第17話

 暫くして、千絵の転校生効果も落ち着いた頃、一学期が終わる頃かな、事件が起こりました。期末テストが終わって休みまであとわずか、みんなの気が緩んでいた頃、私は、夏の水泳大会の練習がメインで授業なんてあまり身に入らない状況でした。そう、あれは……美術の授業でした。美術室で着席する順番はいつも入室した順で、その日は初めて千絵と隣同士になりました。その時かな、初めて千絵と会話らしい会話したのは。何、話したんだっけな……あ、「水泳の大会頑張ってね。」って声かけられた。もうその時はクラスだけじゃなくて学年のアイドルみたいな存在だったから、「私の事、知っていたんだ。」って感じで感激しました。なんだか少女マンガみたい。でもそのくらい千絵にはオーラがありました。よく祖父がお客さんを見て、「あのお客は毛並みが違う。」なんて言っていましまけど、当時の千絵は私にとって、そういう存在でした。」

「その時、君はどう答えたの。」

西條も話を聞いていて少しリラックスしてきたのか、美羽のことを「貴女」から「君」へ変化した。美羽はそれに気にすることなく、話を続けた。

「ありがとう。頑張る。」って答えたんだと思います。あと、「出来たら観に来て」とも言ったんです。「応援に来てとは言えなかった気がする。」そしたら、「日に焼けるのがチョット……ね。」って断られちゃった。 それ以外も何か色々話したと思います。その時ずっと視線を感じていました。先程の彼女です。私が千絵と楽しそうに談笑しているのが気に入らなかったんでしょうね。たぶん……」

美羽は呼吸を整えて、

「私はあの娘にとって最後の砦だったと思います。」

「最後の砦……」西條は聞き返した。

「ええ。特別誰かと仲が良い訳じゃない、一匹狼的な私に近づいたのに、千絵はそれさえも奪いさらって行く。戦は砦を奪われれば降参でしょう。独りぼっちになってしまうことに耐えられなかったのかな。余程、面白くなかったんだと思います。気付いた時には大声を発して、千絵にナイフ(ナイフと証言しているが、ペーパーナイフのようなものかもしれない。)を突きつけていました。そして、千絵に向かって行きました。その時の美術室は時間が停まったようで、私は何も考えずに二人の間に立ちはだかって、千絵をかばいました。正直、千絵をかばったかどうかもわからない。もしかしたらかばったのは千絵ではなかったのかもしれません。その後のことはあまり覚えていません。たくさん出血したのだけはよく覚えています。自分の血じゃないような気がしました。」

西條は細目をまん丸く見張って「痛みは?」と聞き返した。まさか、刺傷事件を告白されるとは思っても見なかった。

「最初はあまり感じませんでした。痛いというよりはとても熱かった。その後、寒くなって、意識が遠退いて……」

「美術室はパニックになったわけだ。」

「恐らく。美術の先生は女性の先生で、一番狼狽していたそうです。私の血を見て、卒倒した同級生もいたらしいですし、男子が。」

「血は男子の方が苦手かもね。」と西條は苦笑した。

「そうですね。男の人の方が痛みに弱いですね。大の大人でも注射が苦手な方もいますし。」

「注射は僕も苦手だなぁ。ごめん、脱線して。」

「いえ。脱線ついでですが、私、注射は上手なんですよ。」と美羽は、笑った。

「注射はゴメンだよ。続けようか。」

「はい、私はすぐに、救急車で運ばれたらしくて、目を覚ましたのは病院のベッドでした。あの時、私を取り囲むように、母と兄、おじいちゃんとおばあちゃんと、スーツを着た、警察の人がいました。私はすぐに、私を刺したあの娘の名前を呼びました。それから千絵の名前も。千絵は私の輸血相手になってくれました。違う病室で休んでいると、看護師さんに言われました。私の意識がはっきりすると、すぐに警察の人の事情聴取が始まって、事件が起きるまでのことを細かく聞かれました。でも、その時はなんて答えたか覚えていません。何も話さなかったかも。あまり覚えていませんが、若い刑事さんはその時の様子をうまく説明できない私に苛立っている感じでした。でも、最後に、刑事さんの後ろに居た偉そうな人が、私にお礼を言ったんです。「娘を助けてくれてありがとう。」って。私、大人に頭を下げられたのって初めてでした。その人、千絵のお父さんだったのです。千絵のお父さん、警察の偉い人、警察官僚で……私、すぐに状況が飲み込めませんでした、でも、わかった途端変な感じでした。千絵の血液を輸血されて、私は千絵に助けられたんだから。それに、その時私はその偉い人の娘がなんで松本のような小さな街なんかにいるのか不思議でしょうがなくって。後で千絵本人から聞いた話ですが、千絵は小さい時にお母さんを病気で亡くして、でもお父さん割と早く若い奥さんと再婚して……面白くないですよね。継母とは仲が悪いわけじゃないけどうまく馴染めないのに、おまけに父親とその人に子供……腹違いの弟ですよね、千絵からしてみれば。義弟が生まれてから余計にその環状が悪化して。早い話、千絵、グレちゃったんですね。それでよく家出を繰り返して。大人のお店とかにも出入りをしたみたい。中身は中学生ですけど、見た目は大人びていたから。事実を知らない人たちは千絵を大人扱いする。で、そういうお店に警察の強制捜査あって。その時に運悪く居合わせちゃって。それで、身内の不祥事でお父さんは出世から外れて所轄の警察署の署長さんに降格処分。千絵はお母さんの実家、お祖母ちゃんがいる松本へ引き取られて。転地療法みたいなものでしょうね、きっと。目立つ娘だったから周りが方って置かなかったし、誤解も与えた。もちろん、刺した娘が悪いんですが、突発的だったんでしょうね。私は……たまったもんじゃないですけど。」苦笑いを浮かべた。

