第15話
美羽は、西條が描いた地図を便りに中野ブロードウェイを真っ直ぐ抜け、古びたビルに入った。黒塗りの螺旋階段を上がると、小さい看板に“純喫茶 沙織”と書かれていた。
「この名前は喫茶店というよりはスナックね。」
と、感想が浮かんだ。美羽は恐る恐るドアを開けるとドアの上部に付けられた鐘が鳴なった。
「いらっしゃいませ。」
と女性の甘い声が鐘の音ともに店内に響いた。それほど広くない店内は五席程のカウンターと四つの四人がけのボックス席があった。
「ますますスナックね。」
と美羽はそう確信した。カウンターの向こうには年齢不詳のエプロン姿の女性が笑顔で迎えた。美羽は、その女性の包容力を持った笑顔に思わず目をそらせ、軽く頭を下げてから店内を見渡した。一番奥の席には濃紺のブレザーを着た西條が座っていた。彼以外の客はいなかった。怪我をしたときよりも髪は整えられ無精髭もない。図書館で借りた本に載ったポートレートに近い西條の姿だった。西條は立ち上がり右手を挙げ、美羽を呼ぶしぐさをした。美羽は、ボックス席に近づくと、挨拶をした。すると、西條は立ち上がり、
「今日は時間を取っていただいてありがとうございます。」と深々と礼儀正しく頭を下げた。
「いえ、……脚の方は大丈夫ですか。」美羽は西條の脚を気遣った。
「あのときはありがとう。ございました。おかげで今はなんともないですよ。」と西條は返して、
「さ、座ってください。」なかなか座ろうとしない美羽に西條は促した。
「すみません、失礼します。」
特に緊張する場面ではない事はわかっている筈だったが、何故かぎこちなくなる自分に美羽は恥ずかしかった。美羽が上着を脱ぎ、年季が入ったソファーに腰掛けると、
「迷いませんでしたか?」と西條が聞いた。
「いえ、丁寧な地図があったので。」と返すと、
「それはよかった。」と、西條はあの地図には自信があったのだろう。すると先程の女性が水とおしぼりを二人分持ってきた。西條もここへ到着して間もなかったのだろう。美羽は自分のところに差し出されると軽く頭を下げた。西條のところへは他に灰皿が置かれた。すると、
「沙織さん、これは要らないよ。」と言って返した。女性は、「あらまあ、禁煙でもしたの?」と質問した。
「そうさ、一ヶ月経つんだ。チェーンスモーカーだった僕が、凄いだろ。」と得意になった。
女性は口元をステンレスの御盆で隠して笑った。
「何も笑う事はないじゃないか。」
「だって可笑しいじゃない。子供みたい、ねえ。」
と美羽に向けられた。
「良いことだと思いますよ。」と言ったそれ以上に言い様が見つからなかった。
「あら真面目な方なのね。」
美羽はこの返しは無礼に感じた。
「ごめんよ、この人はいつもこうなんだ。人をからかうのが好きで。初見の人にもこうやって水を向けて困らせる。」
と西條が弁解した。その口調は先程の挨拶よりもフランクなものだった。
「だってマサくんのお友達ですもの、ねえ。」
再び向けられた言葉は美羽をさらに困らせた。
「まだ今日で二回しか会っていないので。それと、私の話を聞きたいと言われて今日はここへ来たので……」と、美羽はしどろもどろになった。
「お話? ご免なさい。そういえば、マサくん、今日はお仕事だったのね。失礼したわ。」
「そうだよ、沙織さん。取材相手を困らせないでくれよ。」
――この人が沙織さんだったんだ――
ひとつ、スナックのような店名の謎が解けた。
西條は「ささ、なんでも好きなもの選んでください。今日は僕の奢りというか、経費で落ちるものなので。」と言い、美羽にメニューを勧めた。“経費で落ちる”はなにか言い訳っぽく感じた。美羽は、ホットコーヒーを頼んだ。それを確認してから西條も同じものを頼んだ。注文を聞いて沙織が引き上げると、
「ごめん、あの人に悪気はないんですよ。」と西條は沙織の事を弁明した。
「此処へはもう二十年位かな、通うのは。一時期来ないときもあったけど、あの沙織さんとは姉弟みたいなものなで。ちょっと人を食ったようなところはあるけど、良い人です。」
「素敵なお店ですね。」美羽は店内を見渡し言った。お世辞に聞こえないように用心して言った。
「此処は昔バーをやっていて、このビルのオーナーだった沙織さんのお父さんがお酒とジャズが好きでその趣味が高じて、バーを始めたんだけど、15年前にそのお父さんが亡くなった後、娘の沙織さん夫婦が喫茶店に改装したんだ。改装といっても店内はバーだった時と変わらないんだけどね。」
西條の口調が幾分やフランクになった気がした。そして、美羽の予想は近からず遠からずであった。何処か醸し出す酒、アルコールの匂いと沙織の出で立ちがスナックを連想させたのだろう。
しばらくするとコーヒーが二つ運ばれてきた。美羽の前に差し出されるとふわりとコーヒーの香ばしい香りがした。早織は二人に差し出し終えると「どうぞ、ごゆっくり。」と言ってその場を離れた。西條は鞄からカメラとICレコーダーを取り出して机の前に並べた。美羽はコーヒーにミルクを多めに入れてスプーンでかき混ぜながら準備を始める西條を観察した。
そのカメラやレコーダー(作者にはカメラや音響機器に対する造詣は皆無であるが、男子は何かとスペックにこだわる傾向がある。)を見ると相当のこだわりがあるのだろう。仕事道具へのこだわりは実家の祖父や兄も強いこだわりがみてとれる。自分とて例外ではない。走る時に使用するランニングシューズへのこだわりは他人には理解できないかもしれない。けれど、男性が道具にこだわる姿は美羽には子供っぽくというか少年っぽく見えた。すると、西條が、「さ、始めようか。」と切り出した。
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