属のマラソンランナー如月美羽として扱うんですよ。でも、実際私は社内で完全に孤立していました。そんな時、私の移籍話が持ち上がりました。私にとって渡りに船でした。居場所がないところで何の感動なく走るよりも、良いと思ったからです。」

美羽は深くため息をつき、コップの水を一口含んだ。

「ちょうど引き際の時期だったと。」

西條はそう言い、何故、海堂円加が美羽に冷淡になってしまったかを美羽に質問をしてみた。

「何故、会社……海堂円加は君から離れたと思う?」

美羽は、うつむき加減でその質問を聞いていた。

「走ることは競技です。競争です。円加さんは負けん気の強い人でした。走れなくなった自分に絶望していたのではないでしょうか?」先ほどとは違い、美羽は淡々と答えた。続けて、「円加さんは、私が知る限り、復帰するためにリハビリは休むことなく続けていました。しかし、私との差は開く一方……そうですよね。私は他人(ひと)の倍は走りました。」そう言うと、美羽は天井を見上げた。

「私は心の何処かで円加さんの下半身が治らなくても良いって思っていたのかも。それを、見透かされた、かな……だからじゃないけど、最後はきちんと挨拶もしないで辞めてしまった。」と、独り言のように呟いた。美羽は気を取り直し、

「で、私は新しい所属先となる、東亜工業へ移籍しました。そこでは、海堂エンジニアリングと違ってすべて破格の待遇でした。所属している選手も私だけじゃない、会社の規模が違いましたからね。私は走ることに集中すれば良い。まあ、走ることに付随することもやりましたけど。」

「というと?」

「マスコミ対応ですね。テレビ出たり、取材受けたり、写真撮られたり、ですね。私、そういうは苦手で。でも、そういう経験があったから、今ここでお話しできているんですけど。」美羽は少し笑った。

「あと、大きく変わったのは、以前は大小関係なく出場できるレースは片端から出ていました。しかし、移籍先はそうではなくて、調整に調整を重ねて、結果が出せるレースだけを走りました。そしてそれには、必ず、十位入賞以上というノルマが与えられました。その中で、今まで走ってきた世界と違う人達とで出会ったりしました。大きな国際大会には外国からの招待選手が出場していまして。あれは、琵琶湖のレースだったかな。宿泊先で一緒になった、エチオピアからの招待選手とお話する機会がありまして。大会の優勝候補でした。彼女の方から悠長な日本語で話しかけてきて。彼女は私より十歳上でした。高校の時に留学で日本へやって来て、大学までこちらで過ごして。家族のために、自分の為に、国の為に走る事を命の糧にするため日本へやって来た事を話してくれました……私は今まで考えたことがなかった。確かに私も走る事は生活に直結していました。しかし、何かを背負うというのは、円加さんの事だけだった。それにその時の私は、そんな崇高な志はなかった。ましてや、国を背負うなんて考えもしませんでした。私は、ずっと円加さんの背中を追いかけていました。それで良かったし、十分だった。でも、会社を移ってからは、ただ、速く走る事だけを求められて、私は空っぽになった。何だかレース前なのに、“負けた”感じがしました。走っている間、ずっとその話の事だけが気になってしまって、メリハリを欠くレースでした。それで、結果はかろうじて九位。私は、大義がなかったんですね。走る事が好きか。と聞かれてもはっきりと答えられない、それが私の弱さ。だからその日から速さだけを目標にしました。練習メニューを増やして一キロでも軽くなれば速いタイムが出るならば、徹底した食事制限をして。しかし、食べないと体力はつかない。でも、食べたくない。そこで考えるのは、食べたら吐いて戻す。それを繰り返す。いつしか私の指には吐きだこが出来きて。」美羽は左手を頬に当てた。西條は、美羽の指先を注視したが、吐きだこは見つけられなかった。