「入院中はクラスメートはお見舞いに来てくれたの?」

「はい、最初はみんな代わる代わる来てくれて、千羽鶴もみんなで折ってくれて、持ってきてくれたりして、ありがちですよね。入院したクラスメートのところに千羽鶴。今でも実家にあると思いますよ。

でも途中で夏休みになってしまったとたん、そうすると、みんな来なくなっちゃって。忙しいですよね、中学生の夏休みって、早い子は進学を視野に入れて夏期講習だったり、それと部活だったり。3週間入院してましたけど、毎日来てくれたのは千絵だけだった。でも、私は面白くなかった。」

「面白くなかったとは?」

「だって、私とばっちりでしたもん。しかも、夏休みに入る前に水泳部退部させられて。」

「退部させられるとはおだやかじゃないね。」

「ええ、顧問の先生が一連の出来事で、私を危険視したんでしょうね。あと、夏休み入ってすぐに大会が控えていましたが、勿論こんな身体で出られっこないし……私、ショックでした。だから、ちっとも面白くない。目標奪われたみたいで。」

「その誤解は解こうとしなかったのですか。」

「一度決めたら、そういうのだけは、曲げない先生でしたから。」

堅物な教師はどこの教育現場にもいるだろう。かつて自分もそうだった。と、西條は戒めた。

「どのみちそのときは自由に身体を動かすことができなかったし、私の水泳に対する情熱もそこまでだったかもしれません。でも、その時は全く面白くない。だから、千絵が毎日来るのも面白くなかった。それに私を刺した娘はお見舞いどころか、夏休み早々に引越ししてしまって転校してしまいました。」

「ちょっと、待って。」と西條は口を挟んだ。「その君が刺された傷害事件は、ニュースになったりしなかったのか。その、刺した娘は保護処分になるんじゃないかと……」

「ああ、そうですね。その話が抜けていました。それが、全く表に出ることはなかったのです。」

西條は少し考えた。地元の新聞社、テレビ局ならばわりと簡単に圧力をかけることは出来ただろう。しかし、全国紙の支局ならそうはいかない。彼らは遊軍だ。地方の警察が圧力をかけたところで、その気があればすぐ本社に知らせて記事にするだろう。警察官僚の娘が関わった事件。これはうまいと。西條はそれを、美羽に伝えた。

「先程も言いましたが、千絵のお父さん偉い人だったって。きっと西條さんが考えていることは朝飯前だったのでしょう。きっと。私はそれ以上のことはわかりません。そういうのって私が知ることでもないかも。」美羽は「失礼します。」、腰を浮かせて座り直した。

「それも、娘の千絵を守る以前に自分自身の保身だったかもしれませんね。でもどんなに秘密にしても、固く口止めしても、他人の口に戸は建てられませんので、どこかしらで噂になったり秘密の会話になったりしたかもしれません。当時はそんなこと思いませんでしたけど。」

