第9話

 午前中の診察が早く終わった。後の処理も比較的早く終わり、昼休みはいつもより少し長く取れそうだった。今日の美羽は、良枝達と別行動をとった。普段は時間が合った時には三人で昼食をとる。良枝は息子が弁当なので自分のものも作って必ず弁当を持参する。美穂子も自分で手作りの弁当を持ってくる。そうではない日は、美羽と外にランチをするためか、寝坊で忘れるか。美羽もほぼ毎日弁当を持参するようにしている。ただ、良枝や美穂子の弁当と比べると負い目を感じる。良枝のそれはベテランの主婦が作りなれた弁当だった。美穂子は、弁当作りを楽しんでいるかのような雑誌やテレビで紹介されるような凝った作りのものだった。それらに比べると美羽の弁当は地味だった。美羽は自分の弁当にあまりセンスを感じられなかった。

――私は、寿司屋の娘なのに――

と落ち込んだ。料理は嫌いじゃないが、そういったセンスは兄に持っていかれたのだろうと思っている。しかし、美穂子は美羽の弁当を見ては「美味しそう。」と誉めてくれる。美穂子は良枝の弁当にも同じことを言うので、これはお世辞と断言できる。

二人と昼食を取っていれば、いつも、とりとめの無い話題で時間が過ぎるので、今日のような時間に余裕がある時に図書館へ行ってみたいと思ったからだ。それは先の会話がきっかけであった。急に西條のことが気になり始め、彼の著作を読んでみたいと思った。ルポライターと名乗るならば一作や二作の著作があるだろう。メディアへの露出もあるかもしれないが、美羽、並びに診療所の面々はその名前や顔に見覚えはない、もしかしたらテレビなどのメディア媒体で目撃しているかもしれないが。診療所の待合室でテレビはついているが、視る機会はほぼなかったから知るよしもない。だから、自分で調べようと図書館へ行こうと思った。以前、西條を助けて日が浅いときに休日を使ってアパート近くの練馬図書館へ探しに行ったが見つけられなかった。司書に聞いたら貸出中で、返却されるまで待とうと思ったが、そのうちに忘れてしまった。美穂子のお陰で思い出したので、白衣の上からコートを羽織り一言、外出する事を告げて弁当を持って出掛けた。美羽にとって、四谷図書館はお気に入りの場所のひとつである。何故か小さい時から紙の匂い、特に本の匂いは好きだった。それは、亡き祖母が着ていた絣の着物の匂いに似ていた。美羽は祖母が大好きだった。小さい頃は、よく祖母が読み聞かせをしてくれた。難しい本は読まないが、恋愛小説や紀行の本を読む。雑誌も好きでよく買う。診療所の待合室にある雑誌は美羽が買ったものが多かった。週刊誌や月刊誌は読み終えると診療所に持ってきて、表紙に“新宿診療所”とサインペンで書き記して本棚へ。これはいつの頃か美羽の仕事のひとつになった。それまでは、もう何年前のものがわからないようなボロボロになった週刊誌がいつまでも置いてあったが、美羽が来てからは新しい雑誌が置かれるようになった。そして二年前から、藪原の奥さんから領収書をもらって来るように言われ、美羽の給料に先月の雑誌代が足されるようになった。美羽は最初それを断ったが、正直言えばうれしかった。アパートに雑誌が占拠しなくて済むし、雑誌に付属する付録は自分の物とできた。そして、そして何よりも馬鹿にならない雑誌代金が浮き一石二鳥いや、三鳥であった。しかし、それでは良心が咎めるので、一ヶ月、千円までとしている。付録付きの雑誌はなるべく自分の金で買うようにした。

昼食を近くの公園で済ませ、その足で図書館へ向かった。到着すると、早速、司書に西條の著書の貸し出し状況を聞いた。どこの図書館にも自分でパソコンを使って検索できるサービスがあるが、美羽はタイプが苦手だったために司書に問い合わせる。そして一冊だけ在庫していることがわかって早速借りる事にした。他に紀行小説を一冊借りた。職場で西條の著作を開けば、目敏い美穂子や良枝がまた何か言ってくるに違いない。西條の本は家に帰ってからの楽しみとした。診療所へ帰ると

「どこ行っていたの?」と良枝に聞かれたが、

「ちょっと読みたい本があったので図書館まで借りに行っていまいた。」

と紀行小説を出して見せた。良枝は本の中身は特に気に止める事なく「そう。」とだけ返事をして終わった。この本はアリバイ作りのようなものだった。

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