「そうなると、栄養が摂れなくなって、血液を作れなくなると……」

「無月経……」西條が続けた。

「そうです。無月経。一番アスリートがなってはいけない悪循環に陥ってしまいました。それでも私は走ることを止められなかった。速く走りたい、それだけ。そうでも思わないと、モチベーションを保つ事ができませんでした。わたしは、私は、大義がなかったから……勿論、結果がすべてです。速いタイムを出すことは命題ですけど。」美羽は少し取り乱しながら話をした。その後、落ち込んだようにうつむいた。西條が、

「今日はそろそろ終わろうか。君も疲れたでしょう。」

「いえ、大丈夫です。」美羽は西條の申し出を打ち消した。西條は“いいよ”という顔をした。美羽はその顔に小さく頷いた。

「すみません、あと少しで終わりますから。」

西條は沙織を呼んで、二人の前に並んだ空いた皿を片付けてもらった。

「コーヒーのおかわり。君は?」と、美羽に聞いた。

「あ、私は良いです。」と断った。

しばらくすると、沙織は西條へコーヒーのおかわりと、美羽に温めたミルクを持ってきた。沙織が、

「長くお話していると口も乾くし、少しリラックスすると思って。」と美羽に言い聞かせるように言った。

「すみません、ありがとうございます。」美羽は、礼を言った。沙織の心遣いが嬉しかった。

沙織が下がると、二人は少しの間、無言の時間を過ごした。

「続けても。」西條が聞いた。

「はい、大丈夫です。」美羽が答えた。

「はい、 それがきっかけで、私はめっきり体調を崩し、怪我を繰り返すようになりました。」

「スランプだ。なんだっけ、イップス。」西條は確認するように美羽の顔を伺った。

「ええ……。そうですね。立ち直る事がないイップスでした。でも、走らなければならなかった。私を支えてくれているスタッフのためにも。しかし、現実はそうはいきませんでした。結果を出せないならば、解雇されます。度重なる怪我とそれによる調整不足によって、成績は落ちて行く一方でした。そうなると、私も意固地になって、周囲の言うことなんて聞かなくなってきてしまう……調子が良ければ良いで、今の自分は正しいと思い込み、他人の言うことを聞かないから、面倒臭いですね。人間って。私か面倒くさいのは。でもね、当時はそんなこと判りもしませんでした。」美羽は急に、塞ぎ混み気味だった顔を上げて、目を見開いた。何かに気づいたようだ。そして、後悔の念を顔に出し、つぶやいた。

「そっか……」

「何か」西條は聞いたが、答えなかった。美羽は肩を落とし、しばらく黙りこんだ。

どれくらい、沈黙が続いたのだろう。恐らくそう長い時間ではない。今まで、話しっぱなしだった美羽が、電池が切れたように静かになった。

「大丈夫。 今日は止めにしようか。」西條は聞いた。すると美羽は、ゆっくりと顔を上げた。目に涙を溜めていた。その涙が頬の美しいラインを放物線を描いてスッと流れた。

「そのあと、ご存知と思いますが福岡のレースで私は、倒れます。」

西條は、動画共有サイトでみた福岡国際マラソンの美羽を思い出した。身体全体に栄養が行き渡っていないやせ細った美羽の姿。

「あのレースは悲惨でしたね。周囲の人達は痩せてしまった私を心配しました。レースに出ないように止める人もいました。でも、私は出場を強行しました。それは酷いものでした。人前であんな姿を晒すことになろうとは。五キロ過ぎた時点で、集団から離され、十キロ手前で吐瀉をしてしまいました。立ち上がって走ろうにも起き上がれる力もなく、やっと立ち上がっても歩くのがやっと。あれ、テレビ中継で流れたんですよね。急に生理が起きてしまい、血が止まらなくなって。倒れて気を失いました。最初に助けてくれた人って、私のスタッフではなくて、自分の孫が出場するからと、観戦していた地元のおばあちゃん。後から救護の人達が病院に運んだらしく、気がついたのは、ベッドの上でした。丸二日間寝ていたらしく、目が覚めると傍らに、母がいました。普段、私が走る事をあまり快く思っていなかった母とは当時、上手くいっていませんでした。でも、その時はとても嬉しかったな。まさか、福岡まで母が来てくれているとは。母はテレビで家族と観戦していて、私が倒れた姿を見て直ぐに駆けつけてくれました。そういいながら、美羽は指先で目尻の涙を押さえた。

