第2話

 新宿御苑外周を反時計回り。この周辺のジョギングコースとしては、オーソドックスなコースを三周。西條の体力的は限界に近づいた。呼吸は乱れ足取りは重くなってきた。今日はこれで切り上げようと思った。思ったより持久力がない自分に愕然としながら、背後には敷いてくる影を感じた。しかもかなり早いスピードで。無論、速度が速いから良いわけではない。その影は、足音もなくスルリ、と西條を追い抜いていった。ブルーのパーカーの裾がひらりと揺らし、頭部にピンク色のキャップを深く被った姿を目撃して、「女だ。」と、西條は目を見張った。その帽子の色は西條には少々趣味が悪い色に見えた。しかし、これまで見たジョガーのそのフォームとは一線を画していた。上半身の真直な姿勢が美しい。歩幅は大きなストライド走法、女性としては長身に感じた。最近は長身の女性は珍しくない。大きな走りが西條にそう見せたのかもしれない。一瞬だったが、確認するように目を見張った。体型とキャップからはみ出したポニーテールで“女”であることは確かだった。どんな女性なのか顔を見てみたいという衝動に駆られた西條は、今まで感じていた疲れを忘れ、女性ジョガーに追いつこうとスピードを上げた。

“速い”必死に駆け寄るが、追いつけない。相手は自分に気付いて追い抜かれないようとしているのか。しかし、その走りには余裕がありそのようには見えない。走りのリズムは一定で、ムラがない。ますますそのご尊顔が見てみたい。しかし体力は限界を過ぎていた。「彼女を追い抜き、そのご尊顔を拝見できたら今日は終わりにしよう。」と決めた。女性を追い越そうとラストスパートをかける。スピードを上げる一歩を踏み出したとき、西條の視界から女性の姿が消えた。否、西條の視界に変化が起き、一瞬でその視界は歩道のタイルに変わった。ドサっと大きな音がした。見事に転んだ。受け身をする余裕がないまさかの転倒だった。うつ伏せになった体を起こし天を仰ぐと、自分の身に何が起きているか理解した。と言うより理解せざる得ない状況になった。右足首に強烈な痛みが襲ったのだ。足を挫いたのだ。歩道に埋め込まれているレンガ調コンクリートの僅かな段差に足の先を取られたのだろう。右足のシューズが脱げて転がっていた。西條は身体を起こそうとしたが、どう動かしても右足首の痛みが勝り、なかなか起こすことが出来なかった。そして前を走っていた女性はその倒れる音に気づいたらしく、振り返えった。体を起こすことができず、痛みに悶絶する西條。女性は掛け寄り、大きく揺さぶるように声をかけた。

「大丈夫ですか?」

勿論、大丈夫ではない。西條は声が出ず二、三度首を縦に振った。女性は西條の肩を担ぎ歩道の端まで運んだ。西條の顔から玉のような汗が一気に吹き上がった。

女性は、西條の腰を下ろさせると、

「失礼します、見せてください。」と足首を押さえる手をどけ、確認するように小さくうなずいた。

「すぐ、二百メートル位先に病院があります。そこへ行きましょう。私におぶさって。」

「お、重くて無理だよ。おぶさるなんて。」

西條は、痛みに耐えながらも慌てて拒否した。

「大丈夫、貴方くらいなら運べます。我慢しないで、痛いんでしょ。早く。私はあなたを放って置けない。」と、女性は、きっぱりと言った。だが、最後に笑みを浮かべた。優しい顔だった。西條はようやく見ることができた尊顔。その顔をやたら美しかった。

 西條は華奢な背中におぶさることを躊躇したが、結局、渋々おぶさった。女性は軽々七十キロある西條をおんぶした。女性は西條がおぶさったのを確認すると、

「本当は当て木できるものがあれば良いのですが、少しの辛抱です。男の子だから大丈夫。」と言った。小学生に言われるような事が恥ずかしく、足首の痛みを羞恥心が一瞬追い抜いた。

 最後におぶさったのはいつ頃だろうか。それは、一番古い記憶、父親の背中におぶさった頃のことを思い出させた。子供の頃、父の背中は大きく感じられた。そのくらい頼もしいものに感じられた。母親におぶさった記憶はなかった。

女性は、西條をおんぶしながら、脱げてころがっていた靴を拾い上げてやや早歩きで病院の方角へ向かった。

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