第7話

 自宅アパート最寄りの中村橋に到着すると、最寄りのスーパーで少し買い物をした。これから遅すぎる朝食と、夕飯のおかずになるような惣菜と、切らしていた歯磨き粉と生理用品を購入した。中村橋を目白通りに向かって五百メートルほど進み路地を左に入り少し歩くと美羽が暮らすアパートがある。三階建の二階、幸い角部屋のお陰で日当たりは良い。1Kのフローリングでトイレ・バスは別。共益費込みで七万二千円。美羽にとっては、少々値が張るが約十畳のフローリングと大きめの収納は美羽にとって魅力的だった。交通費は病院から家賃補助で三分の一出る。お陰で少し住は冒険ができた。そして月に三回の夜勤手当で少しばかりの余裕が持てる。夜勤に関しては、看護師各々割当が決まっているが、夜勤を嫌う美穂子に代わって一回多く美羽が替わってやっている。実家がお金持ちの美穂子は夜勤がなくても生活に一切支障がない。

築二十年の古めのアパートだが、大家がマメな人物なのだろう。共用部など綺麗に手入れされていたのも美羽にとっては好感度が高かった。玄関を閉め、明かりを点けると賃貸アパートとはいえ自分のもので飾られた部屋が現れる。一晩空けた部屋はひんやりとしていた。お気に入りの白い生地にチューリップの模様が入った遮光カーテンを開けて太陽の明かりを取り込む。そのカーテンそれに合わせた丸くて白いテーブル。このテーブルに何度足をぶつけたか。しかしこれは美羽のお気に入りでリサイクル店で一目気に入って購入した。冷蔵庫は中古品に抵抗があった為に新品を買ったが、洗濯機は引っ越し予算の都合で一緒に揃えられなかった。しばらくは近所のコインランドリーへ通った。コインランドリーの便利さに一時は洗濯機を買わなくても良いと思ったが、一回の洗濯に一回の昼食分出ると思うと、これからのことを考えて購入を決意した。結果はとても便利だった。洗濯しかできないものにウン万円払うのには気が引けたが、コインランドリーのそれよりも綺麗に洗い上がる感じがした。

かなりの時間が経ち、ジョギングで温まったはずの身体は、とっくに冷え込んでいた。

浴槽にお湯を張り、風呂場に干した下着を片付け、湯が身体を浴槽に沈めたときに溢れないギリギリのところまでお湯が溜まるまでの間、荷物の中からお気に入りの洗濯機にランニング際に着用したウェアと入れた。帰宅するまで、ずっと自分の汗の匂いが気になっていた。いつもランニングの後は診療所の更衣室で入念に汗を拭いているが、今日はそういうわけにはいかなかった。特にパーカーには、おんぶをした西條のタバコの移り香も気になって仕方なかった。コートをハンガーに掛け、着ていた上着とデニムパンツは前回選択した時期と、汚れ具合と相談して全部洗濯機に入れた。下着姿でキッチンへ行き、冷蔵庫にしまって置いた昨日の昼に炊いたご飯を電子レンジに入れた。朝、ジョギング前に食べたおにぎりはもう胃の中にはなくなっている感じがした。

蛇口からお湯が、勢い良く出て浴槽に貯まる音を聴き、行儀が悪いと思いながら、先程スーパーで買ってきた惣菜と一緒に簡単な昼食を摂りながら、風呂が沸くのを待った。風呂が沸くと下着を脱いで洗濯機に投げ込んでふたを閉めた。

さっと打ち湯をし、右足からゆっくりと湯船に浸かった。

狭いながらも風呂トイレが別のアパートにしてつくづく良かったと思う。湯船に使ったときの目線に便器があると落ち着かないだろうと思った。ちゃんと、身体を洗うスペースもある。一七〇センチの身長は女性としてはまだまだ大柄な部類にはいるだろう。狭い浴室内ではやや取り回しがきついと感じることもあるが、湯船に浸かる時間は十分贅沢と思えた。身体を入念に洗いながら、鏡に写った赤く上気した自分の顔を見た。夜勤明けなのか、それ相応の年を迎えたのか、疲れた顔に写った。色気も感じられないのは美羽はナルシズムを持って自分と対峙していないからだろう。そもそも、色気があるかどうかは自分ではわからない。

良枝のことを思い出し、確かに良枝は最近キレイになった気がする。表情が、心なしか明るくもなった、と思う。良枝は美羽と七歳違うが鏡に映る疲れた顔と比べれば今日の良枝は遥かに若々しく感じた。さっぱりした性格でありながらも、女性なるものを感じた。

「無いなぁ、ああいうの。」と呟いた。今度は意識して声に出して言った。少し、劣等感を感じて、湯船の湯を桶ですくい、頭にかけた。

確かに、今まで美穂子や良枝に言われるように、自分と歳が近い患者に声をかけられること、誘われたことは無くはなかった。そういう経験から言えば今日の西條は誘われたとは言えない。名刺をもらっただけだ。いや、名刺を置いて行っただけだ。美穂子の茶々はまだ良い。良枝の思いがけない告白があり、表では祝って見せて内ではかなり狼狽している自分が情けなかった。誕生日もクリスマスも独りでいることは苦にならないが、今は刹那に寂しく感じられた。

再び湯船に浸かりながら歯を磨いた。――入浴しながら歯を磨くと肌がキレイ(・・・)になる――とテレビで見てから実践し習慣化しているが、その気配は感じられない。そんな習慣も一段と寂しさを誘った。

つい長湯をした。走った後なので、身体を温めすぎるのも良くない。美羽は風呂からあがるとハンドタオルで身体の水気を取り、新しいタオルで濡れた長い髪の毛を包むと、バスタオルで身体を包み洗濯機に洗剤を入れスタートボタンを押して、洗面所を後にした。湯上がりの暑さでしばらくは裸で過ごし、テレビを付けて正午の情報番組でニュースを確認した。上京してしばらくは新聞を取ってみた、と言うより勧誘に負けて取ってしまった。結局読まなくなり、古紙が貯まるのを嫌がり止めた。

汗が引くと美羽はクローゼットの押し入れから部屋着を出して着た。それからベッドへ。テレビを見ながら横になった。洗濯が終わるまで起きていようと頑張ってみたがベッドの中では無駄な抵抗だった。遠くで冷蔵庫のモーターの音と洗濯機のドラム槽が回る音が聞こえる。これが美羽にとって子守唄になった。

「二時間ほど寝て起きよう……」

大きなあくびをして、美羽はその長身を丸めた。

美羽にとって、毎日が淡々と過ぎて行く事に不満はなかった。時折思いがけない事に遭遇する事もあったりもするが、日々のリズムが狂うほどの事ではない。それは普段の業務の中で消化できる範囲のものであった。過敏に感受性を研ぎ澄ましての生活は疲れる。粗雑の方が楽かもしれない。ほとんどは仕事なのだ。割り切らなければ。美羽は、そう思うと忙殺される大病院に勤めなくて良かったと思う。

看護学生時代の実習は美羽にとって楽しいものだった。皆が口を揃えて苦しい思い出を口にするが、美羽はそれに共感しえなかった。が、それがいざ仕事になれば違ったであろう。そう思うと今の職場に恵まれたのは良かったと思う。ただ、総合病院に勤める看護学校時代の同級生が勤務先の医師を結婚下という話を風の便りに聞くと、やはり取り残される自分がいる。こんなことを考えていても、結局は堂々巡りだ。いつかサプライズがあるだろう。そう思って眠りについた。

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