「お母さんの腕の中で泣いたっけ。あんなに泣いたのは初めてだったな。お父さんが死んだときでさえもあんなには泣かなかった。それから……」

美羽は自分の鞄からハンカチを取り出して目元をぬぐって、

「ごめんなさい。」

西條に謝った。

「その時、母は……“私に、もう十分走ったわ。少し休みなさい。”と言いました。余計に泣けてきちゃって。」と、声を詰まらせた。

「会社は私が辞める時には留意しませんでした。ま、広告塔があんな醜態をさらせば、早く厄介払いをしたかったでしょうね。だから、退社時のときは寂しいものでした。海堂エンジニアリングを辞めるとき以上に。あのときは受け入れ先が両手広げて待っていたというのがあったので、悲惨さなんて微塵もなかったんですが……しかもその後、それまでマラソンだけしかやってこなかった私は世間を知らないも同然で、外に出るのが恐ろしくて、ましてや、福岡のレースはたくさんの人に見られていたので、辞めてからしばらくの間は再びひきこもりになってしまいました。実家には、兄夫婦がいて、祖父母がいて、母がいる。家族は私の立場を理解してくれていましたが、客商売です。お客さんには私の事聞かれる事もあります。私はそれが嫌だった。同情の声だけではなかったから。同情の声も嫌でした。だから、家に居なかった。少し、それまでの貯えがあったから、それで、近くにアパートを借りていました。私は逃げ回っていました。そんな日が続いたある日……あの未曾有の大地震が起きたんです。」

「と、いうと、東日本大震災。」

「はい。私がいた松本は震度四程度で済みました。あまりテレビを見なかった私でもあの日は地震が起きてから、ずっと釘付けでした。津波にすべてが流されて行く様子に固唾を飲んだのは私だけではないはずで、何て言うか、心が、魂が揺さぶられました。その日は気持ちが落ち着かなくて眠れなくてずっとテレビを見ていました。知り合いでもなんでもない行方不明の人たちの名前が発表されるのに釘付けになりました。同時に、私は生活そのものを失った訳じゃないけど事に気がついて、気持ちを立ち直させることが出来ました。

連日テレビでは、被災地の様子や、津波によって車や家屋が流されて行く様子が垂れ流しにされて、恐らく、皆があの惨劇に辟易していたと思います。私は違った。あのギラギラとした気持ち、少し考えると、とても恐ろしい。一週間位ギラギラした気持ちが押さえきれずにいて、私は被災地に向かいました。て言うか、気がついたら被災地にいました。あの行動力は何だったのだろう。」美羽はどこか焦点が合わない虚ろな表情をしながら言った。

「不思議です。」

「不思議……」西條は復唱し美羽に尋ねた。美羽は静かに頷き、

「ギラギラした気持ちが何だったか、被災地に行ってわかったような気がしました。私、それまで、死に体でした。最後のレースからずっと……いいえ、その前から、気持ちはとっくの前に死んでいました。被災地では、私が何処の誰でも構わなかった。被災して避難している人達は、誰でも良いから助けを求めていました。そんな人達に、手をさしのべることで、私は安らぎを得ました。要するに、はしゃいでいたんですね。

避難所には、家族や大切な人が家屋や建物に押しつぶされたり、津波で流されたりと、財産もたくさんの思い出を失った人たちがたくさん……たくさんいて、でも、私がはしゃげばはしゃぐほど、そういう人達に感謝されて。私は、正直に言いますと、楽しかった。生きているという充実感で満たされていました。将来の仕事まで見つけて。」