「じゃあ、その、君を刺した娘は、君に謝罪することもなく転校していった。」

「そうですね。手紙も貰ったりしませんでした。二学期が始まった頃には、彼女の存在は最初から存在さえしなかったようになっていましたね。あ、いいですか、話を戻して。」

「ごめん。続けて。」

「病院退院してから、私は登校拒否になりました。途中で夏休みなってしまったので、あれが登校拒否かどうかわかりませんが。自分の部屋に一日中閉じこもって、所謂、引きこもりですね。あのときは外に出るのが嫌だった。外へ出ると人の目が気になって。私、一番の被害者なのに。一学期の最後は入院で休んでしまったから、本当はその時の補習があったんですけど。もう、そんなことはどうでもよくて。自暴自棄だったんでしょうね。なにか暗澹な気持ちで将来を諦めていたし、とにかく外の世界が怖かった。と記憶しています。でも、そこから連れ出してくれたのは千絵でした。千絵は退院してからも毎日私の家に来ました。新学期が始まっても学校で配られたプリントを持って、私の部屋のドア前で今日あったことを話してくれた。先生がどうだったとか、クラスメートの恋話とか、みんなが私を心配してくれていることとか。あと、その日の授業中のノートをコピーして、必ず置いていってくれました。話題らしい話題がなくてもお話していく。最初はとても鬱陶しくて面倒くさかったです。ある日、千絵は当たり前のように毎日家に来て話して、突然泣き始めました。私、びっくりして、思わずドアを開けました。実はその日は千絵のお母さんの命日で、本当は東京に帰っていないといけないはずで、でも、私の元へやって来た。でも、千絵にとっては亡くなった自分のお母さんはとても大切な人で、命日は必ずお墓参りをしていたそうです。それをやめていつも通りに私の家にやってきた。その時に、始めて私の元へやって来たことの説明をしてくれました。あの刺傷事件以来、千絵は常に私への贖罪の気持ちがあって、それを償うために毎日やって来たってきたそうです。それに、あの娘を追い詰めてしまったのも自分だと。けど、それは千絵の思い込みで。贖罪の気持ちは私もわかっていましたが、なんとなく気持ちに整理がつかなくって千絵の存在が疎ましく思っていました。でも、自分の大切な日まで犠牲にして来てくれていた千絵に申し訳なく思ってしまいました。そして、千絵は「美羽ちゃんと友だちになりたい。」と言ってくれました。実は千絵もクラスではあんなことがあったわけですから、クラスメートの一部からは煙たい存在になっていた様です。無論、さっきお話した通り、事件の当事者の一人として責任も感じていたでしょうし、また、千絵も寂しかったのでしょうね。それから、家族もひきこもっている私には手をこまねいていたと思います。私自身、自分自身でそこから抜け出すタイミングを失いかけていました。でも、千絵は毎日、諦めずに通ってくれた。そして、千絵の気持ちが私に伝わった……かな。私も通い続けている千絵の姿を見てもっと考えろよって思いますけど。」と笑った。

命の危険さえあったことだろう。しかし、悲壮感が感じられないのはこのことについてはすでに過去の出来事として遠くの昔に折り合いがついているのだろう。と西條は感じた。

「もしかしたら、もしかしたら、うまく歯車が噛み合えば、三人仲良くなれたと思う。そう思うと切ないです。だから、だからって理由だけじゃないけど千絵と仲良くしよう、なんて思ったのかも。実際、千絵とは馬が合って、仲良くなれました。昔からよく知っている親友のように。こういうのって、なかなか上手に行きませんね。」美羽は悲しそうに笑った。

「その、君を刺してしまった娘はその後、どうしたか判る?」

「実家がある神戸へ引っ越したって噂では。誰も教えてくれなかったですし、私も聞かなかった。普通に生活していてくれて居れば良いのですけどね。」美羽は伏せ目がちに言った。

「傷や、後遺症はなかったの?」

「それは、お陰さまで私、元々丈夫なんでしょうね。神経痛めたりはしませんでした。傷痕跡は残ってしまったんですけどね。丁度、盲腸のところに。運が良かったんですよ。」美羽は西條に目線を合わせてにこやかに言った。残念ながらまだ、陸上のことは出てこない。西條は、

「いよいよ陸上だね。」

「あ、はい。すみません。前置きが長くなってしまって。」美羽は思い出したようにおどけて言った。

「でも、まだあるんです。」

「武勇伝が?」

美羽は照れて、

「そんな、武勇伝って言うほどものじゃないです。今度は陸上に関係してきます。でも、少し武勇伝になるかも。」と言ってから笑顔になった。

「二学期が始まってしばらくして、部活もクビになってしまい、それでも学校に再び通い始めてそろそろ進学を考えなければいけない時期になった時なんですが、でも、親友って呼べる友達ができたのと、遊び盛りの年頃だったので、たまに学校サボって街に繰り出したり。で、今でも千絵と話すときに、たまにこのときの話が話題になります。二人でいたときこのときが一番楽しかったって。あの日は、丁度、二学期の中間テストが終わって、目一杯遊ぼうってことになって、二人で街に遊びに行った時でした。」

「学校、サボって?」西條は念を押すように聞いた。 美羽はその質問にケタケタ笑いながら、

「実は、お昼に千絵と申し合わせて、先生に生理が重いから帰るって嘘を言って早引きしたんです。」

「悪い娘だなあ。」と西條は少し呆れた。

「でも、先生ってそういうのって見透かすでしょ?」

「そんなことはないよ。具合が悪そうな顔していれば家に帰すし、こちらは親御さんから生徒を預かっているんだからね。」と西條は教師の視点で言った。それは美羽には少しきれいごとに聞こえたかもしれない。

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