第4話

受付の職員が「美羽さん、これ。」と言って一枚の紙を渡した。名刺だった。そこには、

“ルポライター 西條将美”

と電話番号とメールアドレスが記載されていた。

「これは?」と聞き返すと、「会計するとき置いていったんです。美羽さんにと思って……。」

美羽は戸惑いながら「なにか言っていたんですか。」

「いいえ。でも、こういうのって初めてじゃないし、一ヶ月ほど前にもあったじゃないですか。心筋梗塞のおじいちゃん助けたとき、違う日に来てお寿司持ってきて。」

「ああ、あれね。断れなくなって皆で戴いたの。」

事務員は美羽に名刺を渡し二匹目のドジョウを狙っているかのように、

「また、ああいうことってないかしら。」

「結衣さん、よしてよね。」と美羽はやや迷惑そうに言った。

「先輩、まーた、名刺なんかもらっちゃって。」

西條の名刺を見つめる美羽の背後から話しかけてきた。

「美穂子ちゃん。そういうつもりじゃないって。」

美穂子は、「そんなぁ。」と目一杯いやらしく返した。

「先輩のこと気に入にいったんですよ。相変わらずモテるなぁ。」と詰め寄った。

「美穂子ちゃん!」美羽は強く嗜め、この話を打ち切ろうとした。美穂子は、

「はいはい、先輩はこういう話、ホントにお嫌いで。」と呆れ様に言った。

「何よ。」

と美羽は少し苛立った。美穂子は、

「だって勿体ないじゃないですか。如月美羽とあろう者が。」

そこに、「美穂子ちゃんいい加減になさい!これから回診(この場合、往診の方が正しいかもしれない。作者注)でしょ!」と声が割って入った。看護師のひとり、入山良枝だった。良枝はこの診療所では一番古株の看護師で、中学二年生の男の子の子供を持つシングルマザーでもある。東新宿診療所には合計五人の看護師が勤務しているがそのまとめ役でもあり、皆の頼れる存在である。美羽は彼女から仕事のイロハを教わった。看護師は学校に通い勉強して試験をパスすればその仕事に就ける。厳しい現場研修があってもそれは、職務の全うを保証するものではない。それは、免許制度がる職種全部に言えることでもある。また、同じ職種であっても、個々の組織、現場によって、やり方が異なる場合もある。それでも、美羽は勤勉で勘も良かったためか、仕事を覚えるには苦労はなかった。しかし、良枝の存在がなければ、それはもっと時間がかかったことであろう。

美穂子は、「はーい。」と言って出ていった。良枝は、

「全く、あの娘は誰に似たんだか。あの徳山嘉一の娘とは思えないほど下世話な話が大好きなんだから。」と呆れてため息をついた。

「美羽ちゃん、気にしないでね。」と美羽に一言添えた。

「大丈夫ですよ。それと、いつもの事なので気にしていません。それに私が多少強く言っても美穂子ちゃんも全然気にしていない様ですし。それより、今日は回診日じゃないんじゃ……」と美羽は怪訝に思った。回診は週に一度に、区役所の健康福祉課に頼まれた個人宅を見回っている。そこで、原則的に夜勤をしない、美穂子が藪原の付き添いで行く。良枝は、美穂子の話題を続けた。

「あれは、反動であぁなっちゃったんだろうね。東海地方きっての大病院の家に生まれて、厳格な教育受け、それが就職という名の社会勉強のために独り暮らしを始めたら、今まで抑圧されていたモノが一気に吹き出しちゃったって感じ。」と美穂子を分析した。美羽はその分析が全部ではないが的を射ていると感じながらも。そうだろう……と感じた。 確かに美穂子は中部地方に病院や医療施設を何件も経営する“医療法人徳山会”の理事長の娘だ。徳山会は赤字病院を何件も買収して黒字化して成功を収めている。近年は関東地方にも進出をしている。そこら辺の医者の娘と“毛並み”が違う。美穂子の兄も厚生労働省のキャリアだ。美羽は、その徳山嘉一には会った事はないが、美穂子の兄には一度だけ会ったことがあった。小柄だが、所謂イケメンで聡明な印象だった。美羽は、美穂子のそういった性格は出身地、愛知県の地域性的なものからなると考えていた。それが当たっているとは思わないが、美穂子はよくあるお嬢様という様な育ちではない感じがしていた。生まれが良いからといって必ずしも品行方正とは限らない。美羽にはそういった事に心当たりがあるからだ。美羽の親友に、まるで美穂子の様な女性がいるからだ。だから、美羽にとっては美穂子の下世話な話から世話焼きとも言えるお節介まで余り気になることはない。これは経験則からの偏見かもしれないが……しかし、美穂子のお節介は、時に非常に献身的な印象を与え、診療所に来る患者にはすこぶる評判が良い。美穂子は小柄で可愛らしい容姿も相まって患者達のアイドルでもあるのだ。その姿を見れば看護師の仕事はサービス業でもあると感じる。

「前から聞こうと思っていたけど、何であの娘は美羽ちゃんのことを『先輩』って呼ぶの?あの娘の方がここでは先輩なのに。」良枝が質問した。美穂子は美羽の三年先輩である。美羽は笑って、

