第21話

「えっと、そうですね。私と円加さんの再戦は思っていたよりも早く実現しました。私の悲惨なデビュー戦を飾った市大会が終わってからしばらくして、中信大会を一週間前に控えた市内の高校四校を交えた練習大会でした。場所は市大会と同じ。私は再び、一万メートルに出させてもらうことが出来て。て言っても、先輩と顧問の先生に頼み込んだんですけどね。」

「気合が入るね。それは。」

「もちろんです。あのときは少し前のめりだったかな、私は。だいたい一年生は九月の新人戦で大会デビューをする人が多いんです。私も次のレースは新人戦だと思っていたのですが、この合同練習には必ず円加さんが参加するってわかっていたので。前回のレースから僅かな練習期間でしたが、その成果を試したかったですし。あと、円加さんに自分の存在を知ってほしいって思っていましたし。」

「知ってもらう?」西條が聞き返した。

「まるで、アイドルですよね。でも、たしかに円加さんは私にとってアイドルでした。円加さんの周りには必ず何人か付き人みたいに女の子がいて、そこに近づけない雰囲気がして、それもアイドルっぽい感じに見えたのでしょうね。レース前に挨拶しようと近づいたら、その女の子たちに制止されたんです。もちろん、円加さんは私の存在に気付く素振りもなく行き過ぎてしまいました。おいそれ、近づけない感じで。中学時代見た、デジャブですよ。」最後、「なんかね。」と吐き捨てるように言って、ケーキを一口入れた。

「だから、存在を知ってもらおうと……」

「そうです。」

「で、結果はどうだった?」

美羽は最後のシフォンケーキのひとかけらをフォークで転がすようにしながら、「良いところまで言ったんですけどね。」と言ってから、その最後のひとかけらを口に運んだ。なかなか良い食べっぷりだった。

「序盤からレースを作ったのは円加さんで、みんな円加さんについて行く感じでした。私は、円加さんを追いかけること四番手だったかな?今回はちゃんと円加さんについて行くことが出来ました。」

「練習の成果だね。」

「はい。その時、ついて行くことが苦にならなかったことで実感しましたね。わずかですが成長ですかね。」と笑った。

「ラスト二周になって、いつしか私は二位につけていました。目前に円加さんの背中を捉えたのです。でも、そこから並ぶことが出来なくて、それが実力の差。円加さんは目前なのに、レースのペースを作ることが出来ない。これは完全に経験の差が出ましたね。ただ……」

「ただ?」西條が続いた。

「……円加さん、円加さん、最後の最後でペースが乱れ始めて。私、いつの間にか海堂円加ウォッチャーになっていたんですよね。眼の前は円加さんしかいないわけですし。」と笑って「これは行けるかも。」と思って少しペースを上げたんです。しかし、実は私にも余力ありませんでした。円加さんに並ぶのが精一杯で。やっと、並んで、円加さんの顔を見ました。辛そうな顔をしていました。私は、一瞬追い抜こうか迷いました。」

「迷った?」

「はい。迷うって変ですよね。競争しているのに。勝てるかもしれないのに。円加さんは私が並走していることさえ気付いていなかったと思います。私は気を取り直して、追い抜こうと思いました。そしたら、円加さんが私の方へよろめいて一緒に……」

「倒れた……」

「はい。後になって考えると、そうですね。」

「というと?」

「あの時、あれからしばらく経っても、あの転倒は、私が円加さんと接触して起きたものと思っていました。あの瞬間を見ていた人たちの大部分も。そう思っていたはず。でも、違ったみたいで。」美羽は、記憶を手繰り寄せながら当時の自身の気持ちを表情で作って見せながら、

「とにかく、私たちはその場に転んで倒れました。私が気付いたときには円加さんはぐったりとしていて意識がないように見えました。そこへ、円加さんのお兄さんや周囲の人たちが飛んで来ました。」

