第8話

 目を覚ました。


 夢を見なかったのか、それとも覚えていないだけなのか――。いずれにしても唐突な目覚めだ。息を吸いこんだ瞬間に、胃のむかつきに襲われる。過去最悪の気分だ。


 と、次には尿意だ。僕は反射的に体を起こして引き戸の方へ向かう。地面の乳房は気にせずに踏みつけながら進む。もう避けようがないレベルまで増殖しているのだ。キッチンスペースの方も、部屋を埋め尽くしていた小さかったはずの乳房が成長をとげて、立派な成人のものになっている。重なって融合しつつある乳房群もあった。


 トイレのドアをあけて、なかへ入る。手元に感じる強烈な違和感に気づいたのは、ドアが完全に閉まったあとだった。その対象物に目を向ける。ノブだ。トイレのドアノブが、完全に乳房になっていた。その乳房を思いっきり鷲掴みにしてドアを閉めたのだ。とりあえず便座に座って用を足すが、ふつふつと危機感が湧いてくる。乳房になっていた外へのドアノブと同じだ。それがなにを意味するかぐらいはすぐに思い至る。


 水を流してズボンをあげてそしてノブがあった場所の乳房に、おそるおそる手を伸ばした。


 懸念していたことは、予想通りに起こっていた。


 ノブが回らない。つまり、ドアが開かないのだ。やはりそうか、と、今度は冷静に受け止められた。ズボンは履いたまま、いったん便座に座りこんだ。どうするか、なんとかしようがあるのか、考える。ドアノブはすでに、手のひらには収まらない程度の大きさの乳房になっていた。つい数時間前まで、ノブの周辺に小さな乳房がある程度だったのだが驚異的な巨大化の速度だ。そして外に続くドアと同じように、ノブがこうなってしまった場合、それはもうノブの機能は果たさない。ただの乳房だ。


 なにかないか、とかすかな希望を持って周辺を伺うが、壁は隙間なく乳房で埋められていて、床はどうにか両足をつくだけのスペース以外は乳房だ。


 天井に目を向ける。当然のように無数の乳房だ。ただ換気扇が半分ほど残されていて、そこから空気の出入りはあるようだ。思いたって便器に登り、換気扇の位置にある樹脂製の網に手をかける。外すためのつまみを引っ張ってみる。と、長年堆積したホコリが降ってきてもろに顔に降りかかる。思わず顔を背けてやりすごした。頭と服についたホコリを払い除けて、もう一度手を伸ばす。つまみを掴むことはできた。ただ、取り外す方向に動かしてみても、そこから先がびくともしない。よく見ると乳房に変わった部分が天井と融合するように癒着していて、剥がそうと思うと完全に壊してしまうしかないようだった。

 そこまで確認して、一度手を止めて便器から降りる。便座にすわって、冷静に考える。もし換気扇を蓋している網を壊したところで、そこから出ることなどできない。せいぜい腕一本を差し入れる程度なのだ。


 その後しばらく、狭いトイレのなかで試行錯誤してみたものの、いっこうに解決しないまま時間だけが経ってしまった。さいわい、水はある。用を足すこともできる。すぐに生命が危機にされされることはない。そう結論すると急激な疲労に襲われる。便座にすわって、そのまま水の入っている陶器製タンクに背中をあずけ目を閉じた。タンクの上部に生えている乳房が、ちょうど枕のように首筋を据えることができて、心地よかった。




 何時間か経ったのか、それとも数十分程度なのか、まったくわからない。


 思いのほか、体は軽くなっていて、体感的には数時間は寝ていたような気もする。


 あらためて見回してみても、相変わらず視界のほとんどを乳房が占めている状態だ。それも、記憶にあるものよりも全体的に大きくなっているように感じられる。やはり、相応の時間が経っているのではないだろうか、と推定する。


 ノブの位置に目を向けると、明らかに巨大化している。それはもうノブの位置というよりも、腰辺りの高さのドアを覆いつくすほどの巨大なものになっている。中央にある乳首もある意味で、滑稽なほどの大きさだ。


 ふと、その乳首が、ちょうどノブの大きさぐらいあるのでは、と思いついて、その自分の思いつきに対して、自分で笑ってしまう。


 ただの冗談ではあるのだが、のっぺりとした白い面に対して、根元がくびれた丸い茶色の突起がある、そのフォルムは、見れば見るほどたしかにドアノブに見えてきた。


 おそるおそる、右手を伸ばしてそっと乳首に触れる。と、ぷるん、と肉が揺れ、すぐに止まる。今度は手のひらでしっかりと掴んだ。そして、ひねりを加える――。


 それは、今まで感じたことのない触感だった。ただ肉を掴んでねじっているだけなのだが、ある一定以上の力を加えると、中心にある芯までが時計回りに回転するイメージ、と言えば良いだろうか。ぐりん、と気持ち良く乳首が回った。そのまま押してみる。と、あっけなくドアが開いた。


 トイレから出て、しばらくそのまま立ち尽くす。


 もう一度、トイレのドアノブを占領している巨大な乳首に手を伸ばし、掴んでみる。そして時計回りにねじると、さきほどと同じように芯から回る触感があった。手を離して、もう一度、ねじる。また、同じ触感だ。


 トイレのドアノブはそのままにして、振り返る。視線の先に外に続くドアをとらえる。そして、ドアノブに焦点をあわせた。僕はおもむろにドアに向かって足を進める。


 ノブは相変わらず乳房になっている。ただ、それは記憶にあるよりもずいぶんと大きく、ドアを覆っている。見た目としては、トイレとほぼ同じ状態だ。そのまま、乳首に右手をのばす。それをノブのように回すと、やはり芯が回転する手応えがあった。胸が高鳴ってくる。手の震えと焦る気持ちをなんとか抑えながら、ゆっくりと力を込めて押してみる。


 と、ドアが外側に開いた。外からの冷たい風が、舞いこんでくる。空が見える。暗い。時間の感覚はなかったが、夜のようだ。チラとだけ、星が瞬くのが視界に入った。そこまで確認して、一度ドアを閉める。すぐにベッドルームへ戻り、最低限の着替えを済ませて、パソコンデスクに放置してある財布を掴んでポケットにねじこんだ。

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