第13話

「美羽ちゃん。」

「何です?」

「はい、これ。」

美羽は、藪原医師の奥さんから洋便箋を渡された。まるでペン字の通信講座の例字のような美しい字で、“新宿診療所御中 如月美羽様” と書かれていた。美羽は、怪訝な表情で便箋の差出人を確認すると、西條将美と書いてあった。封を開けずに、何度も表裏を確認するように見ていると、

「今時、手紙なんて古風なことするわね。」と、良枝が口を挟んだ。そこに美穂子も、

「手紙のラブレターなんて、先輩、それ本気ですよ。」と、からかった。

「美穂子さん。」と藪原医師の奥さんが嗜めた。美羽は、奥さんに笑顔で返し、美穂子にはキツイ視線を送った。美穂子は肩をすくめて“怒られちゃった”という顔をして、良枝を見た。美羽は、勢い良く封を切った。すかさず、美穂子がそれを覗こうとしたが、

「中身はどうであれ、美穂子ちゃんには絶対見せないからね。」と胸元に手紙を引き寄せると、美穂子はようやく諦め、控室を出る準備をした。美穂子は美羽たちに、

「もしかしたら、帰りは少し遅れるかもしれませんが、行ってきます。」と言い、控室を出ていった。

「美穂子ちゃん何処行くんです? 」と美羽は、良枝に質問した。

「ああ、伴野さんのアパートよ。この間、往診に行ったでしょ、先生は入院を勧めているんだけど、どうしても言う事聞かなくてね。この前も、救急車で運ばれて、入院した時に、一日経ったら勝手に帰っちゃったでしょ。それでも、放おっておけないし、放おっておくと、薬も飲まないで酒浸りになっちゃうから、あの娘が様子を見に行くって。」

と説明した。美羽は、美穂子が少し伴野に肩を入れているように見えるのが少し心配になって、先程まで美穂子がいた場所の空を見つめた。良枝は、

「伴野さん、私達の言うことなんか聞かないじゃない? 私はともかく、何故かあなたには辛く当たるし。かろうじて先生と奥さんの言うことは聞くことは聞くんだよね。でも、不思議なことに一番、美穂子ちゃんの言うことだけは一番よく聞くのよね。」

と言った。美羽は、良枝の話を聞きながら、手紙に目を通した。簡素な手紙だったが、宛名と同様、美しい字が並んでいた。美羽は、“取材?”と困惑した。正直、美穂子の言う通りデートの誘いかと思っていた。美羽は心の何処かでそんなことを期待をしていた。何が聞きたいのだろうか、知りたいのか。ネットで自分の名前を調べれば、昔のことは大方、判るだろう。美羽にとっては、そこには穿り返されたくないことも書いてある、想像しているが、現在美羽は所謂“エゴサ”なるものはしていない。

「ねぇ、なんて書いてあるの? やっぱ、デートのお誘い? 」と良枝が聞いてきた。

「まあ、そんなところですね。」

と、はぐらかし、手紙を鞄にしまった。今ここで破って捨てても良いが、それを他の者に見られるのも気まずい。特に美穂子には。誰も、破って捨てた手紙をつなぎ合わせるなんてことはしないと思うが。また、この手紙に返事を書いても良いと思った。断りの返事を。大方自分の名前を知ってネットで検索をしたのだろう。美羽は陸上選手だった時代には、特に大きな大会で優勝したとき、何度も自分の名前を検索した。ある時、つまり引退した時からそれは一切しなくなった。引退といっても、華々しく引退レースをして走ったわけでもなく、マスコミの前で会見をしたわけでもないが。ひとつ、成功を納めれば皆がちやほやした。しかし、一度成績が悪くなれば、それが容赦のない非難に変わる。その繰り返しだ。美羽はそれにうんざりだった。他のアスリートもきっとそうであろう。調子が悪い時に近づいてくるのはろくな輩ではない。西條のように取材と称し、すでに陸上界から姿を消した自分に近づいてくるのもろくな輩ではないだろう。美羽はそれを考えると、あの時、助けたことを激しく後悔した。それは、自らの職業倫理に違反はするが。それを考えると、今の職場の人間たちはそこに踏み入ることはない。強いて言えば美穂子だが、美穂子には美羽が自らが話をした。美穂子はどの程度理解しているかは不明だが、今まで美羽の過去にこれといって触れることはない。それは、良枝も同様だった。良枝のような現実的な人物には、他人の過去なんてどうでも良いかもしれない。それは良枝との付き合いを通して理解できた。

この手紙は無視をしても良いだろう。考えて美羽はそう決めた。

 また、それからしばら日時が経った。

誰も手紙のことも思い出さなくなった頃、美羽の元へ今度は小包が届けられた。送り主はまたしても“西條将美”と書かれていた。運良くその小包は美羽自身が直接宅配業者から受け取ることが出来た。これをまた、美穂子に見られたりでもした時の事を考えると、ゾッとする。小包を開くと、西條の著作だった。

本が一冊、西條が書いたと思われる厚めの本。装丁は白一色にまとめられていて、表題に『世界の結婚』と書かれていた。中表紙には、書き慣れたと思われる達筆な字で西條将美とサインが書かれていた。一緒にこの間と同じ洋便箋の手紙が添えてあった。手紙には、


