第9話
いつものコンビニの風景だった。
店内にはカップル客がひと組、小声で話しながらお菓子の棚を物色していた。若い男の手には缶のチューハイやビールを入れたカゴが下げられている。奥に進むと、お惣菜をいくつか手にしてレジに向かって歩いている若いサラリーマン風のスーツの男とすれ違った。と、壁掛け時計を確認すると、8時を指している。夜のこの時間帯としては、ほぼいつもどおりの客足のようだ。
どうしても壁や天井に目が向いてしまう。そこになにか不自然な突起物がないか、乳房が生まれていないか――。
だが、どこをどう切りとってみてもいつもどおりのコンビニだ。おにぎりとサンドイッチ等が並ぶ食品コーナーでは、見覚えのある大学生風の男性店員が気だるそうに商品の入れ替え作業をしている。その様子にも違和感はない。
けっきょく、お茶のペットボトルと菓子パンだけを購入して店を出る。国道から一本奥に入った道沿いのコンビニだ。人の行き来も車通りもそれなりにはある。皆、平常通りの営みを続けているように見える。そんななかで、僕だけが別の世界に生きているようだ。
すべては錯覚で、家に戻ったら元通りの――壁に乳房など生えていない部屋に戻っているのではないだろうか。そんな淡い期待も頭の片隅にはある。いったい何だったのかわからなかったとしても、無かったことにして生活を続けても良いとすら思う。それでなくとも、世界には不思議なことや知らないこと、知りたくもないことが溢れているのだ。考えたくないことは自分の世界から抹消して生きていても、それなりの幸せにはありつける。
コンビニの前で菓子パンを食べ終え、半分ほど飲んだペットボトルのお茶に蓋をしてビニール袋に戻す。そして、ハタと身動きがとれなくなる。
さて、これからどうするか――。
途方に暮れる、という言葉はこのときのためにあるのだろう。ドアが開いて外の空気を吸うことができた瞬間には、助かった、という思いだけがあった。だが、よく考えると当面の生命の危機がないというだけで、なにも解決はしていない。いっそのこと公安に駆け込めば良いのかもしれないが、今すぐにそれをする勇気もない。かといって、あのグロテスクな部屋に戻る気にもならない。
ふと、会社のことが頭をよぎる。そういえば、いったいどういう扱いになっているのか、気にかかる。数日間、ログインがなかっただけなので、ともすると誰にも気づかれていない可能性もある。ただ、メールへのリアクションがないことに首をかしげている人は間違いなくいるはずだ。
気がつくと、職場に向かって歩き始めていた。いつもは自転車で通勤しているが、歩いても1時間もかからない距離だ。通常時ならそんな面倒なことはしないが、今はその距離感がちょうど良い。とにかくなにも考えずに歩き続ける。
「たもつ君、私を君の世界に連れていってよ」
期待を込めた上目遣いで、口を結んでいるそのスマートな笑みが今でも頭にこびりついている。これがすべて虚構だというのだろうか。にわかには信じ難い。信じ難いが、それが事実なのではないだろうか。そう思い始めていた。ネットにいる三谷ナナは、僕の知る女とは似てもにつかないのだ。
「いいね、その感じ」
何度も聞いたそのセリフと仕草は、テキスト情報から妄想を広げて作り上げたものだ。そう判断するしかない。過去の記憶のうち、どこまでが現実だったのか。なにもわからない。
道中すれ違う人々は、ほぼ仕事帰りのサラリーマンだろう。皆、足早に家路を急いでいるように見える。女性の着衣を見ても、たしかに胸を強調するような印象はないが、かといってあえて覆い隠しているようにも見受けられない。普通のコート姿が多く、みな颯爽と歩みを進めている。
――〈膨張禁止令〉など、本当に存在しているのだろうか?