「将来の仕事というと、今現在の看護師の仕事。」

西條はそう言うと少し考えた。善意ある行動ではしゃぐのは悪いことなのかと。美羽の言葉にはそう言うニュアンスが含まれていたが、その行為は慈愛であり、高貴なのだ。西條はそう思いたい。だが、美羽の言葉はそれを否定していた。西條は戸惑った。

「そうです。被災地で、医療ボランティアとして来ていたのが、今の医院長、藪原先生と、看護師さん、あと、美穂子ちゃん。まだその頃は大学生でした。あの、小さくて、可愛い娘。」

「ああ、あの娘ね。」西條は半分思い出したか出さないかの状況で返事をした。話の流れを切りたくなかった。

「あの出会いは今の私を作ってくれました。被災地で二週間。一緒にボランティアに参加した人達は一週間ほどで帰りましたが、私は余計に一週間。その間、医院長や美穂子ちゃん達の跡をついて回って。まるで夕飯の用意をする母親のお手伝いをするのをせがむ子供のように。美穂子ちゃんとは馬が合いました。夜は同じ部屋で、いっぱいお話をして。美穂子ちゃんは私の話を目をキラキラさせて聞いてくれました。そしてこれからどう生きようか迷っている話もしました。そうしたら、その話を医院長に話したらしいんですよね。美穂子ちゃんが。そしたら、帰り際に、先生が、「人生に迷っているなら人助けを仕事にしなさい。」と言いました。私はその意味がよくわからなかったのですが、私は、決心して、そこで宣言しました。“看護師になる”って。それから家に帰りました。私はすっかり元気になっていました。そして、すぐに、資格を得るための必要なことを調べました。残念ながら実家の近所に学校はなかったのですが、比較的安い金額で入学できる学校が同じ県内にありました。そして、自分の貯蓄額と検討して、足りない金額を工面するために、すぐに短期でできる仕事を調べました。そして、市内にある精密機器の工場に務めることが出きて、働いて得たお給料はその資金とするために貯金をしました。ここまで家族には相談しませんでした。それまで、抜け殻のような私を心配した家族は、ボランティアから返ってくるなり、我武者羅に猛進する姿を半ばあっけにとられてみていたと思います。でも、そんな私を見て、安心したのでしょう。何も言いませんでした。そして、年が明けて、三月になり私は初めて自分の将来のプランを家族に話をしました。家族全員は特に反対はしませんでした。四月になり寮に入り、専門学校へ入学しました。どうしても、ためたお金が足りそうになかったときは、アルバイトをして生活に当てました。三年間、夢中で勉強しました。自分の人生を立て直すのに夢中になった。また、もう誰も頼れないと思っていたから必死だったからかもしれません。そして無事、試験をパスし、看護師資格を取得しました。四年間は充実していました。学校では以前の、私を何か言う人はいませんでしたし。そして上京しました。しかしその上京にあたっては、家族会議になりました。母は大反対をしました。母は私のやることに常に懐疑的でした。母は、「これからは、地元で就職をして、なるべく近くで暮らし、なるべく早く結婚を。」と。母は実家から離れたことがない人だったので、上京するって想像できないことだったかもしれません。私は、その反対事態、織り込み済みでした。それでも私は、は諦められなかった。松本を出て、上京し、被災地で出会った人達と一緒に仕事がしたいって。祖父母と、兄夫婦を説得して、それからやっと母も納得してもらって。でも、母は完全に納得していない様ですね。今は結婚相談所に通って私の相手探しに夢中らしくて。」美羽はそっと、笑顔を向けた。話はここで終わった。「ありがとう。若くて人生を話せる人って少ないから、とても興味深かった。」西條は礼を言った。

「いえ、なんか、話しすぎてしまって。」美羽は謙遜した。

「そんなことないよ。最後に、聞いて良い。」

「はい。」

「どう、後悔はない。」

「後悔……か。」美羽は少し考えた。

「勿論、ないわけじゃありません。上手く行かなくても、何とか生きないと、死んだ父に申し訳ないですし。」やや、困惑したように答えた。

「あれから、海堂円加には。」

美羽は、西條の質問が不躾に感じたのか、うつむいて首を横に振った。

「わかりません。」

「ありがとう。」改めて、西條は礼を言った。そして、この後に、友人、関係者に取材を入れるかもしれないと、断りを入れた。本になるのは無理かもしれないが、メールマガジン等でこのインタビューを発表するかもしれないと説明をした。美羽は黙って聞いて、最後に静かに頷いた。