「そうしたら、雨が降ってきて。少し遅れるように、私の元へもコーチや先輩達もやって来て。私は自力で立ち上がりましたが、右足首を捻挫しました。」と言いながら西條を見た。西條も、自分の足を気にした。

「円加さんはお兄さんや、周りの問いかけにはあまり反応がなくて、呻くようにしていました。すぐに担架で運ばれて行きました。私は、それをただ見送ることしか出来なくて。コーチは「気にすることはない、よくあることだ。」と慰めてくれて……先輩や部員のみんなは、あの海堂円加に詰め寄れたことを褒めてくれて、でも私の気は晴れませんでした。帰り際には円加さんの取り巻きの人たちに呼び止められて、絡まれそうになったのを、円加さんのお兄さんに諭されて、事なきを得て。その時の私は、お兄さん、角一さんに、謝ることが精一杯で、私から円加さんの容態を聞くこともできなかった。」

「謝った時に、お兄さんはなんて言っていたの?」

美羽は、声のトーンを少し落として、「“大丈夫だから、心配しないで”とだけ、言ってすぐにその場を離れて行ってしまいました。」

そう言うと、

「あの転倒がなければ、私にとって海堂円加はずっと遠い世界の人で知り合うことがなかったのかも。」と続けた。

「じゃあ、」と西條が言い始めたところ、美羽は先回りして、

「実際、私の怪我は幸い大した事なく、すぐに回復しました。あの合同練習から一週間位経って、私のもとに千絵から知らせが届きました。円加さんが入院しているって。何故、千絵がそれを知り得たかはわかりませんが、私は、円加さんのことはずっと気になっていました。もし会う機会があったらどうやって謝ろうかってそればかり考えていたんですが、でも自分から円加さんの元へ行くって勇気がありませんでした。でも、一週間も入院っていうのが気負いになってしまいましたが、千絵が“行け”って後押ししてくれて。あとは勇気でしたね。」

「持つべきものは親友だ。」

「ええ、そうですね。千絵は、私のターニングポイントには必ずそばにいるか、良い助言をくれます。それに、千絵はお見舞いを必ず用意するようにとアドバイスしてくれて。それまで私、そういうのに全く気づかなくって。お小遣いを持って、病院へ行きました。近くのお花屋さんでお花を買って……

病室へ行くと、円加さんは、個室にいました。窓の外を眺めていて、しばらく私の存在に気づかなかった様子でした。それから気付いて少しびっくりした様子でした。しばらくして私が、あの時一緒に倒れた人だってわかったらしく、少し表情をこわばらせました。私からずっと視線をそらさない円加さんに私は、急に申し訳なくなってしまい、目一杯頭を下げて謝りました。そうしたら、円加さんはケタケタと笑い始めて。「顔を上げて、この間のことは気にしていないから。」と言ってくれました。その後「あれは、あなたのせいじゃない、私が意識を失って勝手に倒れたこと。」と言って逆に謝り返されました。それから互いに自己紹介をして、私は、持ってきたお花を生けて、でも、円加さん、三日後には退院で、今回は検査入院だった様で。円加さんが言う通り、レース中に倒れたのは貧血で意識を失ったのが事実で、その検査も兼ねていたらしく、私は安堵しました。円加さん、入院初期は、クラスメートや部活の仲間が来てくれて暇をしなかったけど、後半になると誰も来なくなって暇をしていて困っていたそうです。あのときの私と同じですね。そこへ、入院のきっかけを作った私が現れて、と、言うより待っていたのかな。私が来るのを。」

「待っていた?」

「はい。何か、円加さんの言葉にはそういうニュアンスがありましたね。」美羽はそう言うと、気づいた様子で、「そうか、千絵だ。」と呟いた。

「親友がリークさせたんだね。まるでフィクサーのようだね。」と西條が感心して言った。

「本当のところはわかりませんが、今となっては、千絵本人も忘れていると思いますし。もしかしたら、もしかしたらで。」と、美羽は笑ってみせた。

「あの日は、暗くなるまで、二人でお話しました。そのほとんどが、陸上のことだったかな。円加さんは物静かで、あまり多くを語らない人でした。ただ陸上のことになると違いました。あの日は私が色々質問して、円加さんが答えるって感じで。とても誠意と情熱を持って私の質問に答えてくれて。それから、円加さんと頻繁に連絡を取る様になりました。」