歩きながら、ふと、こんなことすら思ってしまう。
三谷ナナとのあの素晴らしい日々が嘘だというのなら、すべてが妄想だという可能性がある。在宅勤務が始まってからこの数年、世間との関わりがいったいどの程度あったというのか。ネットを介して繋がっているように錯覚していただけではないのか。それもすべて〈世界樹の館〉というフィルターがかかった情報なのだ。
〈世界樹の館〉以外の情報に触れたのがいったいいつのことだったか、もう思い出せない。もし、あのサイトが悪意ある嘘で固められていたら、いったいどうなるのだろうか――。
冷たい風が吹いている。こんなに長い時間、寒風に身をさらしたのもずいぶんと久しぶりのことだ。次第に脳が晴れていくのがわかる。アルコールの海を漂いながら、〈世界樹の館〉という物語に酔いしれていたのだ。もう何年もそこから脱していなかった。
物語、というワードが、身体に震えを生じさせる。
もし〈世界樹の館〉がある種のファンタジーだったら――。
〈膨張禁止令〉など発令されておらず〈クロフネ〉という組織など存在しない。日本は鎖国政策などとっておらず、今でも海外とは自由に行き来できるはずだ。
考えを進めるほど、本当にそうなのではないかという恐怖にも似た感情が押し寄せてくるが、そうなってしまうと、そもそもアパートの部屋を埋め尽くしていた乳房もすべて妄想ということになる。そう思うと、さすがにそれはないだろう、という冷静な判断に落ち着いた。もし、そこまですべてが覆されたら、もう自分は自己を保つことはできないだろう。
少し寂れたビル群の向こう側に、勤務する会社の社屋が見えてくる。三階建ての比較的小さい部類のビルだ。現実に戻ると、足が鈍くなってくる。着いたところでいったいどうすればいいのだろう。今の状況を、誰にどう説明したらいいのか、考えが散らかってまとまらない。
自分の席があるはずの三階フロアの窓に目をやる。まだ電気が付いている。具体的に誰が残っているのか、目を凝らして見ようとしたその刹那、名前を呼ばれた気がして視線を下に戻す。目の前に知っている顔があった。同期入社で同じ部署に配属された橋本だ。ちょうど仕事を終えて退社してきたところなのだろう。スーツ姿で、その手にはビジネスカバンが下げられている。
「おい、たもつ、いったい――」
こちらに向かってこようとする同僚に、反射的に背を向けた。
地面を蹴り、全力で走り出す。どこに向かっているのか、なにもわからない。まるでなにか別の意思に操られる自動人形になったように、ただ走り続ける。すぐに息がきれてくるが、それでも止まらない。自分の意思では止まれない。
――たもつ。
背後から、自分の名前が聞こえてきた気がして、ちらとだけ振り返る。見知らぬ人々の不審そうな視線は無視することとして、その先に目を向ける。同僚が、まだこちらを追って走ってきている。それだけを確認して、前を向く。ただ、なまりきった手足の動きは思いのほか鈍い。酸素が思うように行き渡らない。背後からは自分を呼ぶ声が次第に大きくなってきている。このままだとジリ貧だ。
なぜ自分が逃げているのか、それすらもわからない。それでも捕まってはいけない、という本能には逆らえない。危機回避のために必死に周囲を伺いながら、走り続ける。
と、裏道に続く細い路地に『立入禁止』の看板が出ている。その下には小さく、それでも目立つ朱色で『公安』の二文字。振り返ると、すぐに同僚の姿をとらえることができた。先程よりも大きく距離を詰めている。そういえば今でもプライベートでサッカーをしている、という彼本人の言葉を思い出す。引きこもったままの僕との運動能力の差は歴然だ。
気がついたときには、看板を乗り越えていた。人がぎりぎりすれ違える程度の細い路地を、ただひたすら進む。なにも考えず、前だけを見ていた。どのぐらい時間が経ったのかはわからない。もう走ることすらできなくなりただ歩いているが、背後から誰かがくる様子はない。
少し安心して歩みを遅くする。と、自分の息遣いの音、鼓動の音がやけに大きく聞こえてきた。気が付くと、それほど静かな場所に出ていた。古いビルに挟まれた狭い通路だ。通常は人が通ることなど想定されていないように見受けられる。通勤経路から少しそれただけのはずなのだが、まったく知らない街に迷い込んだような薄ら寒さを覚えた。ただ、周囲に人がいないということだけで、少し落ち着きを取り戻した。
どこに向かっているのかはわからない。そのうちにどこか知っている通りに出るだろうという期待をして、とにかく道が続く限りは前に進むこととする。
そして、角を曲がる。その刹那――。
もはや既視感があった。今となっては、そう思える。
どこからか舞い込んできたプラスチックのゴミが堆積する、そんなビルの裏側の小スペースだった。壁面や錆びついた金属の配管の継ぎ目から、びっしりと乳房が生えている。そして、コンクリートの地面からもいくつか発生している。壁を見上げると、かなり高い位置まで乳房が続いている。
これは現実なのか。
思わず背を向けて来た道へともどる。こんな街のなかに乳房が生えていることなど、ありえない。まだ妄想の世界から抜け出せていないのだろうか。そう思うと、自然と歩みが速くなり、そのうちに小走りになる。
立ち入り禁止の看板を裏から抜け、人々が行き交う通りに出た。もう同期の橋本もそこにはいなかった。それでも、どうにも落ち着かない。とにかく足を進める。いつも自転車で通っていた通勤経路だ。しかし、よく見ると所々に公安による『立入禁止』の看板が出ている。最近のものもあるが、ある程度年季が入っているように見えるものもある。僕はきっと、この看板を見たことがあるのだろう。視界に入れてはいたものの、ただの風景の一部として処理していただけなのだ。
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