「構いません、中学の事件の話さえ記事にならなければ。あと、西條さん……」

美羽は振り絞るように、呼びかけた。

「何でしょう。」西條が返事を返すと、

「私を刺した娘の足取りが判れば、もし今でも元気でいてくれたら、それだけで良いんで……」

「いいでしょう。探し出すまでは約束できないけれど、頑張ってみますよ。」と返してから、西條は鞄から茶封筒を取り出し、

「これ、少ないけど、今日の取材料。」と言って美羽の前に差し出した。美羽は、慌てて西條の顔を見た。

「すみません、よろしくおねがいします。あと、こんな話に、本当に良いんですか?」戸惑った。

「約束だから。でも中身を見てガッカリしないでね。」と笑った。

「申し訳ありません。お言葉に甘えて。」と、美羽は大変恐縮したがそれ以上遠慮はしなかった。西條は先程のインタビューから比べて美羽の他人行儀な態度が気になったが、懐かしい自分の人生の話が終わり、我に返ったのだろう。

 美羽は、身支度を整えて、立ち上がった。西條もそれに続いて、立ち上がった。二人は頭を下げあった。美羽は、カウンターの沙織に勘定を頼むと、沙織は、

「コーヒーは、私とマサくんのおごり。ケーキは私のおごりね。他に何かあったかな。」とはぐらかし断った。美羽は、西條を見た。西條は手を上げ、仕草で沙織の意見に続いた。

「ありがとうございます。素敵なお店ですね。今度また伺います。」と沙織に言った。

「ええ、いつでもお待ちしているわ。」と沙織は返した。最後に、西條に、

「何故、私を取材しようと思ったんですか?」と聞いた。西條は、

「君は僕を助けてくれたんだ。それは理由にならないかな。」と言った。美羽は何も言わず、再三、二人に深々と礼をし、店を出たが、再び戻り、

「西條さんの本、読ませて戴きました。実際にあゝいうことって起きるんですね。ドラマの世界のことだけだと思っていました。」

とやや大きめな声で言い、頭を下げ出て行った。その大きめな声で西條は少し呆気にとられた。

沙織は、西條の下へ行き、空いた皿とカップを片付けながら、

「潔癖で高潔。苦境のときでも自分で道を切り開く強さ。強い娘ね。マサくんと似てない?」と言った。西條は、打ち消すように、

「僕は、ただ流されて来ただけだよ。流れにあらがう強さなんてないよ。」と返した。

「そうかしら。」


「西山に登り 薇を采る

暴を以て暴に易え その非を知らぬ

神農・虞・夏忽焉として没す 我いずくにか適帰せん

于嗟徂かん 命の衰えたるかな」(伯夷・叔斉)


西條はそうつぶやいた。

「何、それ。」

「儒教では聖人と云われている兄弟の辞世の句さ。高潔過ぎる故に王になれず、最期は国が滅んで最後は餓死してしまった。高潔だからって、それだけでは生きられないだろ。」

「そうね。何処かで折り合いをつけないと。」

「彼女、運が良かったと言っていたけど、何かそれだけではないんだよな。」

沙織はしばらく考えてから、

「自分でした選択が必ずも自分だけの考えだったわけじゃない、じゃない。きっと、そうなるように神様がそうさせたのよ。」

「そういうもんかい。」西條はその答えに不満そうに答えた。

「そうよ。そういうものよ、世の中って。」

「それにしても、お客さん来ないね。」西條は店内を見渡していった。

「今日は定休日なの忘れた。マサくんが開けて欲しいって言うから開けたのに。」

「あ、そうだったっけ。」

「そうよ。」沙織はいじらしく言った。

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