「あこがれの人がグッと近づいた感じだね。」

美羽はその質問を答えるのに間をおいた。

「ちょっと違います……円加さんは他の人を寄せ付けない孤高の人だった。彼女のお兄さん、角一さんとはとても仲がよくあの二人の世界には誰かが入ることなんて出来ないって、私だけじゃない、円加さんの取り巻きの人も言っていました。円加さんはお兄さんのこと、大好きでしたから。それは傍から見ていてもよくわかりましたし。そう、その時に円加さんが入院中に角一さんを紹介されました。その時はその後、この人達の下で走るなんて想像もしていませんでしたが。それでも、他の人達よりは、ほんの少しだけ円加さんと私は仲良くなれたんだと思います。円加さんが退院してから、二人揃って、一般参加のマラソン大会にエントリーして、休日は、地元の河川敷で一緒にランニングをして。角一さんもそれには驚いていましたね。「円加は他の誰ともはこうやって一緒に走ったことがなかった。」って。」

「認められたんだ。」

「そうだったら嬉しいんですけどね。でもその当時はそう思っていました。さっきもお話しましたが、でもちょっと壁みたいなものもありましたけどね。私の高校時代の目標は円加さんに少しでも近づき、追い抜きたい。でも私は円加さんに一度も勝つことが出来ませんでした。やっぱ、そこには才能の差があって。その後、円加さんは高校を卒業して、大学には行かず、そのまま角一さんの下で走り続けます。角一さんと円加さんのお家は、自動車部品や工作機械の部品を作る工場を経営していて、二人共そこで働きながら、時間を見てトレーニングするって感じで、実際は殆どの時間、練習していた様ですけど。」

「実業団だ。」

「そうですね。多分あの二人は、自分の実家が会社経営してなくても、市民ランナーの様な形でフルマラソンレースに出たでしょうね。特に角一さんは駅伝を嫌っていましたから。」

「嫌っていた……自分が駅伝のスターだったのにも関わらず……」西條は考えた。美羽は補足するように付け加えた。

「駅伝の形態が、日本にしか存在せず、半ばガラパゴス化していて、それが、フルマラソンに対応する身体作りが出来ない、というのが角一さんの考えでした。それは、角一さんが身をもってそれを経験したことから考える哲学みたいなものでした。結局自分でやりたいこと、フルマラソンで結果を出せずに怪我に泣いて競技人生を早くに閉じなければならなかった事への反省みたいなものがあって、円加さんにはその轍を踏ませないためだったんだと思います。私もそれは支持しました。国内だけのしがらみに囚われて、本来のパフォーマンスを発揮出来ないレースを続けるよりも、いっそ、そういうものを捨てて、世界で戦う。それは間違ってないって、今でも思います。」

西條は美羽の自説、海堂角一の受け売りを黙って聞いた。このことについては門外漢なので、西條は自分の意見は差し控えたが、気なることがある。そこについて回る、お金の問題である。いくら優れた才能を有していて、高い理想があるにせよ、それを維持してゆくだけの予算が必要になってくる。

「あとはお金ですね。」美羽が言った。美羽もそれをよくわかっていた。

「円加さんは恵まれていました、いたと思います。会社経営するご両親がそれを許したんですもの。すべて揃わないにしても、時に、お金の心配はしなくても。円加さんのお父さんの会社、結構大きな会社でしたもの。それに会社としては、それなりの宣伝効果も考えていたらしいですし。それに円加さんは角一さんの叶えられなかった夢、オリンピックに出るって夢を実現させるために、円加さんはそれだけ角一さんのことが好きだったって思います。兄妹とか関係なく。でも……」

