第10話
気がつくと、アパートに戻ってきていた。いずれにしても一度部屋に戻るしかないのだ。
ドアの前で立ち止まり、少し息を整える。外からはなんの変哲もない、ただの丸いノブだ。ただし内側では今このドアノブはどうなっているのか。ひょっとしたらすべて自分の想像の産物かもしれない、とも思い始めていた。それなら良かったのだが、路地裏の光景を見てしまった今となっては、もうなにもわからない。
ポケットから取り出した鍵を鍵穴に差込み、そして違和感を覚える。
回らない。というよりも、すでに開錠されている。
鍵を抜いてそのままポケットに戻し、おそるおそるドアノブに手をかける。と、抵抗なくドアが開いた。体ひとつ分だけドアをあけて、室内に足を踏み入れる。
そこにあるのは、出てきた時のままの光景だった。電気はつけたままだったのかもしれない。そこまでは覚えていない。ただその淡い白色光に照らされている肉の群れは、あらためて見ても全身に寒気を催す。
壁にも天井にも床にも生え揃った乳房が、もう今にもはちきれそうなほど張りつめていて、微妙に揺れている。僕はすぐに気を取り直して、巨大な乳房になっている内側のドアの、乳首を掴んで内側に閉じる。
まんがいちにも他の住人にこの光景を見せてはいけない。靴を脱いで、キッチンスペースに上がってまだ乳房になっていない床のスペースをどうにか見つけて歩を進める。
ただ鍵をかけ忘れただけ。その可能性もあった。アパートを出たときには実際に動転していたのだし、そうであってもおかしくなかった。だが、しっかりと鍵を閉めたような記憶が、頭ではなく肌感覚として残っていた。
そう思いながら、引き戸に手をかけて、ゆっくりと開いた。
まず、そこにある小さな人影に気がついた。ベッドに腰を下ろしている。パンツスーツ姿で、顔を伏せて両膝のあたりに両腕の肘をついて、手で顔を覆っている。長い髪が垂れていて、その表情は見えない。それでも、髪に所々混ざる金のメッシュには強烈な覚えがある。しかし、そんなはずはない。彼女が、ここに来るはずがないのだ。
思考回路が錯綜して崩壊寸前の僕に、ゆっくりと顔を上げたその女性が、唇の端だけを持ち上げた少し疲れたような笑みを浮かべ、そしてこちらを指さしてくる。その仕草にも、覚えがある。懐かしい。なぜだか涙腺が緩んでくる。
「帰ってきたね。待っていたよ」
ベッドに腰掛けたままのその女は、記憶のなかの三谷ナナに違いなかった。だが、インターネット上の彼女はまったくの別人だった。とすると、この金のメッシュの女性は、また別の人間なのか。
「あれ? ひょっとして忘れちゃった……って、そんなワケないよね。君からメールしてきたんだからね。それにしても、よくアドレス覚えていたね」
Nanaから始まるメールアドレスだ。〈世界樹の館〉のアドレスから、会社の同僚と共に記憶にあるそのアドレスにも救難メッセージを投げていた。それが届いていたということは、やはり目の前の女性は三谷ナナなのか。いやしかし――。いくら考えても、混乱が収まらない。
「無理ないか。こんな状況だもんね」
目の前の、僕の記憶にある三谷ナナに合致する女性は立ち上がり、腕を組んでこちらを見据えてくる。
その力のある目線も、公安に収監されて以来一度も見ていない正真正銘の三谷ナナの姿に完全一致する。僕の初めての恋人だ。そう思うと、視界が滲んでくる。いつの間にか、目から涙が流れていた。それがなんの感情に起因するのか、自分でもわからない。
「公安の犬としての三谷ナナは有名になりすぎた」
こう切り出した三谷ナナが、話を続ける。
「だから〈世界樹の館〉にある体験談の文章をちょっと変えてやったんだよ。私の容姿やら口調の部分だけね」
それで、丸顔で舌足らずという似てもにつかない特徴が、三谷ナナのものとなっていたのだ。
「まさか、キミまでが騙されるとは思わなかったけど」
