第19話
「そこから、如月美羽の陸上競技人生が始まるのは。」
「競技人生だなんて。」と謙遜した。
「それが、最初の二ヶ月は全くと言っていいほどやる気がなくって。ない、というよりは、ついて行くことができなくて。体力にはソコソコ自信はあったつもりだったのですが、身体が訛っていたのでしょうね。それだけじゃないですね。何よりも楽しくない。面白さを見出すことができなくて。私の他に入部した仲間たちは、みんな中学では陸上部って人たちで、未経験者は私だけでした。だから、皆はそれなりに基礎はできているんです。そこへついて行くのだけでも大変で。それに私は陸上部でどうしたいか全然考えてもいなくて。実は先輩達も私の能力を図りかねていたようです。あの、ひったくり逮捕は、まぐれだったのかと。また、私は入部したものの、いつ辞めようか なんてばかり考えていました。」
「でも、辞めなかった。」
「はい、きっかけなんてとても単純で、昔のスポコン漫画のようです。」と笑いながら、「あれは、初めて大会に連れていってもらったときです。一年生は、大会に出場できることなんてよっぽどのことがない限りないのですが、私も例に漏れず、緒先輩方の応援という名の雑用で連れていかれて、もうそれが堪らないくらい嫌で仕方がなかったのですが、そこで、運命と言うか、宿命的な出逢いがあったんです。」美羽は少し伏せ目がちに話を続けた。「海堂角一という人、ご存じですか?恐らく、西條さんと同じくらいの年齢だったと思います。」
西條は自分の記憶の箪笥から「海堂角一」という名前を探した。しばらくすると、記憶の箪笥の奥底からその名前が入ったファイルを取り出すことに成功した。
「ああ、懐かしい名前だ。丁度僕は大学生だった。僕が出た大学はそれほど駅伝が盛んではなかったが、彼の名前は年の瀬、正月なると聞かないことはなかったな。でも、実業団では奮わなかった。彼は長引くケガで辞めたと記憶しているが……その、彼に会ったの?」
「そうなのですが、当時、私は角一さんのことをよく知らなくて、それに角一さんじゃないんです。出逢った相手って。」美羽は親しげにかつての箱根のスターの名前を言いながら、懐かしむ表情をした。
「と、いうと?」
「角一さんには妹がいて私の一つ上で名前は、まどか、“えん”に“くわえる”って書いて円加、海堂円加さん。」と丁寧に説明した。
「それまで陸上の良さを見いだせずにいた私にとって円加さんとの出逢いは今までにないものでした。一言で云うならば、円加さんは美しい。」
「美しい。」西條は復唱した。美羽は復唱にゆっくりうなずき、それまでなかった輝きを放ち始めた瞳を西條に向けた。
「私、今までそういうこと、人の走る姿に感動したことがありませんでした。でも、トラック外周を走る円加さんを目撃したときに、鳥肌が立ったのをよく覚えています。感動しちゃったんですね。」と言うと、最後は少し照れてみせた。
「そして、私の方向性決まった、そんな風に思いました。次の日、早速、部長と顧問のコーチに直談判して私を中距離にしてほしいと願い出て。私の目の色の変わり様に皆が驚いていました。それまでみんながわかるくらいまったくやる気を見せなかったんですものね。それからかな、部活が楽しくなったのは。中学の時以上に部活少女になって。だから、最近言われているような部活の是非って解らなくて。西條さんはそういうの、専門でしたね。」美羽は西條に水を向けた。
「専門ってほどじゃないけど、自分の経験を言えば、僕は私立校の教員だったから、顧問をやりながらも部活動に拘束されることはなかったんだ。学生時代は剣道やっていたので、学校に剣道部があれば顧問をやらされていただろうけど。今は、受け持つ生徒の数は減っているのにもかかわらず、皆が忙しくなって、教師もやることが増えた。細密化してしまったんだ。あらゆることが。今の大人達に余裕が無い。多分ね。明言は避けるよ。今を取材した訳ではないから差し控えるけどね。」
西條は迂闊なことは言えないと思った。すると美羽は、
「ところで、西條さんは何部の顧問をやられていたのですか?」と質問をした。西條はその質問に少し戸惑いを見せた。
「答えなきゃいけない?その質問。」と聞き返した。西條は美羽が自分の著書を読んでいないのだろうと思った。恐らく関心がないのだろう。それはそれで構わないと思った。
「手芸部。」少しためらったが、西條は答えた。美羽はその答えに満足そうに笑った。西條は“やられた”と思った。知っていたのだろう。反面、きちんと自分を知っていてくれて少し嬉しかった。
「手芸部といっても、生徒に何か教えることはできないから、家政の先生と二人でね。今でも鍵編みはできるよ。教師になって覚えた事のひとつだよ。」と笑った。「覚えたからって今でもやっているわけではないけどね。」と言うと、美羽は笑顔で聞いていた。無骨に見える男からこのようなことを聞くのが楽しいのだろう。美羽の職場には様々な人が行き交う。だからこのような意外性が、刺激の一部になるのだろうと西條は考えた。西條は笑った。美羽はその笑いに自分が全く他意のない質問をしてしまったことに恐縮した。
美羽は「すみません。」と口をついた。
「構わないよ。解るから。」西條は優しく言った。美羽は「えっと、」戸惑いを見せた。
「本当にすみません。お話の腰を折ってしまって。それから……そんなに時間がかからずに円加さんと一緒に走れる機会が巡ってきました。一万メートル走に私が出られることになって。実は先輩の一人がエントリーしていたのですが、直前に怪我してしまいまして、代わりに私がエントリーすることになりました。上位に食い込めれば中信大会っていう大事な大会。ほぼ陸上経験が無い私に。だからって言ってこのチャンスを逃すわけには行きませんでしたね。憧れの海堂円加と一緒に走ることができるっていうだけで、私の気持ちは舞い上がっていました。大会まで、授業なんて身に入らない。」と笑った。
「で、どうだった。」西條は結果を促した。
「それが、運良く、円加さんと同じ組み合わせで走ることが出来まして、それだけでも嬉しかった。でも、まだ競争っていうレベルでは全然なくって、自分のペースを守りながら走る事も出来ない。その間に円加さんはどんどん先へ行ってしまう。でも、周りのペースには付いていかないといけないと思うと、自分のペースは守れない。結局私は円加さんから一周半遅れること十二人中、十位。」
「完走はできたんだね。」
「一応は。でも私にとって苦いデビュー戦になってしまいました。そう、走り終えた円加さんは精々としていました。まだいくらでも走れるって顔をして。その姿が、とても悔しかった。経験や実力で言えばとんでもないくらいの差があることは解っていたつもりですが、とても悔しかった。それだけ何も知らなかったんですね。」と、はにかんだ。「それからというものの、私は、周囲が心配するくらい、練習に打ち込みました。円加さんの走っている映像を入手して、フォームを自分のものにするために研究して、とにかく、全く走り込みが少ないから、走る量を増やして、それまでは、自転車通学だったのを徒歩に切り替えて、徒歩といっても走るんですけど。それから、誰よりも早く朝練。みんなが集まる前に校舎外周を二周。そこまでで、登校の距離も含めて約七キロ。放課後の練習を含めれば、一日、約十六キロ。下校は千絵が待っていてくれるので、一緒に下校。不思議と疲れなくて、帰っても、筋力トレーニングのために腹筋、腕立て伏せ三十回をセット、休みの日にお出掛けしても意識的に階段を使うようにして。今考えると、相当ストイックでしたね。走ることが仕事になってもそこまではしなかったな。」と言うと、水のおかわりを頼んだ。
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