「でも……」

「円加さん、十九歳の時、練習中に、若年性の脳梗塞で倒れまして、幸い、一命をとりとめたものの、半身が麻痺してしまい、走れなくなったのです。」

美羽は視線を落とし、

「円加さん、悔しかったと思います。それ以上に角一さんも、そうでしょう?」美羽は悲しげな目をして西條を見上げる様に見た。

「怪我で引退を余儀なくされた角一さんは、当時、相当荒れたそうです。引きこもりみたいになって、昼間からお酒に溺れて。家族にも辛く当たったらしいです。円加さんはその姿を見るのが辛かったって聞きました。荒んだ、角一さんを救うために円加さんは陸上を始めることを決意したそうです。だからこそ、悔しかったと思います。」

「君はどうしたの、その時?」西條が質問した。そして、思った。これは美羽そのものの歩んだ人生と重なる。

「私は、円加さんが手術して一般病棟に移ってから、部活が終われば、最終のバスがなくなるまで、退院するまでずっとそばに付き添っていました。もうその時は三年生でしたし、部活動も辞めて、大学に進学する人達は受験モード。私も類にもれず、大学へ行くつもりでした。私、円加さんほどじゃなかったものの、陸上で結構良い成績を収めることが出来たのでスポーツ推薦で。それが、円加さんが退院してからしばらく経って、円加さんと角一さんに呼び出されて角一さんのコーチングの下、円加さんの代わりに走って欲しいって頼まれて…… 最初、私は、大学へ行っても陸上を続けるってことを伝えたんですけどね。」

「でも、その申し出を受け入れた。」

「そうなんですよね。家族会議にもなりましたし、学校でも問題になりました。学校側は顔に泥を塗られた気分だったでしょうね。家族は、特に反対をしたわけではなかったんですが、特に母は、就職先が決まったようなものと喜んでいましたし。でも兄が心配して。兄は、自分の将来を自分で決めたとはいえ、それまでやっていたことを、方向転換せざるを得ない生き方をした人でしたから。いくら、大学へ行かなくても、陸上を続けるとは言え、進路そのものを変えることですもの。でも私は、海堂兄妹の熱意に負けました。でも、そうじゃないないな、私は円加さんに恩返しができればと思ったからかな。」

「恩返し?」

「はい、円加さんは、車椅子の生活になって以来ずっと元気をなくしていました。そもそも、私は円加さんに出会うことがなければ、走ることを続けられなかったかもしれません。いえ、とっくに部活動も辞めていたでしょうね。円加さんとの出会いが、私の高校生活は思っていた以上に華やかで充実したものになりました。だから、円加さんに恩返しをしたいって。ホント、若いときって後先考えませんね。一番の懸案だった学校へは角一さんが話をしてくれました。」

「当時、クラスメイートや親友は何て言っていたの?」

「私のクラスで進学しない人は、ほぼいませんでしたからとにかく驚かれました。でも、千絵は、卒業したら語学留学でイギリスへ行く事が早くから決まっていて、お互い、しばらく会えなくなることはわかっていました。私が進学をしないで就職して走る事を続ける事は、特に驚きもなかったですね。その時の千絵は、自分の将来のことで、私の事はあまり気に止めなかったのかと思っていました。私自身、どちらかと言えば、三年間、ずっと部活で、特に円加さんと知り合ってから千絵とはあまり関わりが少なくなった。決して、疎遠になっていたわけではないけれど。でも、留学する前の日に、家へやって来て、泣かれたなあ。私も一緒になって泣きました。なんだか急に寂しくなってしまって。話したいときにはいつでも電話で話せるのに。それでも、近くにいないってさみしいですね。今では便利になって、世界が小さくなって簡単にお話ができるのに。でも、あの日はそんなんじゃなかった。」美羽は当時を懐かしんだ。

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