そういって口角を上げて笑う仕草は、記憶にある三谷ナナそのものだ。
このアパートの部屋がいつからこんな状況になっているか、そして今外で見てきたものもすべてありのままに話した。少しうつむき加減で目を閉じたまま、小さく頷きだけを繰り返しながらひととおり聞き終えた三谷ナナが、
――そう、もうすべて見たのね。
ひとりごとのようにつぶやいたあと、顔を上げてこちらを見据え、慎重に、それでいてはっきりとした口調で語りはじめた。
「実は日本国はもう崩壊一歩手前の危機的な状況に陥っている。これはもはや誰にもどうにもできない。乳房が指数関数的に膨張している、という説って聞いたことない? そのときは相手にされずに消えてしまったんだけれど、どうも正しかったことが今になってわかってきた。ある臨界点を超えると、一気に膨張して国が滅ぶってやつね」
そういわれると、パンツスーツ姿の三谷ナナの胸も、記憶にあるものよりも少し膨張しているようにも感じられる。が、ただの思いこみかもしれない。なにしろ、触れたことはもちろん、落ち着いて胸の隆起に視線を巡らせたことすらないのだから。
「街中に発生した場合は、完全に立入禁止にして人をシャットアウトすることにしているけど、あまりにも多発しすぎて隠蔽工作もそろそろ限界に近い。あと、こうやって家のなかに突然発生する例も多発している。公安はそのもみ消しに躍起になっていて、今日私がこの部屋に来たのもそのためね」
よく見るとその目の下には、くっきりとクマがあるのがわかる。
化粧で誤魔化してはいるが、それでもその疲れた表情は抑えきれていない。
「けれど」と、三谷ナナが続ける。
「それももう限界に近い。日本国の一般人に現実がつきつけられる日も、そう遠いことではない。でも、皆が現実を認識したときには手遅れよ。すでにこの国は、乳房に覆い尽くされて滅んでいる」
99%の国民はなにも知らずに、今日と同じ明日が来ると信じて生活している。
「現実を知っている公安の職員にすら、解決策を持っている人は誰もいない。皆、ただ場当たり的な対応を続けているだけ。誰かがなんとかしてくれる――そう思っているようにしか感じられない」
話の方向性が、変わってきている。
三谷ナナ自身が、その公安の仕事をしているのではないのか。
「だからね。もうこんなことを続けるのは、やめることにしたの」
なにをやめるといっているのか、考えをめぐらせる。
そして、重要なのは、やめてどうするかという点なのだろう、と思い至る。
「〈クロフネ〉に合流しようと思っている」
〈クロフネ〉は海外の組織ではあるが、トップは日本人という話だ。そして近年その工作員が多数日本に入り込んでいるはずだ。
途中からはある程度想定ができた結論だ。〈クロフネ〉という組織自体が、このときのためにあったのかもしれない。そんな風にも思えてくる。
「――キミも、一緒に来る?」
このセリフも、途中から予想できていた。そんな空気感があったのだ。
三谷ナナの強い視線をまっすぐに向けられた僕は、迷うことなく小さくうなずいた。
ふと、数日前の夢の風景が思い出された。屍人の群れのなかをかいくぐって、ふたりで走っていた悪夢だ。なぜだか、あのときと似ている、と思ってしまった。
夢から覚める直前、彼女に首筋を噛まれて崩れ落ちたはずだ。
現実にはあるはずのないシチュエーションだ。だが、もし彼女に噛まれたら、と夢想してみる。すると、不思議なことにそれほど嫌な感情は湧いてこない。それはそれで、いいのではないか、と、そんな風にすら思えてくるのであった。
「いいね、その感じ」
そう言いながら差し伸べてきた手をとると、いつになく満たされた気分だった。
壁に乳房 高丘真介 @s_takaoka
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