如月美羽様

先日の不躾な手紙のお返事はいかがでしょうか? ぜひよろしければあなた様のお話を聞かせていただきたいと思っております。取材に関しましては、若干ながらお礼をさせていただきたいと考えております。

敬具

西條将美

追伸、最新作です。良かったら読んで下さい。


と、相変わらず美しい字で書かれていた。美羽は深くため息を付いた。そこへ良枝が、手紙を持つ美羽を見て、

「また、ラブレター? マメな人ね。」

とからかった。美羽はその笑いを否定するように今度は手紙を見せて、前回の手紙を含め、説明をした。良枝はその手紙に目を通しながら、「きれいな字ね……なるほど、こう書いてあれば、そう(・・)なんじゃない。」と言った。続けて、

「そんなに嫌だければ断ればいいだけの話だし。そうでしょ、あなたが昔のことをほじくり返されるのが嫌かもしれないのは判るけど、それは、きちんと説明しないと。この、西條さん? そういう美羽ちゃんの個人的な気持ちはわからないでしょう。それと、こういうお仕事しておる人だから好奇心は旺盛でしょうしね。まして、“元美人すぎるマラソン選手、如月美羽”よ。今も美人だけどね。美羽ちゃんは。」

鼻にかかった声で言われた最後の一言は嫌味に聞こえた。丁度、美羽が活躍した時期は、美人すぎる◯◯というのが流行したのと重なる。美羽もそう言われた。勿論、悪い気はしなかったが、もう過去のことだ。西條は、助けられた女性が、かつて世間を騒がせた存在と知って単純に興味を持ったのだろう。良枝に言われ、初めて西條側の事情が理解できたような気がした。良枝は、

「あとね、もしそういうのが本当に嫌じゃなかったら、会ってみたら。」

美羽にとっては思わずの「え?」である。最初は断ればいいと言っていたのに。しかし、良枝はその驚きを見透かしたように話を続けた。

「この前も話したんだけどね、私、彼を紹介してもらった時に、もの凄く悩んだの。私には年頃の息子がいるし。相談所に登録をしても、そういう理由でお見合いする前に結構な数の人に申し込みをしても断られちゃって。だから、今回の話をもらった時に、すぐに会いたいって答えを出せなかったわ。そうしたら、相談員の人がこういったの “一度や二度会ったところで減るわけじゃないし、それこそ会ってみて嫌だったら断わればいい。嫌ではなかったら、それは、“縁”って言われて……思ったわ。私に会いたいって言ってくれる人はもしかしたら運命の人になるかもって。あ、これは婚活の話ね。だから、せっかく、誰かが会いたいって言っているのに無下に断るのはちょっともったいないかなって思うわけ。そうそう縁って事故みたいなものね。例えが悪いけど。自分で起こそうと思ってもなかなか起こせないものよ。」

美羽は出会いを事故と例えることに少し不謹慎だと思ったが、良枝が言っていることはなんとなくわかるような気がした。実際、西條との出会いは事故に遭遇したようなものだった。事故そのものは西條の単独なのだが。その時の様子を思い出し、美羽は少し笑顔になった。良枝のひと押しが、西條に会ってみようと美羽に決心させた。ただ、西條の名刺は手元にある、また、手紙には連絡先が記してある。しかし。電話やメールでの返信は少し味気ないと思った。相手はせっかく手紙をよこしたのだ。手紙を書くのは幸い嫌いではない。承諾の返信の手紙は、診療所近くの画材や文具を扱うモナ・リザがびっくりしている大型店で、便箋を買いそろえた。和便箋はアパートに一式あるが、西條の手紙は少し洒落た洋便箋で送ってきたので、真似ようと思った。散々悩んで、薄く花柄が印刷された洋便箋を購入し帰宅した。家事を一通り済ませあとは寝るだけの仕度をしてから手紙を書き始めた。


西條将美様

先日はお手紙と本を続けてありがとうございます。この度の取材のこと、陸上選手だったとことは私にとってはすでに過去の事なので悩みましたが、簡単なお話するだけなら、と思いお引き受けることにいたしました。直近であれば今月の日曜日なら空いております。場所はお任せいたしますのでよろしくお願い致します。

敬具

如月美羽


最後に、電話番号を記した。この手紙が西條に届けば、この電話番号にかけてよこすだろう。その時に円滑に出られるように、西條の電話番号を自分の携帯に期待を込めて登録した。手紙の内容は、こんなものだろう。きっとメールやSNSなら、もっと安易なやり取りが出来るかもしれないが、昔の人はこういった積み重ねがあってお互いの関係を密にしていったのだろう。美羽は祖母との手紙のやり取りを思い出した。祖母は筆まめな人だった。美羽が看護学校の寮に入った時、上京した時は、豆に手紙をよこした。だから、美羽も電話ではいけないと思い、手紙を返した。最初のうちは上手く書けないと、試行錯誤をした。そのうち、日々のあったことや、楽しかったことを簡単にまとめられるようになった。手紙のやり取りは、祖母が亡くなる直前まで行われた。手紙を便箋に入れと閉じると、これからの西條との関係を夢想した。身体の芯に熱を帯びるのを感じた。久しぶりの感覚だった。その夜の美羽は静かに自分を慰めた。

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