「私が、震災ボランティアで被災地へ行った時に美穂子ちゃんと先生と知り合ったのはご存知ですよね。」

「ええ、知っているわ。私は、息子がいるから参加できなかったけれど。」と良枝は返した。

「そのときに、一晩中二人で語り合ったんですよ。私は自分が何でボランティアに来た事とか、それ以前のなにをしていたかをいっぱい話して。私の事全く知らなかったみたいでしたし。そうしたら、美穂子ちゃん、感激しましてね。その感激っぷりが、小さな子供みたいで今思い出すと、とても可愛らしいかったですけど。」

「今でも子供みたいだけどね。」と良枝が笑った。美羽は良枝と一緒になって笑いながら続けた。

「そしたら次の日から、急に『先輩』って呼び始めて。」と手に持った名刺をロッカーから取り出したバッグにしまいながら、美羽は思い出し笑いをしながら言った。

「へぇ、慕われているのね。」と良枝は言った。

「私も、なんで“先輩”なのかわかりません。」

と、美羽は笑った。続けて、

「美穂子ちゃん、良枝さんが言った通り、箱入りで育ったのかも。学生時代は部活はやっていなかった様ですし。だからかな、体育会系的な世界に憧れたんじゃないですかね。」とまとめた。良枝は美羽の分析に納得したように返事をした。良枝は、

「美羽ちゃんは陸上選手だったのに、全く体育会系じゃないよね。」と言った。

「そうですね。」と美羽は返した。美羽自身もそういう属性ではないことは承知しているのだろう。

「ところで、美羽ちゃん、散々美穂子ちゃんの事を言ってもアレなんだけど、良いお誘いなら断っちゃ駄目よ。」美羽は良枝の発言に呆れたが、顔には出さなかった。結局、良枝もそういう話が好きなのだろう。

美羽は、「そういう良枝さんはどうなんですか?」とカマかけをした。良枝はまさか美羽がそのような質問をしてくるとは思わなかったために言葉にどもった。そして少し間をおいて、ゆっくりと告白を始めた。

「まだ、誰にも言わないで。特に美穂子ちゃんには絶対。まだ、先生や奥さんにも話していないから。実はね、半年前にお見合いしたの……」

美羽は、驚きの声を上げた。

良枝の話によれば、約一年ほど前に都内の結婚相談所に入会をした。三度ほど見合いをしたが、交際までには至らなかった。それから半年近く相談所から音沙汰がなかったが、渋谷の消防署に勤務する良枝と同じ、バツイチの消防士を紹介された。良枝によると見た目はイマイチというのだが、中々気立てはよく、付き合ってみるとなかなか頼りになる男らしい。消防士は自身の前相手との間には子供がいなかったことから、良枝は自分に子供がいることを気にしないか気を揉んだが、消防士は子供がいても構わないとのことだった。また、良枝は、消防士に自分の息子が懐くか心配だった。年齢を考えれば一番多感な時に親が再婚する、それは後の人格形成に影響しかねないと。しかし、実際に対面させてみると杞憂に終わった。今では自分よりも仲が良い。いつの頃から、息子は消防士を“お父さん”と呼ぶ様になっていた。それは良枝を驚かせたが、同時に思っていたよりも早く再婚を決意させた。そしてつい先日お互いの両親に挨拶をし終えたばかりという話だった。美羽は、一通り良枝の話を聞き終えると、「おめでとうございます。」と祝った。

美羽はここ暫くの良枝の様子の変化に気付いていたが、それが何かは分からなかったが、ようやくその変異に気づき美羽は素直に喜んだ。

「二人とも再婚同士だから結婚式は挙げないのよ。」

と、良枝は付け加えた。美羽もそれをどういう意味か理解したが、それは少し残念と思った。

良枝は、「美羽ちゃんはいないの、彼氏じゃなくても異性の友だちとか。」と再び蒸し返した。「とか」ってなんだろう。「とかって」と思いながら美羽は自分には現在そのような話がない事を伝えた。

良枝は美羽にそのような話がないことがわかると、

「次は美羽ちゃんね。」と言い、「美穂子ちゃんより先よ、絶対に。あの娘だって彼氏はいるんだから。」と付け加え、その場を離れた。

美羽は、最後の言葉は流石に癇に障ったが、気にしても仕方がないと思った。実際、美羽にはそういう相手がいない。しかし、今はそんな願望もなかった。全く無いわけではない。身体の奥底では乾きを感じているの自覚はあり、誰かに満たしてほしい渇望はしている。

結局、今日は何故、回診なのかは結局聞くことができなかった。回診には一度だけ美穂子が休みだった時に藪原について行ったことがあった。その時は診療所から東へ一キロくらい離れた古いアパートへ行った。そこには、伴野という還暦に近い男が生活保護を受けながら独りで暮らしていた。そして、この男は、新宿御苑周辺を走るジョガーにとって周知された有名人でもあった。昼間から酒を浴び、事ある毎に行き交うジョガーたちに罵声を浴びせる。酷い時には手にしているワンカップのガラス瓶を投げつけたりする。美羽はその犠牲者の一人であり、幾度も警察沙汰になる事もあった。おまけに重度の糖尿病持ちで、診療所の常連である。美羽にはめっぽう厳しく当たり、良枝の言うことにも一切聞かないが、一方で何故か美穂子の言うことだけは聞く。美羽にとってはそれが不満だった。だから、伴野のことは嫌いだった。気付けはもう十二時を回っていた。着替え終え、診療所を退勤した。

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